アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』4。

 川でウナギをとる話が興味深かった。

 ウナギは絶滅危惧種ではないのか、という問題があるが、その問題はちょっとおいておく。ぼくが興味を持ったのは、筆者(アキヤマヒデキ)の知識と実践力についてなのだ。

 『ボクらはみんな生きてゆく!』は都会から田舎に戻ってきた主人公(秋山)がまず狩猟をはじめ自然を相手にする様々な「ビジネス」で生活を立てていこうとする実話である。まさに無数の生業からなる「百姓」の思想である。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 4巻前半は川で天然ウナギをとる話。

 まず、この冒頭にあるエピソード。小さい頃、川でウナギを見つけ、友達といっしょにあと一歩で捕獲するところまで追い詰めたのに、その騒ぎを横で聞きつけた大人(どっかのおっさん)が「ウナギか!」といって、あっという間に獲っていってしまった。アキヤマは呆然とし、そのことが悔しくて忘れられないのだという。

 わかる。

 なんだろう。ぼく自身もそんな体験をしたような気がする。よく思い出せないのだが。

 思い出す限りで思い出してみると「餅投げ」かもしれない。ぼくの実家の集落の秋祭りで、神社が餅投げをやっていた。餅には景品の札も入った「当たり」もある。しかし小さな子ども(小学生低学年)はなかなか取れない。100個くらい投げられて、1個拾えば御の字だっただろう。その1個を拾いに行って、取れそうだ! と思った瞬間に、大人に突き飛ばされて横取りされたことがある。

 その感覚に似ている。

 いいオトナが、子どもを押しのけて強奪していくなどみっともないではないか。まさに大人気ない振る舞いだ。それが子供心にもわかった。「目の前の欲」という利害のために、子どもなどかえりみることなく、平気で踏みつけられるのだ、という現実を押し付けられたような気がする。嫌なリアル。そして、子どもはそれに一切抗えないという、なんとも言えない無力感に苛まれる。

 たぶん、アキヤマが味わった嫌な感覚はそれに似ているのだろうと勝手に想像した。この、タオルを持ってくる、不快な周到さ、本人の無自覚さが絵柄にすごくよく表れている。

アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』4、p.25、小学館

 まあ、それは本筋のことではない。

 ぼくが感心したのは、アキヤマが天然ウナギを獲ろうと衛星写真ストリートビューでその場所の品定めをしていくことだ。

穴釣りに行くにあたり

まずは川のどんな所にウナギがいるのか?

それが問題だった。

ネットの衛星写真マップや

グーグルのストリートビューの画像を見てみた。

 

さて…ウナギはそのどの辺りにいるのか?

このテトラあやしいかも…

ここならあるんじゃ…

地図に目星つけて

行ってみるか!

 

 そこにネットで何か情報を仕入れるとかいうようなプロセスを経ていないように見えるのだ。単に省略されているだけなのかもしれないが…。

 そしてアキヤマは実際にウナギをたくさん釣ってしまうのである。

 いや、すごくない? 

 確かにネットを検索すると、ウナギの穴釣りについてはいろいろ動画や解説サイトがある。だけど、どの場所にいるかという情報は一般論以外にはほとんどない。

 例えば、ウナギをどこで釣ろうかという時に、一般情報を探してみる。 

funemaga.com

 

ウナギは街中の河川に広く分布していますが、特に海に近い汽水域(=淡水と海水が混ざった水域)に多く生息しています。

物陰に隠れる習性があることから、テトラポットや捨て石、水草の周辺など障害物が多い場所は特に釣れやすいポイントです。

また、川の流れが速い場所では大型のウナギを狙えるのに対し、流れが緩やかな場所では数釣りを楽しめます。

 一般的なことはわかる。だけど、ぼくであれば、これだけでは、どの川に行ったらいいのか、を選定はできない。「街中の河川に広く分布しています」とあるので、じゃあ、ぼくの住んでいるのは「街中」だから、近くの川の「汽水域」に行ってみるか…と思うのですが、近くの川の汽水域は相当川幅が広く、深くなっている。もう行く気力が失せてしまう。

 それでも勇気を持って汽水域の川に入ったとしよう。

 「テトラポットや捨て石、水草の周辺など障害物が多い場所」…近くの川の汽水域にはそういうものが見当たらない。ぼくならもうここで頓挫だ。

 しかしアキヤマはマンガでみる限りでは、ストリートビュー衛星写真で「目星」をつけてしまうのだ。

 そんなことができるのだろうか?

 確かに一般的な「ウナギはこういう箇所で穴釣りできる」という情報は使える。だけど、そうした一般論から実際に釣ることができるようになる現実まではかなりの距離がある。その距離を埋めてしまえるというのは、アキヤマに自然を対象化し、身体の感覚に落とし込んでいるという実践的蓄積があったに違いないと思うのである。

 『山賊ダイアリー』の岡本健太郎では、祖父を指南役として幼少期にかなりの実践的な蓄積があったように読める。ここでもアキヤマは幼少期に同様の蓄積をしていたことが、大きな影響を果たしているに違いない。

 ぼくも田舎育ちだから確かに川や田んぼでよく遊んだ。釣りもかなりやった。生き物もとった。

 だけど、遊びの中に目的意識性を持ち込むことは薄かったように思う。つまり何かの目的を達するために様々な工夫をして、その目的を遂げてしまおうとする努力である。釣りにしたって、釣り竿に糸と仕掛けと餌をつけて垂らして終わりである。どうしたらフナが釣れるのかとか、雷魚だけを狙うにはどうしたらいいかなどという思案は皆無だった。

 ぼくの父親はそういう目的を達するための実践的工夫という点で相当な力量がある。「地頭がいい」とはああいう人のことを言うのだろうと感心する。

 アキヤマが、ウナギの釣りでも、そしてイノシシやシカの罠量でも、工夫に工夫、思案に思案を重ねて他の猟師が羨望のあまり邪魔をしたりするほどに豊猟の成果を得られるのは、同じことなのであろう。

 アキヤマの姿をみていると、自分は自然という豊富・多様・複雑さの中で本当に実践的な工夫ができない人間だとつくづく思わされる。貧しい「理論」で現実を裁断しようとする、悪い意味での「頭でっかち」なのであろう。