『はだしのゲン』は核均衡論の味方か


 マンガ評論家である呉智英氏が「週刊ポスト」(2018年8月14・27日号)のインタビューでぼくの近著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)にふれ、ぼくについて言及してくれています。

 ……実は核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。
 そう書いたのだが、共産党系のマンガ評論家紙屋高雪は、四月に出た『マンガの「超」リアリズム』で、「『ゲン』を高く評価するはずの呉は、驚くべきことに」「核均衡論を肯定的に紹介」と批判する。この批判の初出誌は民主教育研究所の「人間と教育」である。
 いや、まあ、なんと言おうか。この人たちは、ねぇ。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2

マンガの「超」リアリズム これだけ読んでも分かりにくいかもしれません。
 朝日新聞が最近核抑止力論を特集し、核抑止力が平和を生み出してきたという「真実」を事実上、「良識派」たる朝日新聞がついに語り始めたと呉氏は喜んでいるのです。
 そして、呉氏が1996年に書いた『はだしのゲン』解説で、『はだしのゲン』が核抑止力論のバリエーションである核均衡論のベースになっているという主張が今にして思えば勇気のいるものだったと述懐します。
 この文脈の中で、呉氏が「共産党系」だと指摘する紙屋なる評論家が、最近の著作でもこの呉の認識に憤っているのですよ、と皮肉を言っているのです。ぼくが「共産党系」と規定され、ぼくの文章が「人間と教育」という雑誌であることを示すことで、ぼくの言説が旧式の「進歩的知識人」というか「既成左翼」の一環であることをほのめかしているわけですね。


 ぼくの考えを述べる前に、まず率直に呉氏にはお礼と感謝を述べておきます。
 他に適当な例がなかったせいもあるでしょうが、呉氏のような「大家」がぼくのような場末のブロガーの意見をわざわざとりあげて紹介してくれたことに、まず感謝したいのです。皮肉でもなく、本気で。ありがとうございます。
 さて、その上で、こっから先は、別に攻撃するためじゃなくていつもの通り、ニュートラルな意味合いで呉氏を呼び捨てしたいと思います。(これをことわっておかないと、「こいつ、呼び捨てにしている! どんだけ無作法なやつだ」と本気で思う人がいるのです。さすがに呉氏はわかってくれるでしょうが。)

「ぼくはこの呉の評価に近い」

はだしのゲン 1 最初に言っておきますと、ぼくはこの本の中で呉の『はだしのゲン』評を全体的には高く評価しているんですね。
 ぼくが『ゲン』について書いたのは、「『気持ち悪い』『グロイ』という『はだしのゲン』の読みの強さ」という章です。子どもたちの中で『ゲン』を読んだ人は多いんですが、彼らの感想に「気持ち悪い」「グロイ」というのがけっこうあります。それは悪いことじゃなくて、実は作者の中沢啓治が強く望んだ読まれ方であって、「気持ち悪い」「グロイ」ことが原爆被害の本質であり、そういう露悪的とも言えるリアリズムこそが強いんだとぼくは思ったんです。
 しかし、戦後民主主義は、戦争は「聖戦」ではなくむごい侵略戦争であったという露悪のリアリズムを発揮していた戦後直後は生々しかったんですが、次第に「平和」や「民主主義」というタテマエから現実を裁断するようになって形骸化が生じるようになります。
 呉は60年代後半以降の戦後民主主義批判の潮流の中に出現して、その流れから『ゲン』を戦後民主主義的なタテマエで評価するむきに痛撃な批判を加えたのです。
 呉は『ゲン』を「平和を希求する希求する良識善導マンガ」として評価することを強く批判し、『ゲン』は民衆の中にあった怨念、原初的な家族愛を描いた民話(フォークロア)として評価します。

ぼくはこの呉の評価に近い。その素朴な怨念や原初的感情が、意図せざる露悪のリアリズムとなって、戦争の本質を衝くのである。(拙著p.56)

