一瀬文秀『潮谷義子聞き書き 命を愛する』


 憲法には

地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

とある。この「地方自治の本旨」とは何か。憲法学者小林直樹

この言葉は、日本国憲法のなかで、最も不明瞭で把えにくい概念のひとつ(小林『憲法講義』p.772、強調は引用者)

と述べてきた。


 この件で、馬奈木昭雄の講演を聞く機会があった。
 馬奈木は水俣病じん肺諫早開門など、住民のたたかいの先頭に立ってきた弁護士だ。
 彼の考える「地方自治の本旨」はつまるところ「住民自治」であり、住民による徹底した話し合いと討論によって合意をつくりあげるという姿にその本質があると見ている。
 そこでは、行政はどっちつかずの中立者ではない。
 住民(国民)の基本的人権を保障するという立場に行政側が立つことだ。しかし住民の主張を鵜呑みにするのではなく、行政側が賛成・反対の幅広い意見に耐えうる情報提供を行い、住民が主権者として判断できるようにしてその合意を促すというイメージを馬奈木はあげた。*1


 その例として、馬奈木は熊本県知事だった潮谷義子が川辺川ダムをどうするかについて行った「住民討論集会」をあげた。
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_4555.html

川辺川ダム事業をめぐる論点について、県民参加のもと国土交通省、ダム事業に異論を主張する団体等並びに学者及び住民が相集い、オープンかつ公正に論議する場を提供します。


 原則的に論点に制限を設けず、時間の制限も設けない。
 よくもこんなことをやろうと思ったものだと感心する。

住民自治としての住民討論集会

潮谷義子聞き書き 命を愛する ぼくは馬奈木の話を聞いて、潮谷に興味を持った。
 潮谷に聞き書きをした『命を愛する』という手記を読んだ。
 キリスト者であり、社会福祉を学び行政の福祉主事をへて、乳児ホーム(現在児童養護施設)で働き、そこの園長を務めてきた。
 潮谷は自民・公明が推して誕生した知事ではある。
 だが、彼女が知事時代の話としてあげている3つの大きな話題は、

であるように、本書を読むとそこに良心的な人間が行政のトップになったことによる素直な苦悩を、左翼のぼくでもストレートに感じることができた。
 潮谷が朝日茂を訪問したときに感じたことや、知事になる前から親しくしていた住民運動側の人たちにつらい、もしくは今思えば不十分な決定を押しつける羽目になったことを赤裸々に書いている。


 住民討論集会で賛成派が討論に不満なため一斉に帰ろうとする際に、止める様子が『命を愛する』にも書かれている。以下は公式記録に残された潮谷のアナウンスである。

知事です。退場なさる皆様達にお願いします。この論議はまだ終わっていないと私は思っております。退場なさる皆様達は、今、議長の方が、皆様に何時までいたしましょうかということを問いかけている時に、背を向けてお出になる方々がいらっしゃいますけれども、それでよろしいのでしょうか。ぜひ、留まっていただきたいと思います。司会者も、4時間に亘る長い間に、混乱があったり、皆様方の思いに沿わないところがあるかも知れません。それは、推進者の方にとっても、反対者の方にとっても、生じている現象であるかも知れません。でも県は、フェアな公正な立場を確保したい。そういう思いの中で、この会をいたしているところです。 私から提案をいたします。この会を7時半で終結をさせていただきますが、いかがでございま すでしょうか。よろしゅうございますでしょうか。

http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=4555&sub_id=1&flid=1&dan_id=1

 潮谷は、自民・公明の推薦という、ぼくにいわせれば反動的な政治の枠組みの中で県政の舵取りをせざるを得なかった。
 しかし、潮谷は国の関係者を駆け回ったり、住民運動のリーダーたちと議論を重ねたりして、「合意」を必死につくろうとしてきた。その様子が『命を愛する』でよく伝わってくるのだ。*2
 潮谷県政の実際はそのような甘いものではないかもしれないし、全体の評価をした上での感想ではないが、先ほどあげた3つの問題では手記を読む限り、潮谷のきまじめさがわかる。*3


 知事時代の思い出を語るなら、もっと見栄えのいい、どこそこに何を作ったとか、どういう新しい制度を作って住民が喜んだとか、そんな手柄話をドヤ顔で書くというのが政治家の「回顧録」というものではないのか。
 あえて自分の一番苦悩したであろう3点を、苦悩のままに書くという真摯さに胸を打たれる。こんな真面目にやっていれば、3期目はなるほど「バーンアウトしてしまう」(潮谷の言葉)ことになったであろう。


 ぼくは町内会やその連合体の幹部を、行政側が手なづけて、あるいは煙に巻いて、「文句が出なかったので住民合意完了、一丁あがり」というやり方をしている様を各地で見てきた。住民の意思をくみとるために本当に努力している町内会もあるが、総じて行政が「住民合意」を振りかざすために都合よく使える道具として町内会は機能している。
 そのようなお手軽「住民合意」とは正反対の、「地方自治の本旨」として住民合意がここには描かれている。

団体自治の見本としての蜷川府政

地方自治の本旨」とは、要するに、人権保障と民主主義の実現という点にあり、このためには、「住民自治」が不可欠であり、住民自治を実現するための「団体自治」も不可欠となる。(浦部法穂憲法学教室』p.574)


