堀和恵『評伝 伊藤野枝 〜あらしのように生きて〜』

 今年は伊藤野枝が官憲に虐殺されて100年である。そのメモリアルのイベントも福岡市で行われる。

 

 伊藤野枝に関する本というものは、山のようにある。

 本書(堀和恵『評伝 伊藤野枝 〜あらしのように生きて〜』)は出版社(郁朋社)の賞である「第23回歴史浪漫文学賞(創作部門特別賞)」を受賞した。同賞のサイトのトップには「郁朋社は、より本格的に、新しい視点で歴史を解釈した作品を選考しています」とあるが、正直なところ本書が山のようにある類書の中でどのように「より本格的に、新しい視点で歴史を解釈した」のかは、シロウトのぼくにはよくわからない。

 だが、わからないシロウトであるがゆえに、本書の「どこが新しいか」についてはあまり考えることなく、伊藤野枝をほとんど知らない人間が読む伊藤野枝の評伝としての感想を少しだけ綴ってみたい。

 

 本書の末尾には、女性史研究者の鈴木裕子の一文が載っていて、本書の意義を次のように説明している。

本書は、実際にお会いした方がた、あるいは書籍・資料類で馴染みのある女性たちを著者の堀和恵さんが丹念にその足跡を追ってこられた点に特徴があると思う。「第五章 野枝の遺したもの」に収録された遺児たちの行方と人生についての記述は特筆されるべきである。(p.226

とある。実際に、辻まこと辻潤との間の息子)、伊藤ルイ(大杉栄との間の四女)やそのほかの子どもたちの足跡は興味深かった。子どもたちだけでなく、甘粕正彦(伊藤の虐殺者)の足跡も綴られている。

 辻まことに出会ったのは高校生の時で、「ユーモラスな現代」という詩であった(下図参照)。つけてある辻の絵の奇妙さもさることながら、韻文の形式で現代を風刺するというスタイルは遭遇しそうで遭遇してこなかったので、新鮮だったのである。

『高校生のための批評入門』筑摩書房、p,64

 二行目の「街道をはずれると化け物に食われる」以外は何を指しているかはわかるが、この二行目だけは具体的なものが想定されていない。解説にも「多様な解釈の可能性を残している。この一行は読者にまかされていると言ってもいい」とある。

 高校生のときはそれを読んで必死に「当てはまるもの」を考えたものだが、50を超えた今の自分になら本当に砂に水が染みこむように自分の中に入ってくる。

 今まさにぼくは「街道をはずれると化け物に食われる」状況にあるのだ。

 

 本書(『評伝 伊藤野枝』)では辻まことについて、こう書いている。

まことにとって大切なのは、「画家」になることではなかった。彼にとって大切なのは、〈自由に生きること〉〈自由に物を見ること〉であった。画家はそのための手段であったのだ。これは野枝も目指したものであった。野枝とまことは同じ方向を向いていたのだ。/まことは、彼独自の表現方法で〈自由〉を目指したのだ。(p.197)

 縊死によって自裁する辻まことの最期について、母親・野枝が官憲に絞め殺されて最期を迎えたことや、このような自由を求めた生き方に重ねて、「お母さん」と思ったに違いないと堀は想像している。

 その真偽はともかくとしても、伊藤野枝の生涯のテーマが〈自由〉だったのではないか、というのが堀の伊藤観である。女性解放——フェミニズムの先駆者としての伊藤は、自分という女性が自由に生きるためにはどうしたらいいかという模索だったのだと捉える。子どもたちにもその影響が少なからず残った、という意味でこの部分を書いているのだ。

 

 本書を通じて、伊藤の生き方や辻の生き方をみて「自由」についていろいろ考えた。

 高校で校則問題を考え、運動をしてきた頃から、ぼくの生涯の政治的テーマとして「自由」がある。日の丸・君が代の強制を拒否して成人式代表を下ろされたり、町内会の連合体の無理強いを拒否したためにいじめられたり、PTAに入らなかったり…はたから見ればとんだトラブルメーカーのように見えるかもしれない。

