鈴木望『青に、ふれる。』は顔に大きなアザがある女子生徒(高校生)・瑠璃子と、相貌失認という表情の識別や個人の識別に障害を抱える男性教師・神田とのラブストーリー…のようなそうでないような話である。
主人公の瑠璃子をはじめ、登場人物がネガティブに起きる事態を受容したり批判したりするくだりがややポリティカル・コレクトネス的な意味で「説明的」である(つまり「いい子ちゃん」的な)ような気がしていたのだが、4巻まで読み進めてきてみて、むしろ思い切ってそっちに振り切れており、それはそれで学ぶものも多いなと思い直して読者として付き合っている最中の作品である。
例えば4巻。
そのとき、先生が言った「悪気のない一言」についての話になる。
- スッピンがいい、という言葉がメイクの否定に聞こえる。
- 美人の先生が「素敵」「かなわない」というのは上から目線に聞こえる。
瑠璃子がいう。
相手がポジティブな意味で言ってくれたのに自分がネガティブに捉えちゃうことってあるよね
そのとき、気持ちをどう対処すればいいのか。
顔にアザがあるという瑠璃子はそうしたケースに遭遇することが実に多い。だからそんなときの対処法について次のようにいう。
でもそんな自分を責めたりしないで イラっとしたとか モヤっとしたとか 自分の感情をまずは大事にする…でいいんじゃないかな
ぼくは、これを聞いたときは「ええ〜? そうかなあ〜?」と思ってしまった。
それだと自分を客観視できなくて、自分の感情の奴隷になってしまうんじゃないの? と思ったからである。
だけど、瑠璃子は本当にいろんなことを小さい時から言われる。その例がマンガには
書かれている。
- 女の子なのにかわいそうにね
- どうしてレーザー治療しないの
- 堂々としてえらいね
- 大事なのは笑顔
- 内面を磨く努力!!
などである。
うん…こうして書かれると、「相手の意図を尊重する」を優先しすぎて自分の感情を抑圧してしまうといちいち振り回される気がする。本気で疲弊しそう。
ゆえに瑠璃子はこういう考えを持つに至る。
どう受け取るか あたしが決めていいんだって ずっと自分に言い聞かせてきた…のかも
しかし、これは瑠璃子の身の処し方、考え方であるように思われる。
言った側の「そんなつもりで言ったんじゃなかったんだけど…」という問題は残る。
白河という女性教師は、瑠璃子を評価する言葉を同僚の神田に言おうとして、「アザがあるのに」「普通に友達が多い」「でも良かった」などのワードを入れてしまい、疑問を抱かれてしまう。
白河は素直な言葉、しかも前向きな評価の言葉を口に出しているつもりなのに、なんとなく妙な特別視をしたり、場合によっては差別的とも取れるニュアンスを生んでしまう。そのために白河は瑠璃子についての評価の言葉が紡げなくなってしまうのである。
今まで周りに青山さんみたいな人いなかったからどうしたらいいのか…
とつぶやくのだが、言ったそばから白河は
あ 青山さんみたいな人って…
と自分の発言が瑠璃子をまたしても、奇妙な取り扱いをしているのではないかと不安になる。しかし、瑠璃子はすぐに伝える。
大丈夫です わかってます 答えてくれたことも嬉しいし 伝えてくれてありがとう…って思います
つまりコミュニケーションしか解決策はない、ということである。
瑠璃子が空気を読んで自分の感情を抑えていたことについてそれは孤独に陥ってくる罠であることに気づき、まずは自分が何を感じているかを自分に伝えてあげようというトレーニングをしているのだと白河に伝える。その際、白河は、
青山さんは
強いね!
