渡辺ペコ『1122』1巻

 ここ1ヶ月くらいだけのスパンをとってみると、渡辺ペコを再読する率の高さといったら、ない。通勤の行き帰りに何度も読んでしまうわ。


にこたま コミック 全5巻完結セット (モーニングKC) 特に渡辺の描くクール系の女性が好きで、『にこたま』の高野とか、『ボーダー』の種田をしみじみ眺めてしまう。
 弁理士をしている高野は、同僚の後輩男性(主人公・岩城)と偶発的なセックスをしてしまい、妊娠し、結婚を求めずに一人で子どもを産んで育てようと決意する女性。自分の中にわきあがる動揺に当初戸惑いながら理性でそれをねじ伏せるクールさがシビれるし、それがまた生硬で、不器用で、疲れた感じが残っている様子が、もー、生々しくて、すんごい好き。
 高野が彼氏と別れるエピソードが番外編で描かれているけど、理性で最後のセックスをやめてしまうところとかがそれ。
 彼氏と別れた後、岩城が職場で笑っているところを高野がふと眺めたら、頭の上に窓外の虹が重なって見えて「アタマから虹出てんの」と高野が内語して可笑しむ。岩城が別に高野に何か言ったわけでもないのに、高野のカタさを壊してくれるかもしれない楽天性がそこに重ねられ、高野が岩城に好感を抱く瞬間が描かれる。こういう洒落た描き方に、惚れる。


 高野が東京の職場を辞めて実家のある静岡に戻る途中、岩城に偶然会って、新幹線で話すシーンとか、ホント何回も読むよね。

こっちで
いっしょに
仕事する?

でもわたし
岩城くんて
けっこう好きなのよ

とか。悶える。ちょい年上の女性に、「……くん」って言われたい病のワタシ

男らしくない男を好む需要もあるってこと


 セリフと絵がとろけそうに、快楽的。そういうものとして読む。


1122(1) (モーニング KC) 『1122(いいふうふ)』は、連載中の渡辺の最新作である。主人公の夫婦は、家族としては、穏やかで、コミュニケーションが豊富で、お互いを労わりあう、いわば「理想的な夫婦」なのに、この夫婦にはセックスだけがない。
 夫(おとやん)はセックスをしたいのに、妻(いちこ)はしたくない。
 妻の公認のもと、夫は家庭の外に「恋人」を作り、週1回デートをしてセックスをする。つまり「公認不倫」である。


 『1122』は、主人公の一人、いちこの不器用さが、生々しい悲しみのうちに、しかし、それがなぜか美しく叙情的=快楽的に描かれていると感じるので、ぼくはその描写を避けることなく、何度もその箇所を読んでしまう。
 例えば、いちこが、実家に帰るシーン。
 いちこの母親が父親から暴力を振るわれ、自分が無力だった過去を思い出させる実家に戻った時に(すでに父親は死亡)、いちこは、母親の言葉一つひとつに理屈立てて噛みつく。

あの人がDVのクズだったのは同意だけど
わたし その遺伝子半分受け継いじゃってんの
でもそれ わたしのせいじゃないから
おかあさんはいいよ 元々他人だし
もうあの人死んでるし
夫婦は解消できるのに
それ しなかったのは自分の選択でしょ
わたしは“やさしいおとやんをつかまえた”んじゃないよ
今の生活を選んで大事に維持してるんだよ
わかる?

 「正しさ」で武装し、それを「無学」な母親に畳み掛ける。
 こういうギスギスした理屈っぽさ。無骨さ。ぼく自身に重なるようにも見える。
 母親が無力な自分にやさしくしてくれなかった過去を思い出し「キライ」という気持ちと、母親の境遇を「かわいそう」と思う気持ちが混濁してしまう、いちこ。
 その気持ちをすくい取ってくれるおとやん。
 このシーンが好きで、何度も読む。


 おとやんといちこは、単に円満な夫婦、コミュニケーションがうまくいっている夫婦という、表面的な「いい夫婦」ではない。
 いちこは、社会的にも自立していることは間違いないし、一人でも生きていけるとは思うが、おとやんが不可欠に近いパートナーとしての役割を持っている。
 おとやん・いちこの夫婦は、子どもがいないので、「セックスしないなら、夫婦を解消すればいい」という言い分がありえそうに思えるが、その主張にあらかじめ備えるかのように、この二人は離れがたい結びつきを持っているのだと描かれる。しかし、物語の都合でそう書いているのではなく、この実家をめぐるエピソードを読むと、本当に「いい夫婦」だな、と読者であるぼくは説得されてしまうのである

「公認不倫」は問題を解決する……か?

