才能も努力もガチャだと思う
親ガチャが話題であるが、才能はガチャだと思う。
本人が努力して得たものもあるだろうけど、努力できるのも才能の一つだ。ロールズの次の意見は正しい。
努力しよう、やってみよう、そして通常の意味で称賛に値する存在になろうという意欲さえ、それ自体が恵まれた家庭や社会環境に左右される
そして、先天的なものだけに限らず、生まれてからどんな社会資源を利用できたか、利用できる環境にあったかも重要である。生まれつきと、みんなで寄ってたかってつくったものと、わずかばかりの自分の努力が「私の才能・能力」だ。
マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んでそういう気持ちになった。
いや、上に述べたことは実は、サンデルが本書で言おうとしていることの中心軸ではない。だけど、本書を読んで、改めて能力とか才能とかいうものがどのように得たのかについて考えてみるところがあった。加えて自分が得ている所得についても。
ぼくの社会的評価というものは考えてみると微妙で、学歴に比して収入は高くない。民間の男性サラリーマンの平均年収よりはずっと低い。社会的ポジションも高いとはいえない。同窓会などに行って「ほう、いま紙屋は〇〇をやってるんだ! へえ!」と感心され、羨ましがられ、「自慢」できるようなものでもない。職業を聞けば、どちらかといえば憐れまれるだろうか。
他方で、自分の書いた本を世に問えたことは自分にとって望外の幸せである。
そう見たときに、ぼくは自分の能力を肯定的に評価しているのだった。
だから「なぜ俺はこんなに能力がないのだ」という問いは立てない。「このような能力を得られたのはなぜか」と考える。そしてそれは、この本を読んで、生まれつきと、みんなで寄ってたかってつくったものと、わずかばかりの自分の努力が「私の才能・能力」だ、とやはり思ったのであった。
自分の能力を総括し、わりと謙虚な結論を出せたことは、実は本書を読んでの一番の収穫だったかもしれない。(くりかえし念を押しておくが、別に本書の主軸はそういうところにはない。)
本書の前半
本書は、リモート読書会で読もうということで読んだ本である。
本書の前半は、アメリカ社会を覆う能力主義の現状や歴史が描かれる。
アメリカでトランプを勝利させた要因の一つとして、能力主義価値観にリベラル側も乗っかってしまっていることが挙げられている。
能力(功績)と所得は比例するかしないかといえば、サンデルは比例しないと考えているが、世の中では比例していると思われている。高所得の人は能力があり、低所得の人は能力がなかった、というふうに見られる。
だからアメリカのリベラルは「誰でも能力を得られる機会をつくろう」といって、教育機会の均等政策に力を入れる。
しかし、これは裏を返せば、「貧しい環境にいるあなたは能力が低かったのだ」と言われているようなものである。能力主義以前の社会、例えば貴族しか高い地位につけない時代には「私は貴族ではないから」と考えることができたが、今はそうではない。高い地位、高い所得が得られないのは「能力が低いせいだ」とレッテルを貼られてしまうし、自分でもそう思い込まされる。
そして、能力を生み出す源泉として大学があり、学歴偏重主義の様子が描かれる。
本書の後半がキモ——能力主義をどう批判するか、対案をどうするか
後半は能力主義を批判するさまざまな哲学的立場が登場する。
ぼくは本書のキモはこちらだと思った。(そして、サンデルの主張は、他の立場と区別して理解するのが少しわかりにくいと思うので、ぼくなりの理解をここに書きながら感想を記したい。)
能力主義が問題があるとしても、それをどの立場からどんな角度で批判し、どういう社会対案を示すのかということが問題となるからだ。それこそが解明するに値する難問である。
第二に、福祉国家(平等主義)リベラリズム。ロールズをその代表格とする。
これらはどちらも自由主義の枠組みを使うために、何か特定の価値観をたたえて、それを優先させるようなやり方を批判する。自由主義とは多元的社会であるから、すべての価値観は平等な立場で競い合うようにすることこそが、自由主義にとっては正義の枠組みになる。
自由市場リベラリズムは、「能力(功績)により経済的報酬を手にいれる」という考えを擁護していそうに思えるが、そうではなく、両者は何の関係もないとする。能力ではなく、ただ需要と供給で決まった価値なのだとする。能力と所得は何も関係ない、と主張することは能力主義への批判となるが、能力のある人が何かの事情で手に入れた所得や資産は需給で決まったものだとして、手をつけないのである。解釈を施すだけで、何もしない。
