本を出します 『不快な表現をやめさせたい!?』

 本を出します。

 『不快な表現をやめさせたい!? こわれゆく「思想の自由市場」』というタイトルで、かもがわ出版から上梓します。2020年3月24日に出来予定です。

 

 

 タイトルの意味ですけど、「!?」をつけているように、もちろん、ぼくが「不快な表現をやめさせたい」わけではありません(笑)。ついつい芽生えてしまう、そういう衝動や気持ちとどうやって向き合うのかという問題意識です。

 目次を書いておきます。

  • はじめに
  • 「あいちトリエンナーレ」事件の何が問題なのか
  • 実際に「あいトリ」の作品を見てみる
  • 「行政の中立」とは何か
  • 「宇崎ちゃん」献血ポスター事件を考える
  • (コラム1 自由な批判で表現を取り下げる――「はじめてのはたらくくるま」事件)
  • 女性を性的対象としてみることは問題なのか
  • ポリコレ棒を心の中に
  • (コラム2 表現の規制に必要な条件は――志田陽子教授に聞く)
  • 不快な表現にどう向き合うか
  • あとがき

 この本の特徴ですが、「あいトリ」事件と「宇崎ちゃん」ポスター事件の二つを同時に扱っていることです。同時に取り上げる本というのは珍しいのではないかと思います(新聞などの記事では時々見ますが)。両者はいずれも「表現の自由」にかかわる問題を含んでいますが、問題視している人たちのクラスターが別になっていて、一方の問題で規制反対の声を上げている人が他方の問題で冷淡だったり、ともすると「規制」を主張していたりするケースさえあります。

 ぼくは「はじめに」のなかで次のように書いています。

ぼくは「平和の少女像」という表現を尊重したいという気持ちのある左派であると同時に、性的表現についても擁護したいと思っているオタクで あるという両方の立場を持っています。いわば両方の気持ちになれるのです。

 

 これはルポではありませんし、専門家による解説書でもありません。

 「はじめに」で詳しく書きましたが、表現の自由と規制の問題を考えるにあたって、専門家でない、いわば「普通の市民」がどういう基準で考え、行動したらよいかを、日常的な自分の指針になるように、ぼくなりにわかりやすく整理してお伝えしているものです。

 

 この編集をしていただいたのはぼくと同年代の女性の編集者の方でしたが、ぼくの主張に実は違和感を持っている方でした。主に、女性に対する性差別的な表現といわれるものに対して、彼女はどちらかと言えば何らかの規制が必要ではないかと考えている人です。ぼくの方にも気づかされることがあり、ある意味で彼女との対話を通じながら発展していったところもあります。

 そして、研究者である志田陽子教授の著作・講演は大変刺激的なものがあり、それを大いに援用させていただきました。そして、厚かましいお願いだったのですが、インタビューもさせていただきそれを収録しています。

 

日々生起する表現規制の問題への案内役に使ってほしい

 最近も次の番組が話題になりました。

www.nhk.or.jp

 この中で斉藤章佳の発言があります。

斉藤さんに言わせると、日本は“児童ポルノ天国”だといいます。日本の今の法律では、子どもを性的な対象として描いていても、マンガやアニメなどの“二次元”の創作物であれば、処罰には当たりません。むしろ市場には氾濫しています。こうした状態こそが “天国”として、欧米諸国から奇異の目で見られているゆえんでもあります。この問題に関して、「表現の自由」を訴える人も多く存在しますが、斉藤さんは苦言を呈します。

 

児童ポルノが性加害の引き金になっている実態がある中で、子どもを性的な対象として描いている創作物が、“守られるべき表現の自由”に果たして値するのでしょうか。」

 

児童ポルノが加害行為の抑制になるわけではなく、むしろパンドラの箱を開いているといえます。児童ポルノを通して、彼らは『子どもは性的な存在である』というメッセージを受け取り、学習し、加害行為とともに認知をゆがめていくのです。たとえ1例でも加害行為につながり、1人でも被害者が出ているのであれば、児童ポルノの罰則や規制についてもっと真剣に議論するべきです。」