 てな具合です。
 もともとぼくの文章は、そういう呉評価の文章であることをわかってほしいのです。

呉のポジショントーク

 その上で、ぼくは呉への批判も書いているんですね。
 その批判の箇所こそが、呉がとりあげて皮肉を書いている部分なのです。
 呉は「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガである」(政治思想の道具としての作品)という読み方に反対し、反戦反核という思想が本当に正しいのか、という問いを立て、その中で反戦反核の対極にあると考えられる「核兵器の恐怖の均衡が戦後の平和をもたらした」という核均衡論を肯定的に紹介します。


 だけど、誰がどう読んでも「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガ」だと思うんですよ。それが「平和」とか「民主主義」とかいうタテマエからじゃなくて、原初的な感情や怨念から強いほとばしりとなって表現されているので、立場をこえて心を打つわけです。別に「反戦反核」に同意していない人であっても、面白がれるんです。
 そういう意味では原初的な感情や怨念と反戦反核は、中沢啓治において癒着しているんですね。離れがたい。
 そこを呉が無理に引き剥がそうとするので、呉の言説のその部分はかなり見劣りするなと書いたわけです。
 はっきり言えば呉のポジショントークです。
 戦後民主主義的良識を反発的・機械的に批判しようとするあまり、無理筋な立論をやっちゃっているのです。
 もう詳しく見てみましょう。


 呉は今回のインタビューでこう言っています。

『ゲン』の中に一貫して流れる原爆への原初的恐怖と怒りこそこの作品の大きな価値であり、また、これは核均衡論の重要な基盤でもある、と。もし、核兵器の威力が大したものでないと誤解されていたら、すぐに核の撃ち合いが始まるからだ。……だとすれば、実は核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。(強調は引用者)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2


 もとの中公文庫の解説では、『ゲン』と核均衡論を直接に結びつけずに、「核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡論を支えているのである」(呉「不条理な運命に抗して」*1)というふうに「核均衡論の根底には、核への恐怖がある」という一般論を述べていました。
 ところが、今回のインタビューでは呉はふみこんで、「核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている」とまで書いています。『ゲン』が広がったからこそ、原初的恐怖が煽られ、核均衡論の基礎がつくられた……というふうに具体的な因果として読めます。

史実的につじつまがあわない

 第一に、これはそもそも史実的に無理があると思うのです。
 核均衡論は核抑止力論の一変種ですが、呉も書いているとおり、中でも米ソの核均衡に着目した考え方です。ソ連が崩壊するのが1992年で、『ゲン』が翻訳されて国際的に広がって言ったのは2000年代からですから*2、「感情的反核論の世界的広がり」を基礎として「核均衡論」があり、その「重要な一翼」を『ゲン』が「担っている」というのは明らかに言い過ぎです。
 そして、『ゲン』が国際的に広げられていった2000年代を契機に、むしろ「核兵器の非人道性」を強調する国際世論が強まり、2013年には「核兵器の人道的影響に関する国際会議」が開かれ、ついには核兵器禁止条約へと結実しました。
 因果関係がどれくらいあるかは別にして、歴史的に起きている流れは逆ですよね。『ゲン』が国際的に広まっていない間は、核均衡論が強く、『ゲン』の国際的受容とともに廃絶論が勢いを増した、っていうことですから。

「原初的恐怖」ではなく理屈上の恐怖

 第二に、先ほどのコロラリーでもありますが、米ソの世論においては、「原初的恐怖」ではなく「理屈上の恐怖」がゲームとしての核均衡論を支えた、と考えた方が理解しやすいんじゃないでしょうか。
 「原初的恐怖」というほどの恐怖を体験した人は、常識的に考えて、見るのも触るのも嫌なはずで、自国が「核均衡」というようなゲームの道具に使う政治を支えるでしょうか、と思います。
 例えば性暴力を「原初的恐怖」で受けた人は、性暴力を利用する手法に賛成するでしょうか。なるほど、性暴力の「原初的恐怖」を脅しに使うことで相手を支配する(抑止する)ことはできると思いますが、「核均衡」は自国の政府がその手法を使うことへの支持が含まれていますから、それは支持されないと考えるのが常識的な理屈の流れじゃないですかね。
 むしろ「原初的恐怖」ではなく、理屈の上での「恐怖」から編み出されたものがゲームとしての「核均衡」であるように思われます。
 アメリカなどで被爆者が広く講演をしたりしてその実相を明らかにするのは、戦後もかなりたってからです。「原初的恐怖」を民族的・個別的な体験として持たないアメリカなどで、それを経験し子孫が日常的に教育されている日本とは核被害についての認識に大きな落差があったのは当然です。拙著『マンガの「超」リアリズム』でも「クリーンな言語」で戦争を「ゲーム」のように語るアメリカのシンクタンクの人たちの話(竹田茂夫の『ゲーム理論を読みとく』の冒頭)を紹介していますが、極端に言えばああいう感覚ですよね。ゲームにおける行動の動機となるような、理屈の上での「恐怖」。


