志村貴子『放浪息子』

 うぉぉぉ……『放浪息子』が終わってしまった。
 ぼくの一番好きなマンガの一つが……。

疎外

 志村貴子の短編集『どうにかなる日々』には、中学生のとき家庭教師の男と性行為していた少女・琴子の話が出てくる。琴子は、陰毛が生えてくるので自分が「先生」に嫌われるのではないかと思い、逆に「先生」を告発して自分の目の前から消してしまう。「先生」との記憶が甘美だった琴子は、自分に陰毛が生えてくるたびに悲しくなる。

 しかし、高校生になって、つきあっている男の先輩にそのことを話す。

先輩に先生のすべてを話した
あたしの知ってる限りのすべてだけど


そしたらなんだか先生が
先生がまるで
得体の知れない
うす気味悪いなにかに
思えてくるので
不思議だった


 自分の中から外に取り出され、生み出されたものが、やがて自分に対立し、自分にとってよそよそしくなること、自分を支配さえしてしまうことを「疎外」という。
 琴子は、自分の中にあった「先生」との甘美な思い出を、叙述して対象化し、客観視することで疎外したのである。そのことで、その甘美なものを崩壊させていった。甘美なものではなく、あれは強制わいせつではなかったのか、と。


 単に客観視するだけではない。
 そこに自分の欲望をこめてみたりする。つまり積極的に嘘をまぜてみる。虚構をくぐることで自由になれる。それは必ずしも心を軽くするばかりの作業でもない。芥川賞をとった西村賢太は、「書くことで自分も救われるのでしょうか」との問いにこう答えている。


自分が救われるということはないですけども、ただ、まあ、書いているうちにおもしろくなることはありますね。ずいぶん、ダメなやつだなあ、ダメなやつだなあと思いながら、書いてて、あー、でも、これ、俺のことなんだよなあって、それでがくっと落ち込み、もう、お酒に逃げ、その繰り返しです。いま。
(強調は引用者)

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/100/70088.html


 でも、こういうダウンをふくめて、創作者は何かしらの自由を得る。書くことによって、解放される。

「書くこと」「創作」と二鳥修一

 『放浪息子』には、書くこと、創作することがたくさん出てくる。
 女の子になりたかった男の子である主人公・二鳥修一は、最後に自分を題材にした小説を書こうとする。
 それまでも修一は、書く試み、あるいは虚構に自分を置いてみる体験を作品の中でたくさんやっている。
 『ベルサイユのばら』を演じながら虚構の中で性の交換をする体験をする。
 『赤毛のアン』に自分を置き換えてみる。
 将来の夢を作文しようとして、「女の子になりたい自分」の夢をうまく書けずに放棄する。
 男の子になりたい女の子・高槻よしのとの交換日記の中で、自分の女の子になりたい思いや体験を初めていろいろ綴ってみる。
 家出をしたくなるような見放された気持ちを、継母にいじめられるシンデレラにたとえて創作をしてみる。
 自分の欲望にもとづいた改造版『ロミオとジュリエット』の脚本を書いてその劇を見た姉に「あれ まんま お前のことじゃん」と指摘される。
 「自分の欲望を書いた」という世界中の性別が入れ替わってしまう劇の脚本を書いて、上演してもらう。


 修一は、書くことで、あるいは書かれた創作物を経由することで、自分の中の欲望をコントロールしたり、客観視しようとしたり、挫折したりする。



放浪息子 15 (BEAM COMIX) そして、最終巻15巻の半分は、修一が書こうとした・書いた記録としての小説の話である。
 小説を読んだ友人・土居は「視点がごっちゃになってて読みづれぇ」と批評する。「私小説風のフィクション」だというこの小説は、二鳥修一の主観から眺めただけの世界ではなく、多元的な角度から描かれた二鳥修一である。「嘘も書く?」「嘘なら嘘で説得力のある嘘を書きなさいね」と言われたこの小説は、まだしてない恋人とのセックスをふくめて「嘘」がふんだんに入っている。自由な嘘を駆使し、客観的に描いた修一の小説は面白くなったのだろう。確かな批評眼を持つというポジションを与えられている土居からウケてもらえる。
 そして、小説を読んだ修一の恋人・末広安那は、突然泣き出し、途方もないように思える意見を修一に告げる。


ちがうの
読んでたら 
これ
シュウがもうすぐ
死んじゃうみたいな
気がしたの


死んじゃやだ

 涙でぐしゃぐしゃになる安那。
 「シュウがもうすぐ死んじゃう」というのは、作品の疎外そのものである。小説は修一に対立し、支配せんばかりの自立をとげている。
 しかし、それは作品として成功しているということでもある。
 声変わりした修一は、15巻において、ヒゲをそる大ゴマが扱われ、首も太くなり、ショップの店員にも「女装した男」であることを気づかれるようになる。38ページに男である自分を自覚する修一の顔は、女装はしているものの、はっきりと男性のそれである。28ページの女のかっこうをした同じ修一とは、まるで違う。同じなのに違う。15巻には、もう声変わり前の声は永遠に戻らないと吹き込んでおいた昔のテープが出てくる。いわば「女の子と区別がつかない少年時代」が完全に終わることが各所に示されている。
 「シュウがもうすぐ死んじゃう」というのは、そのような意味にもとれる。
 表面的に「女の子であることが違和感をもたない時期」の終焉、という意味である。しかし、修一は女になることをやめるわけではない。
 小説を書くという行為に支えられて、新しい時代を始めていくのである。


 書くという行為に人生が救われる、ということは、ぼく自身の思いでもある。疎外を味わうことは、文章を書く人間にとって、決して嫌なことではない。そして自分に対立してくるものが描けなくてはおよそ成功しているとは言えない。だから、修一のこの行為はぼくにとって馴染み深いものである。
 志村という創作者にとってはなおさらのことであろう。

 
 

かっこいい人になった二鳥修一

 気がついてみれば、二鳥修一は「かっこいい人」である。
 親友の有賀誠が「にとりんて ここ一番てとこで けっこー積極的だよね」(7巻p.79)というように、修一は物語の中で大胆な決断を実にしばしば行う。女装して街に出たり、登校したり、末広安那に自分から告白したり、赤く髪を染めたり、校則違反のバイトをしたり……。
 1巻のころは、おどおどした少年という印象だったのに、書くことや創作的な行為を通じて自分をコントロールさせながら性的な自己決定を決断できる「かっこいい人」になっていた。
 15巻で修一は、高槻さんが最初に女の子の服をすすめてくれた頃を回想しながらヒゲを剃るシーンがある。

うん
ホントは
ホントは
そう思っていた
ぼくが着たら
似合うと思って
ぼくは思ってた


ぼくは自分に自信があった…


 うそだろう、と思う。
 最初から自信があったとは読者であるぼくは思えなかった。確かに似合うには違いない。しかし、「ぼくは自分に自信があった」という言説は、歴史を修正しての修一の発言である。にもかかわらず、修一の今現在の自信としては根拠のあるものだ。1巻から15巻を通じて、修一はこのように変化したのである。


 というわけで。
 女の子になりたい男の子の話は、かっこいい人をかっこよく描くことに根本的に成功した。こんなにもかっこいい人が描けたということは、すばらしく美しいということなのだ。
 物語は美しく終えられたのである。


ところで

 そんでですね、この物語のどこがハアハアしたかということを6巻までは逐話的にやってきたわけですが、それは別の機会にやりたいなと思う所存。何しろ、にとりん俺の嫁ですから。ええ。