志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(5/5)

 志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を5回シリーズで書評してきたが今日はその5回目、最終回である。

 批判点ばかり書いてきたが、今回は最後なので、志位の本書の積極的な意義を書いておきたい。

今回の記事の要旨

 今回も要旨を先に書いておく。

  1. 志位の本書で述べている基本点はすでに不破哲三が解明し、2004年綱領で盛り込まれているのではないか。
  2. 志位の本書の新しさがあるとすれば第一に、労働時間の短縮の問題を遠い共産主義の話とせずに現代の労働運動や社会運動の課題としてとらえなお、未来社会と地続きの問題として提起したことにある。
  3. 志位の本書の新しさがあるとすれば第二に、生産力主義というマルクス主義への非難に対し、生産力一般ではなく「資本の生産力」が問題なのだと整理したことにある。

 今回もまず要約を載せる。その上で、体力や時間がない人はそこまで。詳しく知りたい人はそのあとの本文を読んでほしい。

 

1. 志位和夫の本書に「新しさ」はあるか

 さて4回にわたって書いてきた「忌憚のない」書評だが、どうも批判が目立ったかもしれない。

 

 

 残念ながら、志位の本書の基本点は、すでに2004年の共産党綱領の改定、その前後に不破哲三が自身の研究で明らかにしたことに尽きている。労働時間の抜本的短縮によって自由な時間を創造し、それによって人間の能力の全面的発達と人間解放を実現するということ——これを共産主義がめざすべき、あるいは実現するであろう中心に据えたという点である。そこからほとんどハミ出ていない。

 この点は、すでに以前から研究者の中では注目されてきた論点ではあったが、ここを深めて、政治の中心、綱領の中心においた不破の研究(および当時の共産党大会)の功績は本当に大きいと思う。

 だが、そのインパクトに比して今回の志位の本書の新しさはほとんどないと言っていい。いくら文献学的な装いをこらしたり、あるいは複雑な理屈の構造に仕立てたりしてみても、それはかえって理論の密教顕教的性格を強めるだけで、多くの党員はそこについてこられなくなる役割しか生み出さない。「本当のことがわかるのは、『草稿』をちゃんと読んだ一部の幹部だけ」ということになってしまう。

 もちろん、本書を使っての学習会や宣伝は盛んなようだ。それはそれで大いに結構なことである。

 しかし、中身を見ると本書のどの点が役立っているのかはよくわからなくなる。

 例えば24年9月20日付の「しんぶん赤旗」には党滋賀県委員会の宣伝の様子が書いてある。

共産主義社会になれば、自由な時間が増える」と聞いた女子高生は「趣味に時間を使いたい」と。

 うーん、それはすでに2004年に解明されたポイントについての反応ではないか…。

 そしてこの女子高生は自分の趣味の時間確保を共産主義社会の実現まで待つ気なのだろうか。共産主義社会は今日あなたがバイトから自宅に帰る頃には出来上がっているものではないのだよ。

 

2. 志位の本書の新しさ(1)——今の「時短の取り組み」とつなげる

 それでも、志位が本書で強調した点で、新たに重要だと思える点はある。

 一つは、労働時間短縮の取り組みは、共産主義社会になって初めて行われるものではなく、現在労働運動が進めている時短の取り組みが将来の抜本的時短と地続きになっていることを強調した点である。

 これによって、時短の話は遠い共産主義での話ではなく、今この時代で取り組むべき問題として引き寄せられたことである。

 本書ではQ25(「『自由に処分できる時間』を広げることは、今の運動の力にもなるのではないですか?」)やQ33(「今のたたかいが未来社会につながっていると言えますね?」)あたりにそのことが書かれている。

 このように現代の課題として引き寄せることで、共産党労働組合などと懇談をして運動を進めようとするテコになっているのはとてもいいことである。

www.jcp.or.jp

 街頭での対話でも現代の労働時間の長さを短くすることと結びつけてその対話が進んでいることは喜ばしいことだろう。

 しかし、残念ながら、Q25もQ33も、その答えは、現代の取り組みとどう「地続き」になっているのかは具体的には解明されていない。

 すでにこのブログの1回目で書いたことだが、剰余労働の処分についての社会の関与が資本主義下でも進むことで、生産力の向上によって生み出された余剰分を時短に回す取り組みがヨーロッパなどでは進んでいる。そのような取り組みを評価する視座がないのだ。志位が欧州訪問の報告をしていて、なるほどフランス労働総同盟の週32時間労働制を交流するくだりはあるし、『資本論草稿集』に言及するくだりもあるけれど、その動きがなぜ未来社会のパーツとなるのかという本質的な言及はない。

www.jcp.or.jp

 “共産主義になって社会の全構成員の生産参加と、経済の浪費部門の削除がなされない限り労働時間の抜本短縮は起きない”という理論前提を作ってしまったために、資本主義下で育つ「時短を生み出すパーツ」が理論上うまく評価できなくなってしまっている(事実としては認めても)のだと言える。

 

