松竹梅を買い占めた父

 お盆で帰省したとき、父(84歳)の昔話を意識的に聞くようにしている。というか、録音している。

 父の語りは「植木・盆栽の卸の成功譚」という体裁を持っていて、めっぽう面白い。アジテーターなのであろう。

 十八番は、「1988年末の松竹梅の相場を立てた」話である。

 昔は松竹梅の盆栽を会社や店、個人宅などで正月に飾っていた。裏の話を言えば、かつてはヤクザの「みかじめ料」の代わりにもなっていた。いずれにせよ盆栽業界では正月の縁起物としての一大マーケットがあった。

 だが、昭和天皇の下血騒動が始まった1988年の秋、日本中の誰も松竹梅を作ろうとしなかった。もし裕仁が年内に死ねば翌年の正月にはそんな「おめでたい」ものは、まったく売れないだろうからである。

 しかし父はそこで豪快に啖呵をきる。「ばかやろう、経済にどえらい影響があるから、そんなもん、天皇陛下が本当に死んでも、松の内までは政府が『死んだ』っていうわけがないだろ!」――そう踏んで、父は日本中の梅という梅を買い占めた。松竹梅のどれか1つなければ松竹梅などできないからである。しかし、もし読みが外れれば大損となる。 ……

 

 ……てな感じのエッセイを書きました。続きは、日本コリア協会・福岡の「日本とコリア」263(2022年9月1日)号でお読みください。

 

 父が植木・盆栽の業界にいたはじめの頃は、小売の主な市場は縁日だったと言います。お祭りなどで夜店で鉢植えや苗木を売買することが大きなマーケットだったわけです。だからヤクザなども絡んでいました。

 そこから、ホームセンターなどで売るのが主流になっていく、苗や種子などに権利が生じるなどといった現代的な販売の形になるまでの変遷があります。現代的な業態になるまでは、商売の仕方が粗野すぎて目も当てられない話が多いのですが、それこそが「戦後」であり、そこが聞き取りの醍醐味でもあります。

 

 父の話で面白いと思ったのは、他にもいくつかあります。

 

 例えば、Aという種類の松が福島県のあたりで1本5000円という超高値で売れるという情報をつかみます。

 しかしA松は当たり前ですが、なかなかありません。

 ところが、父が偶然徳島県で植木の買い付けに行った時、植木を生産している人の畑に、A松が雑然と「これでもか」というほど植えられていました。A松が福島県でほしがられているという情報など全く知らないわけです。

 父は「しめた!」と心の中で思いましたが、おくびにも出さず、他の苗木を威勢良く買い、ついでに「ちょっとA松も仕入れとかんといかんで、あそこにあるA松もおまけして売ってくれんかなあ」と言いいます。

 「いいよ」と言って1本100円、まさに二束三文で買ってしまいます。

 情報が瞬時にネットで伝わるということがない時代には、こうした儲け口がたくさんありました。学歴もなく資力もない地方の一商人であっても、やり方次第でいろいろ儲けられたのです。父の父、つまりぼくの祖父は実直な農民であって、「1本10円のものを決まった量だけ売る」という世界にしか住んでおらず、父はそういう祖父の山っ気ゼロのクソ真面目さが実に歯がゆかったようです。

 

 戦後の経済を小企業の社長として現場で担った父の話を聞き取ることで、戦後経済の一つの特殊な姿が見え、特殊を通じて普遍が認識され、戦後をどう生きてきたかを通じて戦後の人々の平和意識などが見えてくるといいなと思っています。

 「日本とコリア」のその一文にも書いたのですが、8月15日付の「しんぶん赤旗」で柳沢遊・慶應大学名誉教授が述べていた次の言葉が、ぼくにはとても大事なように思われたのです。

戦後77年たったいま、直接の戦争体験を聞くことは難しくなりましたが、戦後の平和体験を身近な人から聞くことは可能です。祖父・祖母などからの「戦後」生活の聞き取りと、世界史的視野にたった戦後日本社会史の学習につなげることで、憲法の意味を捉え直す基礎的な力になっていくはずです

 平和意識のようなものを先回りして無理に「抽出」しようとするときっとうまくいきません。

 どんな生活をしてきたのか、どんな仕事をしてきたのかを無心に聞く中で、おぼろげに浮かび上がってくるものがあるんじゃないか、なくても構わない、そんな悠然とした気持ちで聞いています。別に「平和」に結びつかなくても、自分のルーツを知れる貴重な機会ですから。

 

 憲法9条は一路空洞化していった歴史ではなく、戦後多くの国民に支持され、選び直され続けてきた歴史だと思います。自衛隊というものをつくり、専守防衛の範囲で認めた解釈を付したことも、条文的には矛盾に満ちてはいるものの、「現実主義的な9条のカスタマイズ」として国民が選択したものでしょう。

 そのような広い意味での9条支持の意識は、直接には「悲惨な戦争体験」、すなわち「戦争はもうこりごりだ」という意識に支えられていました。

 アジア最大の軍隊を持っていた日本は、戦争に負け、原爆を落とされ、空襲で焼け野原にされ、多くの人命を失った後に、日本国民は「ようし、今度はもっと軍備を増やしてうまくやってやろう」とか「核を持ってアメリカ野郎をギャフンと言わせてやろう」とは思わなかったわけです。

 その直接の体験に支えられた世代は消滅しつつあります。

 ですが、柳沢が言うように、後続の戦後民主主義世代は、まだ十分な厚みで存在します。

 この世代の中にある平和意識をうまく継承できれば、9条的な「戦後」は新しい形で維持していけるとぼくは思っています。