 このような「強制や抑圧からの自由」だけでなく、社会に対する無力さ=不自由さを克服し、自分の運命に自分から積極的に関与できるように、つまり自由をより拡大するために、自分としては組織に入り、組織を使い、社会というものに働きかけてきた。しかし、そうした組織が誤作動し、操作していた人間を傷つけたり、時には死に追いやってしまうこともあるのだと知る。

 他方で、人間関係、例えば家族や恋愛のようなものの自由についても考えることが多い。「性風俗やアダルトビデオに関与する労働者は、必ず性暴力・性的強制の犠牲者か?」とか「セックスレスになったときに一夫一婦制はどう機能させ続けるのが正解か?」とかね。

 

 そのような「自由」を求めた同志として、伊藤の生き方を、本書で読む。

 伊藤は自分の子どもにもその名前をつけたことからもわかるように、アナキストであるエマ・ゴールドマンの強い影響を受けている。堀はゴールドマンは伊藤にとって「人生の一大転機をもたらす人物」(p.62)だと評している。伊藤はゴールドマンの「結婚と恋愛」に基づいて、結婚による家庭にとらわれない男女関係について構想した。その核心的な概念が「フレンドシップ」である。

『フレンドシップ』には、当然ながら主従関係はない。契約だって必要ない。野枝はここから広がって、人間の集団に対する理想も考える。(p.149)

 そして野枝は、「友情とは中心のない機械」であるという。互いの個性を尊重しあえる友情こそが大事なのだ。夫、妻という役割を持つのではなく、互いの力を高めあっていくことこそが大切だという。

 ここまできてわかるのは、これが野枝の恋愛論であり、友情論であり、運動論でもある。労働組合の全国組織を作るとしても、そこに支配関係を作らせない。(p.150)

 「母性」についても、野枝は固定した伝統的な観念を超えて、より自由なかたちを模索している。そしてエマ・ゴールドマンの「自由母権」という言葉から自身の考えを深めていく。

 野枝は母となることは女の自由選択によるものであって、恋愛のよろこびの結果でなければならないとしている。もしその自由な母を貶めるものであれば、結婚は悪であり、女自身を売ることになる。妻という光栄よりも、母という光栄を私はとる、ということを野枝は主張している。(p.151)

 伊藤はフレンドシップ=友情を一つの人間関係の自由なモデルと考えたのだろう。昨今の若い人たちが「友だち」の間の人間関係に悩んでいるのを見ると、現代の人たちがこのモデルをすんなりと受け入れるだろうかとは思わなくはない。

 しかし、現代でも、例えばフェミニズムの立場から、創作物を見たり読んだりする際に、作品に描かれた「シスターフッド」(女性同士の同じ志を持つ形での連帯)を高く評価するのに出会うことがある。これはおそらく伊藤が理想としたモデルに近い関係に思える。

 家父長的な夫・妻の役割分担、組織体が持つ上級者・下級者の関係はもとより、男女の恋人同士——ヘテロ恋愛で前提となる男性の性的な欲望やそれに伴う偏見・確執・支配といったものからも自由であるような関係が「フレンドシップ」であり、現代なら「シスターフッド」という概念を採用したかもしれない。

 

 最近高松美咲『スキップとローファー』9を読んでいて、「人間・恋人」論争があったのを思い出した。

 

 

 主人公のみつみと聡介は付き合っていたが、別れてしまう。別れる時に「恋人」ではなく「人」としてどんな時でもつながっていられる関係になりたいといって別れた。その話を打ち明けられた迎井に、聡介は次のように言う。

なんでそこ恋愛に結び付けなきゃなんないのかな

オレはさぁ みつみちゃんのこと 人としてすごい好きなわけ

みつみちゃんがそうしたいなら「恋人」もできるかなと思ったけど

 迎井は聡介との間に「前提」が共有されていないようだと感じて解説を行う。

 聡介の考えている「好き」の「スゴイ」は 人>友達>恋人 の順である。

 迎井の考えている「好き」の「スゴイ」は 恋人>友達>人 の順である。

 迎井にとっては人として尊敬できることはまずベースにあり、その中でも特別性が「友だち」→「恋人」と上がっていく。

 聡介は、「恋人って性的な魅力があればジャッジが甘くなるでしょ」という。性欲が混じる段階でその関係を不純というか、動物的というか、価値のより低いものとしてみなすのである。

 現実の歴史の中では、性的な感情は欲望・打算・支配・抑圧・偏見などをしばしばセットにしてきた。だから、聡介が現実の恋人に一種の不潔さを感じるのはわからなくもない。「人」という抽象化を果たすことで、その不潔さから解消されるように思える。

 「あなたのことをオンナとして好きなんじゃない。人として好きなんだよ」という方が、確かに無数のジェンダーに縛られたこの現実社会では、貴重な告白のように見えないだろうか?