と満面の笑顔で悪気なく言う。しかし、瑠璃子はすかさず
あたし “強い”って言われるの嫌です
と述べ、白河が褒め言葉を述べてくれたことを了解していると言いつつ、自分のモヤりを素直に伝えたのである。
白河はすぐにその意図に気づき、「あっ」と声をあげ、
伝えてくれてありがとう
と答えた。瑠璃子はうまく伝わったと明るい表情をする。
面倒くせえな、と正直に言えば思う。
リアルな自分の近所・職場を思い浮かべて「今の発言、ぼく的にはモヤりましたよ」と伝えてもトラブルの種になるだけじゃないのか? とは思う。
また、ネット社会を見ていると、誰かのツイートとかに、「自分の素直な気持ち」を即レスしてしまうことが何かプラスになるようにも思えない。
だけど、たぶん瑠璃子が言っているのはもう少しダメージの大きい発言についてなんだろうと思うし、ネットのような顔も見えないし、信頼関係もないような関係を想定して瑠璃子はモノを言ってるんじゃないよな、とも思う。
これだけ感情を表現することが微細な領域まで発達している世の中では、コミュニケーションにはコストがかからざるを得ない。そう言えばネガティブに聞こえるだろうが、丁寧にコミュニケーションをすれば相応の相互理解を得られる、ということに他ならない。
この問題は、ヤマシタトモコ『違国日記』8でも取りざたされていた。
親を失った高校生(女子)・朝の親友・えみりは女性である。えみりには同性の恋人がいる。それを初めて朝に打ち明ける。えみりは、朝が行ったことも含めてこれまで自分が言われてきて傷ついたことを思い出す。
それについて、朝は何か反論しようとするが、やめる。そしてこうつぶやく。
えみりが何で傷つくかは……
…えみりが決めるんだ
…あたしじゃなくて
えみりは傷ついたことを伝えざるを得ない。えみりが「えみり」になるために。
えみりは、顔を手で覆いながらつぶやく。
…あたしはただ
あたしでいたい
なりたいあたしに
なりたいだけ……
いろいろあっても、これがフェミニズムの原点であり、そのための障害物と闘争としようという思想なのだろうとぼくは理解している。
だけど、傷ついた自分がいて、人としての尊厳が侵されている、つまり人権が侵害されていると感じたとして、世の中ではそのすべてが自明なこととして通用するわけではない。こうかくと語弊がある。その8割くらいはたぶんまっとうな主張なんだろう。だけど2割は自明ではない。行き過ぎだったり、他の人の権利を今度は押さえつけたりする。
だから、ぼくらが暮らす生活圏においてはコミュニケーションが必要になってくる。
不快さを伝え、相手と議論する。相手が納得する。もしくは譲歩する。あるいは相手は折れなくても、意思を伝えたことで尊厳を守る。ないしは、自分の主張の「横柄さ」を知るときもあろう。
だが、まずは言葉に出してコミュニケーションをしろ、というのは、やはり正しい。少なくとも生活圏においては。
しかし、広い社会に漕ぎ出してみれば、どうだろうか。
「マイクロアグレッション」のようなことに、違和感や不快感を抱いたら、声を上げるべきだ、という考えはあろう。そして、基本的にぼくは、例えば女性が生きていく上での違和感や不快感は表現すべきだと思っている。
例えば「性的に見られることの不快感」については、ずっと前からそういう意見をぼくは知らなかったわけではない。だけど、それほど過大視してこなかったから、ここ数年で大きな声としてネットや一般社会であげられるようになって、自分の過去の言動も含めて、相当な不快感を与えていたし、自分にはそういう自覚が薄かったなとは思った。
ただ、次に、そこから進んで「保護されるべき人権・法益」のようなものとして、表現を規制したりするところまでいくのには、少なくとも現時点ではぼくは同意しない。
「マイクロアグレッション」という言葉を使うとき、問題を提起し運動を起こす側としては「問題の所在」を明らかにする上ではとても便利な概念だとは思うのだが、そこから直ちに問題を提起した側の提起が正当化されて法律で保護されるべき利益になるわけではない。例えば「この表現は女性の尊厳を貶めるものであり、女性の人権を侵害する表現だから、この表現は撤回されるべきだ」というふうに。
広い社会でコミュニケーションを取り合って相互理解に達するのは相当な困難があるから(あきらめるべきではないとは思うが)、表現や言論の自由を前提に棲み分けるしかない。*1
具体的にはどうするのか。広い社会において、例えば「女性を性的な対象とだけ見るような表現は不快である」ということを、表現の規制によらずに、粘り強く伝え続ける・声をあげ続けるというのは、意味があるということだ。そういう中で人々の意識が変わってくるからであり、それが「表現の自由市場」の大切さなのだ。