他方で、福祉国家リベラリズムは、「能力(功績)により経済的報酬を手にいれる」という考えを認める。しかし、与えられた能力は生まれつきに差があるから、それを再分配によって是正する。能力主義は「機会の平等」を前提にしているものの、実は機会は平等ではない、と福祉国家リベラリズムは批判するのである。
サンデルは、より立ち入った批判を福祉国家リベラリズムについて行う。現代のアメリカで能力主義への批判として影響を持っているのは福祉国家リベラリズムであり、オバマなどの「進歩的」立場もこの福祉国家リベラリズムに近く、トランプを支持するような層はそれを憎んでいるからである。
サンデルの福祉国家リベラリズム批判のポイントは3箇所ある、とぼくは読んだ。
一つは、福祉国家リベラリズムは再分配をする根拠を持たないという点だ。
あくまでも福祉国家リベラリズムはリベラリズムの仲間だから、価値が多元的である枠組みを守ろうとするからである。
〔福祉国家リベラリズムは*1〕コミュニティがこのお金、あるいはその一部を要求する正当な道徳的権利を持つことを立証するわけではない。…福祉国家リベラリズムは、それが必要とする連帯を形づくるのにふさわしい共同体意識を生み出せない。(サンデル本書KindleNo.2915-2942)
そして、第二点は、再分配を受ける際には、「自分では制御できない不運」に見舞われたものに対してでなければならないという主張を福祉国家リベラリズムは行うために、「選択と責任」ということを強調するようになる。
しかし「自分では制御できない不運」が狭くとらえられてしまえば、それは日本の「自己責任」論に近くなり、「今貧困に陥っているのは努力できる条件がありながら努力しなかったせいであり、能力・功績がなかったんですね」という能力主義にあまり対抗できなくなっていってしまう。
第三点は、福祉国家リベラリズムが前提にしている「所得の不平等は才能の結果であり、才能には運不運がある」というテーゼは、前半がおかしいとする。
サンデルは、才能と所得は関係ない、と断言している。
金儲けでの成功は、生来の知性には──そういうものがあるとすればの話だが──ほとんど関係がない(サンデルKindleNo.3391-3392)
今べらぼうに金を儲けているような奴らに追いつこうとして教育の機会均等に力を入れて、それでできるというのか? ヘッジファンド・マネージャーと高校教師は知性の先天性とは何も関係ないぜ、というわけである。
サンデルのリベラリズム批判
こうしたリベラリズムに対して、サンデルはどういう立場をとるのか。
サンデルは、才能がガチャであることは認める。福祉国家リベラリズムと同じように能力主義的なヒエラルキーの支配には反対しているが能力を発揮させることには賛成している。しかし、才能=所得とは思っていないので、才能・能力・功績を個人が成し遂げられるような措置にはあまり関心を払わない。大学が過度の選別装置になることについては、さすがに大学解体は唱えないが、過度の意味づけを解体させるような緩和策=ある条件のもとでのくじ引きを提案する。
サンデルが一番関心を持っているのは、エッセンシャルワークのような労働をしている人がコミュニティに不可欠の貢献をしている価値を認められるような仕組みづくりである。「エッセンシャルワークのような労働をしている人がコミュニティに不可欠の貢献をしている価値」はまさに、コミュニティが共通して持つべき善=共通善である。この枠組みを提出することは、「どの価値も優遇してはならない」という多元主義という「正義」の枠組みを絶対にしているリベラリズムにはできないことである。
サンデルの提示する具体策は2つである。
一つは、低賃金労働者への賃金補助である。コロナはエッセンシャルワーカーこそが低賃金であることを可視化した。コミュニティへの貢献を称揚していることを政策で示せというわけである。
もう一つは、課税の重点を労働から、消費・金融取引(投機)に移すことである。社会のメッセージとして、労働を重視し、消費や金融はあまり役に立っていない、と発信しろということである。
ぼくのサンデル評価(1):教育の役割の意義と限界
ぼくはどう思ったか。
冒頭にも述べたように、才能はガチャだと強く思った。自分で達成できる部分の方が小さい。社会の力を得て形成された自分が持っている能力や才能は、「本当の自分のものではない」などと萎縮する必要は毫もなく、存分に発揮すればいい。しかし、その能力や才能は、自分個人の功績であるから誇りに思うのではなく、親・周囲・社会の力で得られた能力や才能で、何かしら社会に貢献できたことに満足を覚えるべきであろう。何かにたとえて言えば、他人の荷物を運ぶために、誰かから借りた自動車で、予定より早く目的地に着けて、誰かの役に立てたようなものだ。
