斉藤利彦『明仁天皇と平和主義』

天皇明仁の問題意識

 天皇生前退位が話題である。
 天皇が訪問できなくても、「調子悪い」って言って寝ておけばいいんじゃないの? 無理していく必要あんの? と思っている人も多かろう。(まあ、それでもいいと言えばいいのであるが。)


 そのあたり、天皇明仁が、象徴天皇というものをどうとらえているのかを知っておく必要がある。
 そこで本書斉藤利彦『明仁天皇と平和主義』ですよ。


 『明仁天皇と平和主義』が描く明仁像は、彼が日本国憲法に定められた象徴天皇とはどういうものかを模索してきた天皇だというものである。
 斉藤の本書で紹介されている明仁の言葉は、次のようなものである。

象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています。(本書位置No.1495=kindle版の位置情報、以下同じ)


明仁天皇と平和主義 (朝日新書) 「日本国憲法に定められた象徴天皇」ということは、政治への権能を一切持たない身でありながら、ロボットではなく、主体的な意志を発揮しながら憲法の定める平和主義などの価値を体現するという課題である。


 斉藤は次のように述べる。

日本国憲法の定めた自己の権能を厳しく律しながら、明確な意志と目標をもってその公務を実現しようとしてきた。(本書位置No.1492)

 明仁自身がどう育てられてそうなったのかは、本書にも記述があるし、本書が典拠にしている文献にもそれらの記述がある。興味のある人は読むといい。

公的行為の活用が理解のカギ

 憲法第4条には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とある。憲法に定められた天皇としての仕事は「国事に関する行為のみ」だから、ここから出てくる象徴天皇観の一つは「ロボット」ということになる。
 しかし、明仁は、「ロボット」を否定した。斉藤は明仁の皇太子時代の次の発言を紹介している。

「儀式などでの言葉は、主催者側の希望を入れなければいけないが、それだけではロボットになってしまう。立場上、ある意味ではロボットになることも必要だが、それだけであってはいけない。その調和がむずかしい」(本書位置No.1471)

 国事行為ロボットであることを脱出するカギは、公的行為であった。
 斉藤は、「天皇の行為として制度的に認められたもの」(位置No.1460)として

  1. 国事行為
  2. 公的行為
  3. 私的行為

の3つを挙げている。
 斉藤は次のように指摘する。

 象徴としての行為は、「公的行為」に分類されるものであるが、それは「国事に関する行為」とは異なり、明文上は内閣の助言と承認を必要としていない。そのことは、憲法の規定と原則の範囲内であれば、天皇の意思を反省させることが可能となることを意味している。ここに、制度的にも天皇の意志が重要な意味をもつ根拠が存する。
 ただし、内閣の助言と承認は不要というものの、「国政に関する権能を有しない」(同第4条)とされている以上、中立性や公平性、非宗教性、非作用性、非政治性などが厳密に貫かれるべきであることはいうまでもない。(本書位置No.1471)

 この斉藤の指摘は、園部逸夫『皇室法概論』によっている。天皇の平和主義(ガルトゥングのいう積極的平和主義的な意味)を表現する被災地訪問や旧戦地訪問、そこでの談話などは、まさにこの公的行為だとされている。


 ただ、この「公的行為」には憲法の逸脱という批判もある。例えば憲法学者の一人、浦部法穂は「公的行為」概念そのものを批判し否定する。

天皇天皇としてなしうる行為は、憲法に列挙された国事行為だけである。このことは憲法4条がはっきりと定めている。……問題は、天皇が、国事行為でもなく私的な行為ともいえない公的な行為を、現に行ってきていることである。たとえば、国会の開会式への出席と「おことば」、外国訪問、外国原種との親書・親電交換、国務大臣などによる「内奏」(所管事項について天皇に説明すること)、国内巡幸、園遊会、正月の一般参賀、国体や植樹祭そのほかの各種大会への出席、などなどである。……憲法4条の規定の文言からすれば、これらの行為は当然違憲という結論になってしかるべきだ……(浦部『憲法教室 全訂第2版』p.498-499)

 しかしまあたとえば日本共産党でさえ、公的行為そのものは容認する。

私たちは、それ以外のいわゆる「公的行為」について、「国政に関する権能を有しない」という憲法の規定に反するものでなければ、一概に反対するものではありません。たとえば、天皇が大震災の被災地を訪問したり、追悼式典に参加することなどを、否定するものではありません。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-23/2013042301_02_1.html

 そこに政治的性格を持たせようとすることに、共産党憲法逸脱として反対するのだ。

こういう国事行為以外の天皇の公的行為については、政治的性格を与えてはならないというのが憲法のさだめるところなのです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-16/2009121602_01_1.html

 つまりだ。
 これほど論争的性格を持っている領域ではあるのだが、どうにか学界の多数は公的行為を容認し、合憲的な解釈での運用ということになっているのである。
 明仁は、これを活用してきた。
 いわば、憲法を守るという線でギリギリの主体性を発揮するという離れ技を、この公的行為によって成し遂げているのである。


