本くらいの分量を与えられなければ自分の説は人に示せない

 ひとの考えは会議で変わるだろうか。

 間違いなく変わる。…ことがある。

 いつも変わるとは限らないが、変わることはあるよね。

 数分の発言であっても「ああ、なるほどそうだったのか」と思って、反対が賛成になったり、賛成が反対になったりする。

 しかしである。

 そうはいっても、数分の発言、数百字の短文でひとの考えを変える、認識を覆すのは難しい。至難だと言っていいだろう。

 キレのいい発言や文章なら、ごく短い言葉で認識の急所を突くことはできる。けれども、そんな芸当ができるのはこの世でほんの一握りの人ではないだろうか。

 従来広く行き渡っていた言説や認識を覆すには、体系的な展開が必要である。旧説を断片的に外から叩いたって、そんなものはあまり力にはならない。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル大論理学研究』)

体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。(ヘーゲル『小論理学』)

 だから、展開する必要がある。

 具体的には、「本」にしなければならない

 そうでなくても、「講義」とかのような体裁を必要とするだろう。

 だから、マルクスだって、経済学批判として『資本論』という大著を書いたのである。

 

 会議でいくら自由に発言ができても、それだけでは自由な議論ができる環境とは言えない。本を出せたり、人を集めて講演をしたり、そういう体系を示す機会が与えられて、初めてひとは自由な議論ができる環境が保障されるのではないだろうか。

 ましてや従来の説が圧倒的物量で展開される中で、自分は本すら書けず、数分の発言時間しか与えられないような条件であれば、その非対称性は明らかであり、およそ「自由な議論」たりえない。

 それは、一般社会であろうが、小さなコミュニティであろうが、共通の目的で結ばれた中ぐらいのゲゼルシャフトであろうが、変わらないだろう。*1

 

 言論の自由表現の自由の一部を構成する。

 表現の自由は単に「どういう言論でも自由に述べてくださいね=どんなことでも言える」という質的側面だけではなく、出版の自由、集会の自由のような量的な側面も含んでいる。自分以外の人に広く伝え、認識を交わし合い、豊かな議論をするためには、本を出したり、講演したり、自由に集まって争論をすることは欠かせないのではないだろうか。*2

*1:“階級社会であるがゆえに出版や集会のような自由は必要だが、同じ目的を持って集まったコミュニティでは会議によって十分意思疎通できる”という考えがあるかもしれないが…。

*2:ある人が本を出すときに、その一隅に入れらる「本書は著者の個人的見解であり、著者が属している組織・企業の意見を代表するものではありません」というエクスキューズは、結社と個人の自由を両立させる、一つの知恵なんだろうなと思っている。