日本の戦後の特殊性をうまく説明できない

 第三に、呉の議論では、核被害と戦争被害を味わった日本国民*3が「あんな怖い思いは二度と嫌だから強力な軍備を持とう」「核武装をしよう」という意識・選択にならなかった歴史をうまく説明できません。戦後の日本は、憲法9条を変えず、核兵器廃絶を曲がりなりにも民族的要求として掲げてきたわけですから。*4
 呉が好んで使っている「核アレルギー」という言葉は、米国高官がこのような日本世論の特殊性に呆れ果てて使った言葉がきっかけだとされています。

この言葉〔核アレルギー*5〕が使われるようになった契機は、一九六四年夏に起こったアメリカの原子力潜水艦シードラゴン号の佐世保寄港受け入れ問題であった。寄港反対運動が起きるという予測が強まるなか、日本の世論の反応を楽観しているというアメリ国務省高官の声が報じられた。新聞記事は「米側をもっと信頼してもらいたい、ということ、それに時間をかければ日本の『核兵器アレルギー』はおさまるだろうということがあるようだ」と推測していた(『朝日新聞』夕刊、一九六四年八月二九日)。(山本昭宏『核と日本人』p.100-101)

 この経緯を調べた山本昭宏は、「アメリカと日本政府の核戦略に沿わない世論が目立つときに『日本人の核アレルギー』という言葉がアメリカ高官や日本の政治家の口から発せられる傾向にあったのである」(山本前掲書、p.102)と述べています。


 歴史の歩みで見てみると、『ゲン』のような核被害の「原初的恐怖」があまり知られておらずブッキッシュな一般論として核の「威力」が考えられていた国際環境では核均衡論が勢いがあったけど、『ゲン』をはじめ被爆者の証言などで「原初的恐怖」が広く国際的に知られる中で核均衡論や抑止力論にかわり核兵器廃絶の潮流が大きく育ってきた、ということになります。
 そして、核への「原初的恐怖」を民族的体験として持っていた日本だけは、はじめから日米支配層がいうところの「核アレルギー」と言われるほどの拒絶感を持っていたというのが歴史の現実じゃないでしょうか。


 核均衡論や核抑止力論が「現実的政策」かどうかを今ぼくは問題にはしていません。『ゲン』がその「重要な一翼を担った」マンガだったなどという横車を押すのは、やりすぎだということです。
 『マンガの「超」リアリズム』でも書いた通り、戦後民主主義の形骸化した部分への批判者として、呉には歴史的な役割が確かにありました。しかし、その身振りが石化してしまい、逆の硬直を生んでしまっているんじゃないかと思います。

*1:中沢啓治はだしのゲン』中公文庫7巻所収。

*2:1970年代後半にごく限られた翻訳はあります。

*3:もちろん日本は侵略戦争や植民地支配の加害をしてきたのですが、日本人の多くに「戦争は嫌だ」「核兵器は嫌だ」という意識が広がった現実について述べています。

*4:米軍の駐留を容認し、米国の核の傘にいたではないか、という反論はあり得ますが、米軍は沖縄へ集中され、核兵器の持ち込みの現実は「核密約」にされ、いわば日本人多数が日常的に意識しないところに隠されていったからではないでしょうか。

*5:引用者注。