磯谷友紀『ながたんと青と』

 最近よく読むマンガは、磯谷友紀『ながたんと青と いちかの料理帖』であろうか。

 戦争から6年たった、日本の「独立」のころの京都の老舗料亭の話……と書くだけで、実はげんなりしてしまう。往々にして時代設定、京都という土地、料理などといった「小道具」を雰囲気で描くことに重点がおかれ、というか作者が酔ってしまい、肝心の物語のドライブがないために、読む方はまことにつらい……そういう作品が想起されてしまうからである。

 しかし、本作は全くそんなことはなかった

 料亭の料理長が新しい経営方針を認めずに立ち去り、婿の実家は料亭の乗っ取りを企図するという危機の中で、どういう立て直しを図るか、というビジネスの論理が物語の主軸に座る。もう一つ、34歳の主人公・いち日(いちか)と19歳の周(あまね)との結婚は、当初政略とも偽装とも言える「形だけ」の夫婦として出発しながらそれがどう本物の恋愛へと発展していくのか(それともしないのか)という軸が座る。どちらの軸も、読ませる。骨太の作品である。

 いち日は、周から「ぼくのこと どう思ってますか」と問い詰められ、「か かわいい」と言ってしまう。その言葉に周はショックを受けるのである。

 いち日は周の仕草をいちいち「かわいい」と内語する。

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磯谷前掲4巻、講談社、p.157

 ぼくはこの4巻の、いち日の(内心の)つぶやきのコマがとても好きで、いち日が漫符的な表現を一切纏わずに、純粋な内語として、表情を動かさずに、「かわいい」という感想を述べる描写が、心底周のこの仕草を、いち日が「かわいい」と思っているんだなとぼくに思わせてしまう。

 

 

 この場合の「かわいい」には、おかしみがある。

 シェリー酒という洋風で洒脱なものを、才気走った若者が生真面目な顔で、なぜか半纏というどっぷり和風な、どちらかと言えばややだらしないほどに生活感のあるものを着ながら出すというアンバランスが「かわいい」のである。

 

 連合赤軍事件で、大塚英志は「かわいい」という言葉の使い方が、男性指導者たちのそれと、女性活動家のそれでは根本的に対立し、その対立こそが「連合赤軍事件」というものの深層だったのだと指摘する。

 

 

 リーダーである森恒夫をはじめとする男性指導者たち(植垣ら。その陣営に属する永田洋子も)は、「かわいい女」「かわい子ちゃん」のような、男性支配から見た従順さにこと寄せた使い方をする。そしてそれに抗えない女性たち(小嶋・大槻)。他方で、一人の女性活動家(金子みちよ)はその意味を逆転させてしまう。

 

 このように女たちが男たちの「かわいい」という視線に従順だったのに対し、ただ一人、この視線を男たちに投げ返した女性がいる。妊娠八カ月の身重であり、女性として四人めの犠牲者となる金子みちよである。

 例によって森のねちっこい女性批判が始まりその矛先が金子に向けられる。森の批判は彼女が自分に色目をつかっている、というものだった。永田の『十六の墓標』から引用してみよう。

 森の発言があまりにおかしいと思った私は、わけのわからない怒りがわきそれを否定しようとして、金子さんに、

「森さんをどう思う?」

と聞いた。金子さんは、少しとまどっていたが笑いながら、

目が可愛いと思う・・・・・・・・

といった。(傍点筆者)

 金子は女たちを「かわいい女」として抑圧してきた森に対し逆に「かわいい」の語を投げつけるのである。男女間の支配関係の語としてのみ作用していた「かわいい」を最高指導者である森に投げ返した彼女の発言はそれこそ革命的、なものだったとぼくは思う。

 この金子の「かわいい」の語法は重要である。何故なら、この「かわいい」はそれまでの「かわい子ちゃん」—「かわいい女」という男女の支配関係を肯定する語として連合赤軍内部で使われてきた「かわいい」とは決定的に異なるからだ。(中略)

 ちょうどこの連合赤軍事件の前後の時期を境にして「かわいい」という語法に大きな変化が起きる。植垣が「かわい子ちゃん」と言ったときその「かわいい」は男性の側から発せられ男女の支配関係に収斂していく。小嶋や大槻の「かわいい」私は、男女間の支配関係に抗すことができない。しかし、金子の「かわいい」は明らかに、森と金子との間の関係を転倒しているのだ。この新たな「かわいい」の語法は女性たちの口から発せられた瞬間逆に眼前のあらゆる事象をこの「かわいい」の一言で包括してしまうものとして現れる。女性を支配することばとしてあった「かわいい」が、逆に女性たちが彼女たちをとりまく世界を「かわいい」の一言で支配し直してしまうことばへと変容していったのである。(大塚英志『「彼女」たちの連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』角川文庫、p.25-26)

 

 いち日と周の生きている時代は、日本の占領の終結、「独立」の時期であり1950年代初頭だ。だからこの用法はあり得ない。が、これはフィクションである。磯谷が1950年代の歴史上の人物の内面を必ずしも精確に描出しようとしているとは思えない。

 むしろこの時代に仮託して「現代」を描こうとしているように思える。

 周は男権主義的ではない。むしろ、当時はタブーに近かった、料亭の料理長に女性であるいち日をすえるなど、ジェンダーを乗り越えている。

 さらに、いち日と周は一種の「仮面夫婦」なのであるが、ある明確な利害で一致した、ビジネスライクな「契約としての夫婦」というものは、『逃げ恥』でもそうであったが、現代の男女関係あるいはパートナーシップにおける、かなり質の高い関係ではないのだろうか? なぜなら、関係の目的性が非常に明確であり、両者は対等平等であるということが明確だからである。ゲマインシャフトではなくゲゼルシャフトとしての夫婦。

 

 

 だからといって、完璧に「理想」なわけではない。

 確かに料亭「桑乃木」は事業体である。いち日と周はその事業体のメンバーである。しかしその事業体は家産制事業体である。すなわち純粋な会社ではなく、二人は純粋な社員ではない。家庭であり、夫婦であるという前提での関係は、愛情=心情という問題をどうするのかという問題・矛盾を残してしまう。

 むしろ政治や経済のような生硬な言葉・関係としてではなく、そうかといっていきなり直接に恋愛ではないところから、相手への真情を始める必要がある。

 それが「かわいい」なのである。

 周を「かわいい」と思うのは、ビジネスの思惑でもなく、恋愛感情でもなく、いち日の心に自然に湧出した気持ちである。それこそが、周を理解し「愛おしい」と思えるようになる、第一歩なのだ。

 

 別の言い方をすれば、ビジネスとしての関係を被っている周・いち日の関係をいったん破壊する力を持っているのがこの「かわいい」なのである。その意味では、男女関係の支配的言説に抗した金子の「かわいい」に似た作用をここでは及ぼしている。