 その上で「公認不倫」。
 一夫一婦制というのは、特定のパートナー以外にはセックスしてはいけないというモラルを課すので、パートナーの一方がセックスしたくなくなった場合には、もう一方はセックスが一切できなくなる。
 その場合は、関係を解消すればいいのだが、子どもがいる場合は、現在の日本のような資本主義社会では子育ての経済単位となっている「個別家族」を解消するのは非常に難しい。高校生カップルが別れるのとはわけが違う。
 この問題については、ぼくの暫定的結論は、坂爪真吾『はじめての不倫学』の書評で書いた。
坂爪真吾『はじめての不倫学 「社会問題」として考える』 - 紙屋研究所 坂爪真吾『はじめての不倫学 「社会問題」として考える』 - 紙屋研究所
 エンゲルス的な解決。子育ての費用を社会が負担することで、愛情がなくなれば関係を解消する社会。シングルであること、養育費が確保されているかどうかで、生き方が不利にならない社会。どんな家族形態を選択しても個人の尊厳が侵されない社会。



 本作で問題になるのは、子どもがいない場合である。*1
 子どもはいない。
 しかし、夫婦としては別れがたい家族である場合(本作のおとやんといちこのように)。
 現在では、セックスの問題の解決=他のセックス相手を探すことは、家族の解消を意味してしまう。
 じゃあ、セックスだけを認可制で外注すりゃいいじゃん。
 ゆえに「公認不倫」なのである。
 めでたし、めでたし――。

「セフレ」ではなく「恋人」

 論理的にはこれで問題ないように見える。
 だけど、「公認不倫」に分け入ってみると、それは果たして、単なる「セックスフレンド」、いわゆるセフレなのであろうか。
 本当に割り切ってセックスするだけ。
 そういうことであれば、こうした付き合いは可能かもしれない。


 しかし、『1122』でおとやんの相手(美月)は単なるセフレではなく、「恋人」だとされている。恋愛をしているのである。
 

 大きな問題の二つ目は、性は性器だけの問題ではない。生きる「生」と重なりあっているわけですから“一緒に生きているのが楽しい”という気持ちがなかったら、セックスもうまくいくことがだんだんむずかしくなるんです。若い頃には、喧嘩をしてもセックスすれば、抱きしめあってしまえば仲直りできたというようなこともあったのではないでしょうか。それぐらいセックスについて好奇心があったし、新鮮な欲求もあったかもしれない。でも、四〇、五〇、あるいはもっといけば、なかなかそうはなりません。つまり、一緒に生きて楽しいという生活空間・時間がもう一方にないと、お互いに相手の喜びや悲しみをわかちあったり相手の人生にたいする共感ももてないママで、布団のなかだけで手をだされても、その気にならないし、むしろ嫌悪感だけがわいてくるのも当然です。
 つまり、老いていくということは、セックスがますます心の問題と重なりあっていく、人間と人間の関係になっていくんです。性器と性器だけではない、まるごと人間と人間の関係になっていくんですよね。そして一緒に生きて楽しいという時間や空間を二人でどうつくっているか、つくっていくか、このことが心底問われると思います。
 だから、セックスレスの問題は肉体にかかわる誤解偏見もあると同時に、性そのものをインサートというふうに考えてしまっているところから生ずる問題でもあるのです。さらにもっと深いところではこのように「性」を「生」との関係で考えない、考えてこなかったことのつけがまわってきた結果とも言えると思います。(村瀬敦子・村瀬幸浩『素敵にパートナーシップ』大月書店、p.73-74、強調は引用者)

 性=生。つまり性とは性器に矮小化されたものではなく生き方そのものである、という村瀬のテーゼ。
 もしそうだとすれば、おとやんと、その「公認不倫」の相手(恋人)である美月は、挿入セックスのパートナーとしてだけではなく、一緒にいて楽しいと思える時間は、やがて生き方に重なっていってしまわざるを得ない。
 事実、おとやんとのデートの場に、美月は自分の息子・ひろを連れてくる。ひろは少し発達の遅れがある。おとやんは、ひろに積極的に関わる。デートの場で肩車したりお弁当を作ってきたり、は言うに及ばず、おとやんと美月が二人だけで逢瀬を重ねているところでも、ひろのためのシールブックをプレゼントに渡そうとするあたり、ひろへの関与は単なる「社交辞令」ではないことを端的に示すもののように思える。
 そして、ひろも、おとやんになつく。
 他方で、美月の夫は、

あの人子どものことなんて
なんにも見てないもの
なんにも見てないから

と美月に言わしめるほどである。

 まだ1巻の段階で、おとやん・美月・ひろの関係についてはこれ以上の描写は出てこない。ぼくは連載そのものをチェックしていないのでどういう展開になっているかわからないのだが、少なくとも美月の側から見て、おとやんが単なるセフレではなく、これからを一緒に生きたいパートナー・家族として見えてくるのは必然である


 恋人がやがて結婚相手になっていく、という順序を踏むのは、世間の慣習がそうであるということもさることながら、この人と一緒に生きていきたいという思いが重なっていくからに違いない。
 だとすれば、「公認不倫」は、セフレで終わるような関係であれば波風は立たないかもしれないが、新しいパートナーとの生き方を重ねていくようになる時、旧来からのパートナーとの関係が問われてくることは必然である。
 おとやんといちこの関係は、破壊されるのか、維持されるのか。あるいは、共存するのか。そういうことが問われるマンガに本作はなっていくのであろう。


 『にこたま』などでもそうだったが、渡辺ペコは、新しい家族のあり方、一人一人が選択した生き方が有利・不利をもたらさない、多様な家族のありようを探る作品を描いてきた。
 本作も、今後そうした家族のあり方の一つを、希望とともに描く作品になるに違いないという期待を込めて読んでいる。

*1:正確に言えば、おとやんの「公認不倫」相手は子どもがいる。しかもそちらの家庭では「公認」されていない。