「本来の天皇の在り方としての象徴天皇」という理解

 本書を読むと、明仁が受けてきた教育のうち、例えば慶応義塾大学の学長であった小泉信三が施した「天皇学」の一つとして、イギリスのジョージ5世の伝記があるということがわかる。第一次世界大戦後、ヨーロッパ各国で君主制が崩壊する中で、イギリスで君主制が守られたのは「君臨すれども統治せず」をよく守ったからだというのである。
 明仁は、このようなありようを象徴天皇制と重ね、さらに近代以前の日本の天皇の在り方をこうしたものだと解釈し、現憲法の下での象徴天皇制こそ、むしろ天皇としての理想のありようとしてその開拓に苦心した、ということが本書から読み取れる(明治〜昭和前半こそが異常)。

明仁の平和主義

 また、明仁が戦争に対する深刻な反省という問題意識を持っていることは、すでに様々な報道で知らされてきたし、本書でもわかる。
 著者の斉藤は、明仁の平和主義は、単に戦争のない状態ではなく、人々が「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」した、ガルトゥングの言う「積極的平和主義」(安倍のいう軍事介入主義としてのそれではなく)的なソレであろうと見ている。したがって、被災地訪問のような福祉的な行動も、明仁の平和主義の一つだと見なす。
 本書では、東日本大震災の折に、明仁が単に用意された視察に出かけたという受動的な存在ではなく、その前から周到に行政関係者や現場機関担当者から説明を受けて、現地の状況などをつかんだ上で精力的に出かけていることを書いている。
 斉藤が描き出そうとする明仁像は、このように憲法が持っている平和主義の価値を貫きながら、象徴天皇としての役割を開拓しようとしている、というものだった。

なぜ代行や摂政ではダメだと明仁は思うのか

 こうした視点で、明仁を見た場合、まず皇太子などが「代行」として天皇の代わりに行くことはそもそも象徴天皇の「公的行為」ではない、と明仁が考えていることはすぐにわかる。だから、高齢になって公的行為が果たせないというのは、象徴天皇制の根幹に関わるものだろうと考えたに違いない。
 高齢を理由に摂政を置くのはどうか。これなら憲法の精神に合致する。*1しかし、やはり象徴天皇自身が公的行為をすることへのこだわりが明仁にはあるらしい。毎日新聞で、「元側近」が次のように語っている。

陛下は皇太子時代、昭和天皇の「名代」として外国を訪問したが、やはり外国にとって「天皇の訪問」とは異なることを実感されたという。摂政や名代としてではなく「天皇」として国内外の人々とふれあうことの大切さを誰よりも痛感なさっているのだろう。

http://mainichi.jp/articles/20160714/ddm/041/040/087000c

 こうした天皇明仁の模索は、現憲法を生かし、その価値を発展させようとするもので、ぼく自身の考えと重なるところがある。いや、象徴としての天皇は、もっと大胆に庶民化してその特権性を剥ぎ取ってもいいんじゃないかとはラディカルに思っているんだけど、そこまでいかなくても明仁が模索している方向は、まずはプラスに評価できるものである。

宮内庁が公表する?

 ところで、日経新聞の本日(2016年7月14日付)の見出しは、「天皇陛下生前退位の意向 皇室典範改正が必要に  宮内庁、近く公表へ」とある。
 いや、これマトモに宮内庁が公表したら、天皇が法律改正を要求することになり(生前退位皇室典範の改正が必要)、憲法が禁じた天皇の政治関与になっちゃうだろ。
 だから、宮内庁は当然否定するのである。
 他方で、NHKの報道は、微妙である。

天皇陛下は、数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html

 生前退位させろというと完全にアウトだけど、今から数年後に「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる状況に、俺、今ないよ」的な、直接表現でない、「あいまいな何か」を明仁がいう。そして、すでに今回報道されて大騒ぎなっている下地があるので、その「あいまいな何か」を聞いた国民は「ハハーン、生前退位したいって意味だな」と知る……そんな感じではないのか。


 ぼくは、日の丸の掲揚や君が代の斉唱を強制される場面になると(子どもの学校の入学式とか、県の社会教育施設などに宿泊した日の朝の集会とか)さっさと退場するような人間である。
 そうした人間ではあるが、現在の明仁憲法価値(特に平和主義のそれ)を生かそうとする模索には、基本的に共感を持ってこれを見つめている。
 いやね、前に棋士米長邦雄が東京都の教育委員だった時「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」などと誇らしげに園遊会天皇明仁に報告した際に、明仁が「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と切り返したのは、本当にスゲエって思ったよ。つうか、これ、本当にいつもそう思っていないと、とっさにこんな切り返しできねえよ。
 そういう意味で、明仁パネエ、って思ったもん。もともとそこに本物さを見てたわけ。
 

*1:日経新聞などは現在の皇室典範でも摂政を置けるかのように論じているが、多くの新聞は皇室典範の改正が必要だとしている。皇室典範は17条1項で「天皇が成年に達しないときは、摂政を置く」とし2項で「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」とあり、2項の方に該当しそうであるが、単なる高齢での体力不足というのでは2項適用は難しいから、ぼくも皇室典範という法律の改正が必要になると考える。