 

 この発言には、賛同する人と反対する人がどちらもいると思います。

 ぼくが今回出す『不快な表現をやめさせたい!?』では、直接言及しているわけではありませんが、こうした斎藤の発言をどのように考えるべきか、その向き合い方を示しています(なお、ぼくは過去に斎藤の著作については書評記事を書いています)。

 一種の応用問題を解くようなものです。

 

 この種の問題は別に「あいトリ」事件や「宇崎ちゃん」事件で終わりなのではなく、日々生起しているといって過言ではありません。だからこそ日常的な指針…というと偉そうなので、案内役、もしくはヒントになるように本書を書いたのです。

 

左翼やリベラルの中の風潮の変化に戸惑いがあったので

 ぼくは左翼の一人ですから、左翼やリベラル派の中で、最近、「問題だと思われる表現」に対して、それを批判していくことと、表現を規制することが混同されてしまう傾向が出てきていて、正直かなり気になっていました。もちろん、世の中でメインに表現規制を要求しているのは支配層であり、右派の人たちだろうという現実はあるのですが、それをただすべき左派の中に右派と似通った傾向が生じていないか、左派の一人として気になって仕方がありません。

 ぼくがかつて中学生だった頃に、筒井康隆のエッセイ(「差別語について」)で、いわゆる「差別語」狩りによって古典落語が次々と口演不能に追い込まれていく現状をあげて、

最近「赤旗」の編集者と知りあえた。共産主義は体質にあわないし、共産党はあの組織や制度の仕組みがいやだが、この問題に関しては「赤旗」と手を組んでもいい、と、ぼくは思っている。(筒井『やつあたり文化論』新潮文庫Kindle No.2721-2722)

と書いていたのを読み、「筒井がここまで政治的に踏み込んで支持をするのは実に珍しいのではないか。そこまで言わせると言うのは、共産党は一体どういう主張をしているのか」と興味を持ったことがあります。

 その後、高校生になってから「いわゆる『差別用語』問題について」という日本共産党の論文を読みました。

 ことばは現実の反映である。ことばだけをタブー(禁句)にしても、現実の差別はなくならない。戦前の支配者は、現存する君主制への批判をおさえようとして、“不敬語”と称する用語上のタブーをつくりだした。戦後はアメリカの占領支配への批判をおさえつけるため、占領軍という用語をタブーにし、“進駐軍”という用語に統一した。

 社会に不当な状況や不当な差別が現存する場合に、その実態を放置したままでことば、表現だけをタブーにするのは、問題の真の解決にならないことはあきらかである。不当な差別を実態的にも、心理的にも克服、解決するという積極的立場から、ことばや表現の問題にも対処していくことが重要である。まして、「差別用語」や「差別的表現」でないものを「差別語」だとこじつけてタブー視するのは、現存する不当な事態や差別を克服する問題を後景にしりぞけることにさえなる。

 〔……〕勝手な「差別語」狩りや「タブー」拡張に反対し、あくまでも言論・表現の自由のためにたたかうものである。(「赤旗」1975年6月9日)

 この論文が非常に印象に残り、ああこれが筒井の言っていたことだったんだな、と腑に落ちた記憶があります。

 ぼくにとって共産主義者とか左翼というのは表現の自由を徹底的に弾圧された歴史的当事者であり、そのために命がけで闘う存在であるというイメージがありました。

 それだけに、最近の左派界隈での風潮の変化には戸惑いがあるのです。

 そしてそのような変化は完全に間違っているわけではなく、正しい契機と誤った契機が混在しています。そこの問題の整理をわかりやすくつけるのが、本書の役目です。

 本書は別に左派やリベラルの人だけに向けて書かれたものではありませんが、自分の心の中ではそういう人たちにこそぜひ読んでほしいと、心の中でそうした人たちを説得する思いで書きました。左派への期待をこめ、本書を書いたものです。