3. 志位の本書の新しさ(2)——生産力が悪いのではなく「資本の生産力」が悪い

 本書のもう一つの新しさは、生産力が悪いのではなく、「資本の生産力」が悪いのだという整理である。

 もちろん、こうした解明は以前から行われていなかったことではない。

 ただ、気候危機など環境問題が大きな焦点になってくる中で、マルクス主義は依然として「近代の悪しき生産力万歳の考えを引きずっている」と批判されることがある。この点について本書ではQ28(「『高度な生産力』の大切さはわかりますが、生産力って害悪をもたらす面もあるのでは?」)での記述がそれに答えている。

悪いのは生産力一般ではなくて、「資本の生産力」が問題なのです。マルクスは、「資本の生産力」に対しては、一貫して厳しい批判者でした。「資本の生産力」から抜け出して、本来の人間的能力としての「労働の生産力」の姿を取り戻していこう。これが私たちの展望です。(p.115)

 こうした整理は、例えば環境問題に関心を持つ若い人たちにとって本来はマルクス主義に新たな魅力を付与するものになるはずだ。

 ただ、志位自身の整理は本文を読んでいくと、ややおぼつかないものになってしまう。その理解で大丈夫? と。

資本主義社会のような、生産力の無限の量的発展をめざすものでなく——、新しい質で発展させるものとなるだろうということです。(p.111)

浪費がなくなることは生産力の質を豊かなものへと大きく高めることになるでしょう。その量がたとえ少なくなっても、質も含めた生産力の全体はより豊かなものへと発展するでしょう。(p.114)

 ここでは量と質が対立したままになっている。

 志位の念頭にはまさに無尽蔵に量を浪費し拡大していく資本主義の現状があるのだろうが、例えばエネルギー使用は「無尽蔵」であってはいけないのか。なるほど化石燃料であれば確かに「無限の量的発展」をさせることは問題になるが、再生可能エネルギーに代替した場合に「無限の量的発展」は否定されることだろうか。あるいは、安全に原子核からエネルギーを取り出す技術が生み出された場合はどうか。

 また、近年論点となっている「脱成長」との異同や概念上の整理もない。

 そこに踏み込めないのか、踏み込まないのか。

 斎藤幸平あたりと討論してみてほしいものである。

 ぼくが第2回で書いたようなエンゲルスの自由観はプロメテウス主義(自然の支配・制御という人間中心主義)であり、生産力主義(生産力の発展が自由を実現するという立場)の一味だとする見方がある。

 斎藤は『マルクス解体』(2023年)の中で、マルクスはプロメテウス主義とは決別しているとして、

そのことがはっきりと現れているのが、『資本論』における彼の「資本の生産力」に対する批判である。この批判によってマルクスは、資本主義における生産力の発展が、必ずしもポスト資本主義への物質的基盤を準備するものでない・・とはっきり認識するようになったのである。(斎藤『マルクス解体』p.18、強調は原文)

と述べている。脱成長、「資本の生産力」をめぐる解釈、プロメテウス主義批判……いやあ、志位と対談させたら、実に面白そうではないか!

 

 長くなったが、以上がぼくが本書の新しさとして評価する点である。

 もちろん、共産主義が自由に処分できる時間の抜本増、それによる人間の全面発達をめざすのを国民に広く知らせることは、悪いことではない。どんどんやるべきだろう。

 ただ、本書が持つ問題点・不十分点にも目を向けてほしい。党内の学習会などでは様々な意見が自由に飛び出すことを歓迎したい。本書は共産党の決定ではないが、志位個人はこれを「社会科学の文献」だと思っていることだろう。社会科学の文献である以上、それは容赦なく、徹底的に批判される義務を負う

 

 マルクス『経済学批判 序言』のラストの言葉をここに掲げておこう。

経済学の分野における私の研究の道筋についての以上の略述は、ただ私の見解が、これを人がどのように論評しようとも、またそれが支配階級の利己的な偏見とどれほど一致しないとしても、良心的な、長年にわたる研究の成果であることを示そうとするものにすぎない。しかし科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。

「この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ どんな臆病もここで死ね」

 科学は冷酷だ。自分に都合のいい結論なんか出てきやしない。マルクスはダンテの言葉を用いて、批判され炎上することへの「ためらい」「臆病」をぜんぶ捨てろというのである。

 「学び、語りあう」にはその覚悟が必要なのである。

 以上、本書を「学び語りあい」、「忌憚のない意見」を出させてもらった。


 感想は以上の通りだが、最後に一言。

 志位和夫は本書の最後で次のように呼びかけている。

私は「なぜ」という問いかけは本当に人間にとって大事だと思います。(p.148)

理不尽なことを見逃さないで、みんなで「なぜ」と問いかけよう。(同)

 まことにその通りである

 なぜ不当解雇したり不当に除籍したりするのか。

 なぜ「共産主義と自由」というテーマで目の前で起きているそのことに答えないのか。

 ぜひ問うていきたい。

問題をたてるということはそれ自体が、答えに向かっての大きな前進になると思います。(同)

 以上で連載は終わりである。どっとはらい