斗比主閲子が親ガチャについて記事を書いていて、その中でやはり才能や能力の問題に話が及び、
努力を過信しすぎです。
と言っていたが、まあそうだよなとぼくも思う。
多分、斗比主閲子以上に強く思っている。
社会の力で得た才能や能力を使って、個人の資産(だけ)を増やしたり、社会に役だたぬ個人の趣味(だけ)を実現したりすることは、恥ずかしいものだ・悪いことだとまでは思わなくていいだろうが、積極的に自慢すべきことではない。あくまで個人のお楽しみ、という話なだけである。
他方で、才能・能力と所得の結びつきは、完全にはないけども、一定あるという点は踏まえたい。ヘッジファンドのマネージャーと高校教師という対比では確かにサンデルの言うように才能・能力と所得の結びつきはあまりあるまい。しかし、例えば中卒の人と、医者になった人では、能力が所得の差になって現れることは疑いないだろう。
最近、ぼくは、議員の生活相談に関わる機会を持った。生育環境のために高校を卒業できなかった人が中年になってから生活保護を受けたのだが、保護を終わらせる自立するために、高卒の資格が必要な、ある福祉資格を得たいと考えた。そこで通信制高校を短期で卒業したいとケースワーカーに相談したのだが、にべもなく断られ、「働け」と指導されたという。福祉事務所も、最終的に法律解釈として“中年になってからの高校進学はダメ”と結論づけた。一般的な話としてもひどい話だなとぼくは思ったのだが、実はその人が保護を受ける前に働いてきた職業と、その福祉資格は非常に近いもので、このケースについていえば、いよいよ高卒の資格を得させるために保護が活用されるべきだと言う強い実感を持った。本当に恒常的な自立のための手立てには保護費を使わせず、アルバイトでもなんでもいいから働けと急かして保護費をケチるという、保護行政の一番悪いところが現れたなと思った。
そういう人にとって、「能力」と「所得」は切実に結びついている。この人は高校卒業という学歴を得ることこそ必要なことだ。
だから、ここではサンデルにはぼくは同意しない。
もちろん、教育に過度な期待をしすぎる昨今の貧困対策の罠には陥りたくない。福岡市の子どもの貧困対策は「学習支援」がトップにきて、高校進学率をまず問題にする。
https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/75159/1/dai5jikeikaku_mokuhyou3.pdf?20200419175908
大きな貧困対策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない大きな貧困対策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない。
そのことは前に書いたことがある。
そういう意味では、サンデルに賛成する。
ぼくのサンデルの評価(2):学校群制度で感じた「くじ引き」の力
大学を過度の選別装置にしないために、一定の試験条件をクリアした人についてはあとはくじ引きにしたらどうか、というサンデルの案は面白いと思う。
何を隠そう、ぼくの行った高校は学校群制度のもとにあった。偏差値ヒエラルキーを緩和するために、高校を複数でセットにして「学校群」にして、受験生は「学校群」を受験し、くじ引きで振り分けられるのである。したがって、ぼくは「くじ引き」で自分の行く高校を決められた。もちろん「不本意」な方に行かされることになったのだが(笑)。
今この学校群制度は無くなった。有名校進学者の数だけを競う視点からは「失敗」だったのだろうが、学校間格差を緩和する上では役に立ったのではないかと実感する。
もちろん、これはサンデルの提唱している制度とは違う。
しかし、「くじ引き」で学校が決まる感覚は、面白いまでに学校のブランド力を消してしまった。ぼくが行っていたA高校は当時学校群を組んでいたB高校と「同じ」という感覚が強くあった(学校群がなくなった今では受験ランク上、A高校は「凋落」し、B高校は圧倒的なブランドを誇っている)。だから、たぶんサンデルの言うようなくじを入れたら、ハーバード大であっても、「ああ、くじね…」という感覚が付きまとうようになるし、行けなかったとしても「くじに落ちただけだもんな」という感覚が生じるだろうと、予感できるのだ。
だから、ぼくはサンデルのこの大学受験改革は面白いんじゃないかと思う(実際の是非は制度導入する際に詳細が加わり、それによって検証されるだろうが)。あくまで「多少の緩和」程度のものであるが。
ぼくのサンデル評価(3):根本的には共産主義の方がよくね?