 団体自治は、いわば国に唯々諾々と従うのではなく、自治体としての自分たちのことは自分で決めることである。時には国に逆らって。
 国策実行の道具であった戦前の地方制度が戦争と破滅を導いたという反省のもとに取り入れられたといえる。
 今日、例えば福岡市の高島市政は、一見国とは違うような「先進的な」動きをしているように見える。しかし、高島のやっている政治は、国家戦略特区といい、観光呼び込み路線といい、「配る福祉から支える福祉へ」といい、国策路線の先取り、単に「露払い」「尻叩き」でしかない。


小説蜷川虎三 (西口克己小説集) 団体自治は、今沖縄県と国との闘争に典型的に見られるが、ぼくが最近印象深く読んだのは京都府蜷川虎三知事(知事1950-1978年)についての小説であった。
 西口克己の『小説 蜷川虎三』には、蜷川が「地方自治の本旨」を考え抜くくだりが出てくる。

いったい、地方自治の本旨とは、なにか。虎三はつづいて〈地方自治法〉を精読した。その結果、虎三なりにいくつかのポイントをつかんだ。第一条には「……地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障する」とある。そして地方公共団体のうちの普通地方公共団体都道府県及び市町村なのである。第二条には「地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全健康及び福祉を保持する」とある。また、「……その事務を処理するに当っては、住民の福祉の増進に努める」とある。つまり――と虎三は考えた――地方公共団体とは、住民の暮らしの組織であり、その本旨とは、結局住民の暮らしを守ることではないか、と。(西口前掲書p.142)


 蜷川府政が終わった時に毎日新聞は社説でこの府政を「三十年近くにもわたって『住民の暮らしを守る』地方自治の精神を貫き通してきた」「“地方自治灯台”であったと評価してもよいのではないか」(1978年3月5日付)と書いた。


 中小企業の「ひき舟政策」、無担保無保証人融資、京都食管、老人医療費助成など(現在これらの制度には様々な評価があるだろうが)、「住民の暮らしを守る」ことを基本に中央の政策とは別の路線での団体自治の在りようを掲げ続けた。


 結局「地方自治の本旨」とは、今ぼくが理解していることをまとめれば、住民の基本的人権を保障する(つまり「暮らしを守る」)ことを目的に、住民が住民自身で賛否含めとことん話し合って決める(住民自治)ということ、その際に国の干渉も受けないし、国とは独自に考える(団体自治)ということ……になるだろうか。

党派を超える瞬間

 議院内閣制の現場は政党間の力のぶつかり合いである。
 もちろん、いわば大統領である自治体の首長選挙だって大きくは同じである。しかし、やはり大統領であるから、本来は党派を超えた包容力がそこに生まれなければいけない。そこは政治家個人のキャラクターによるところが大きい。ただし、馬奈木はそういう陳腐な結論にせずに、大きくはその背後にある住民の運動こそが自公推薦知事であったはずの潮谷を動かしたのだという史的唯物論的な確信を述べていた。
 そのような馬奈木の意見にも敬意を払いつつも、やはりぼくは首長のキャラクターというものを考えざるを得ない。
 潮谷の人生の歩みを読むと、社会福祉キリスト教的慈善の精神が、あのような誠実な苦悩を生み、党派を超えてぼくの心を動かすのだと思う。


 蜷川は、府政晩期は共産党単独推薦で立候補をしていたが、もともとは吉田内閣の中小企業庁長官であったし、社会党員になったし(形ばかりだが)、自民党から推薦状が送られてきたがゆえに共産党対立候補(河田賢治)を立てたこともあるような政治家だった。
 経歴を見てもその幅広さがうかがえる。
 そして、政敵・野中広務は次のように述懐する。

自民党府議として蜷川府政後半の一二年間、彼と対決した野中広務は「蜷川さんが二十八年間も知事の座にいたというのは、イデオロギーの問題ではなく、彼自身の魅力があった。それは、イデオロギー武装しようと思っても滲み出てくる日本人の精神とでもいおうか、彼はいわば生粋の明治人だった」と人柄を評価する。(岡田一郎『革新自治体』p.26-27)


 首長は大統領であるがゆえに、その社会統合の象徴として党派を超える魅力がなくてはならない。「党派を超える」というのは単に八方美人ということではなく、与党だけでなく野党の論理を取り込むような、アウフヘーベンするような、より高い包括性が必要になるということだ。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル大論理学研究 1』p.6-7)

 相手の批判が十分に取り込まれ、意識された、もっと大きな体系になっている。だから討論は意味がある、ということになる。*4
 革新であろうが保守であろうが、首長になる人にはそのような資質が必要なのだ。

*1:手元に正確な記録がないので、ぼくが聞いた「うろ覚え」の理解。

*2:この本は商業的にいうとタイトルで損をしている。いかにも説教くさい。しかし潮谷の立場はまさにこういう要約となるのだろう。自分の人生を正面に提示しようと思えば妥協なく真摯にこういうタイトルにしたのではないか。「売れるな〜」とか考えずに。

*3:住民討論集会にも様々な評価があることは、この『聞き書き』を読んでいてもわかる。

*4:首長ではないんだけど、安倍政権はこの点でホント落第だと思う。また、福岡市の郄島市長は木下斉が著書で述べているような“全員合意指向=「みんな病」の批判者”、“100人の合意より1人の覚悟”を地でいく典型的な「独創的実業人」タイプだ。一見「独創」的なアイデアを(その実、国策のトレンドに従属して)バンバンやっていくやり方であり、社会合意をていねいに積み上げていく「地方自治の本旨」とは遠くかけ離れた人であろう。