 伊藤が現実の夫婦・家族・恋愛に辟易した結果、「フレンドシップ」に真の自由を求めたことは、故なきことではない。

 ただ、「そんなふうに仕分けができるものかな」という思いも残っている。ぼくの中では性の匂いを消してしまった解決のような気がして釈然としない思いが残っている。

 

 このように伊藤を読むことは、伊藤の生き方を現代的な問題の先駆としてとらえることでもある。

 このような問題は他にもある。

 本書には紹介されていないが、伊藤の「無政府の事実」は相互扶助の町内会の良さを活写したものだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 本書の中でも他に様々あるが、例えば廃娼論争はその一つであろう。

 現代でも「性売買は性暴力だ」「セックスワーカーの労働条件改善運動をすべきか」などの問題として取り上げられる。

 この問題で伊藤が青山菊栄と激しい論争をしたのである。

 論争そのものは感情的な文章になってしまった伊藤の負けだと世間的には認識される。それに対して、堀は伊藤を次のように擁護する。

この「廃娼論争」は一方的に率的な菊栄の勝ちとされているが、はたしてそうであろうか。野枝の発言は、売春をしなければ生きられない貧困層の人びとに、あまりに共感しすぎて論理的には破綻してしまった、ともいえるのではないだろうか。また、どう見ても惨敗としか見えない「論争」をあえて誌上にさらけだしたところに、野枝の率直さがあるのでは、と思える。(p.79)

 いずれにせよ、伊藤野枝についてはその書いたものや言ったことがそのまま現代でも通用するという角度ではなく、著作やその生き方も含めて、今の時代の先駆としてとらえて、現代の問題を考えるヒントにするという立場で接する。

 

 有名な日蔭茶屋事件もそうである。

 伊藤野枝大杉栄と関係を持つにいたるが、大杉は長年連れ添った堀保子と、やはり深間となった神近市子との多重関係に陥って、「自由恋愛三か条」なるものと打ち立てる。

一 お互いに経済上独立すること

二 同棲しないで別居の生活を送ること

三 お互いの自由(性的にも)を尊重すること(堀p.97)

 しかし評伝の筆者(堀和恵)からは

この三条件は、大杉の驚くほど無知な、男性中心主義のエゴイズムが丸出しである、といえる。また、多角関係に陥った大杉の、苦しまぎれの空論ともいえよう。(同)

と酷評されている。実際、この多角関係はいわゆる「日蔭茶屋事件」として神近による大杉への刃傷沙汰となって劇的に破綻する。

 この大杉の想定は大体近代においては強く批判されてきた。男の身勝手を体良く彩っているだけだからだということで。

 しかし、このような自由恋愛は、現代では構想し得ないものなのだろうか? あるいは条件付けをすることで成り立つのか(ポリアモリーやオープンマリッジのように)? などの問題として考えるきっかけにすることはできずはずだ。

 夫婦が合意の上で性的な自由を行使する「オープンマリッジ」って、大杉の構想に近くないだろうか。下図は多田基生『SとX  〜セラピスト霜鳥壱人の告白〜』3巻(講談社)からの抜粋だが、オープンマリッジを語る登場人物の口調・表情が穏やかで、作者がこの方式に高い肯定感を持っていることがわかる。

多田前掲書、kindle61/189

 

 伊藤野枝の中には完成された答えはない。

 自由を求める中で、現代の課題を先駆的に取り上げた人間として接し、本書をそのガイドとして使うのがいいのではなかろうか。つまり、上記のような論争を、現代でも行ってみる討議資料・テキストにするのである。