さて、最後に、サンデルの根本的な改革案である賃金補助と消費・金融課税強化について。
賃金補助については、日本では、例えば保育士・看護師・介護職員・福祉施設職員・スクールソーシャルワーカーのようなものは公定の単価が決められており、政治がコントロールしやすい。医療・教育・福祉に従事する人たちは「エッセンシャル」でありなおかつ「専門性」を有しているから賃上げの根拠とされている。
他方で、スーパーの店員とか清掃とか配達員のような仕事は「エッセンシャル」といえるが「専門性」がある仕事だとはなかなか言いにくい。例えば、公契約法・公契約条例のようなもので、行政が発注する仕事に関わる人の賃金を保障するという政策があるので、それによって賃上げを図ってはどうかと一瞬思ったが、それは「公的に発注する仕事でワープアをつくってはならない」というメッセージであって、サンデルの言っていることとは少し違う。サンデルは、共同体にとって不可欠の仕事だと評価して、職種は広くなり、膨大になるだろうが、そこは思い切って補助をすべきだという提言をしているのだから。
サンデルのような政策をすることで、「政治は〇〇という職を社会に不可欠のものとして評価している」というメッセージを出すことになるから、例えばそこにスーパーのレジ打ちの仕事が入ってこなかったら「レジ打ちはエッセンシャルなのかそうでないのか」という議論が起きることになり、その議論が起きること自体が、世の中に「レジ打ちはエッセンシャルかどうか」を考えさせる契機となる。
課税の方はどうか。
これは考え方としてはあまり賛同できない。
労働よりも投機に重く課税すべきだという点は賛成できる。他方で、消費と労働(生産)を対立させて消費に課税すべきだというのは、「消費税は逆進性云々」の話は措くとしても、あまりに労働を称揚しすぎるきらいがある。
マルクス主義者でもあるポール・ラファルグが言うところの「怠ける権利」を否定することになるからだ。
自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。(ポール・ラファルグ『怠ける権利』KindleNo.355-357)
サンデルの言いたいことは、「低賃金であっても社会に不可欠の労働をしているその尊厳を誰がどういう形で承認してくれるのか?」ということだろう。それを承認せず、能力がないんですね、もっと所得が欲しければ能力を身につけましょう、という能力主義の論理はトランプを招いてしまうよとサンデルは特にリベラル派に言いたかったのだろう。
当面の政策としては、確かにサンデルの言うような賃金補助はあり得るだろうと思った。しかし、もっと根本的な考えがある。
共産主義となり、経済が利潤のためではなく国民の必要のために使われるようになれば、ベーシックインカムなりベーシックサービスが提供され、すべての人に健康で文化的な最低限度の生活が保障される。加えて、共産主義によって労働時間の抜本的短縮による自由時間の創出が行われる。そうなると、低賃金だから尊厳がないとか、収入があるから尊厳があるとかいう感覚が乏しくなり、そのような議論自体が不要になるのではなかろうか。才能がもっと伸ばしたい人は社会資源を使って伸ばせばいいし、不要だと思う人は伸ばさなくていい。怠ける権利もある。
結局コミュニタリアニズムを乗り越えるのはコミュニズムしかない。
平野啓一郎とサンデルの対談
平野啓一郎とサンデルが対談している。本書のエッセンスを要約したものだと言える。
例えばサンデルは本書で能力主義の積極的役割もきちんと論じているが、その立場は対談でもきちんと述べられている(平野も)。
しかし、本書と比較すると、理解するのが難しいリベラリズム批判の部分はあまり論じられていない。
能力主義の話の後は、リベラリズム批判の部分を飛ばして、サンデルの解決策の部分、すなわち大学改革におけるくじの導入、課税の重点について議論される。
平野が最後に、労働者としての評価の比重をむしろ低下させるべきだと言っており、労働以外の趣味の世界などので評価がされるような社会のほうがいいのではと述べている。そして、サンデルもそこに賛意を表明している。コミュニティへの無償の奉仕などの評価がされるべきだという話だ(日本で言えばボランティア活動のようなもの)。
*1:引用者注。