井上圭壯・藤原正範『日本社会福祉史』

 「○○主義について話してほしい」という珍しい依頼を若い人たちから受けた。

 資本主義とか社会主義とか科学的社会主義とか新自由主義とか、「主義」ばっかりいっぱい出てきてよくわからない、というわけである。

 ただ、よく意図を聞いてみると、基本的には資本主義と社会主義の違いがよくわからないということなので、資本主義の中に新しい社会=社会主義の萌芽が育っていく、その萌芽を見つけて育てる(社会の発展法則を見つけてそれを促進する)のが科学的社会主義である、ということを話そうと思い、資本主義の中に生まれる社会主義の芽について話そうと思った。

  • 社会保障制度
  • 労働時間の短縮
  • 経済の合理的規制

の3つが特にそうだ、というのがぼくの話の核心。

 資本主義と社会主義を全く別物だと感じている人が多かった。

 しかし今取り組んでいるいろんな運動は未来の社会のパーツを作っているようなものなのだ。そこを実感してほしかった。

 この核心は伝わったようで、学習会そのものは大変好評だった。とにかくわかりやすく最初に20分だけ話して、あとは質問を受け付けて答えるようにした。

 それでその学習会の準備のために、資本主義日本の中で社会保障がどう育ってきたかを自分なりに整理しようと思い、何冊か本を読んだ。もちろんそういうことを学習会でそのまま話すわけではない。実際この本で学んだことはほとんど学習会の中では話さなかったが、自分なりに問題を整理する上で役立ったので、メモとしてここに書いておく。

 主に、井上圭壯・藤原正範『日本社会福祉史』(勁草書房)のノートのようなものである。

 

 

 

明治初期の慈善事業

この時期は、明治初期の近代国家の形成期から明治20年代の産業革命期頃までの時期に当たる。「慈恵慈善事業」と呼ぶこともある。生活困窮者は、家族や親族、近隣や地域社会の自助努力や相互扶助によって救済すべきであること、救貧制度は国家の社会的責任において行う性格のものではなく、富裕層や篤志家等による慈恵的な事業である、などが強調された。(p.1)

 「生活困窮者は、家族や親族、近隣や地域社会の自助努力や相互扶助によって救済すべき」って、自民党の政治家の頭の中はこの頃のままなんか…。

 1874年に「恤救(じゅっきゅう)規則」が制定される。幕府・諸藩の慈恵策を天皇制国家が再編したもので1931(昭和6)年まで「わが国の唯一の公的扶助法として存続した」(p.2)。「恤」とは「あわれむこと」。

一、極貧の者独身にて廃疾に罹り産業を営む能はさる者

一、同独身にて七十年以上の者重病或は老衰して産業を営む能はさる者

一、同独身にて廃疾に罹り産業を営む能はさる者

一、同独身にて十三年以下の者

 給与米の給付による救済。救済率は1911年で0.05パーミル(救済人員で2718人)。今の生活保護の受給率は1.64パーセントだから16.4パーミル。328倍。

 地租改正やったり伊藤博文が初代首相になったりと、まだ近代的な中央集権国家を作っている最中だな。

 

産業革命期の慈善事業

明治20年代は、わが国の産業革命期に当たる。国の社会福祉に対する消極的な姿勢から、1890年12月の第1回帝国議会に、「恤救規則」に代わる救貧法案として「窮民救助法」案が提出されたものの立法化までには至らず、公的救済政策は「恤救規則」体制が続いた。この時期の特徴として、宗教家や篤志家による民間の慈善事業が児童施設を中心に広がったことが挙げられる。(p.3)

 国家による救済制度をつくろうとして失敗し、引き続き、ごくごくごくごく一部の人しか救済しない「恤救規則」での「救済」が続いたということだ。事実上、何もやっていないと言える。

 この時期は、日清・日露戦争の頃まで。都市では資本主義化が進み、農村では寄生地主制が確立。都市でのスラムの出現と、農村の窮乏化。横山源之助『日本之下層社会』もこの頃(1899年)。

 ただし、日清・日露戦争があったので軍人には「下士兵卒家族救助令」が出て、出征軍人に限り国の公的扶助が義務付けられた。

 

明治末期の感化救済事業

この時期は、日露戦争後の1905年頃から、1920年頃に成立する社会事業までの間である。明治末期、政府は、高まる社会問題や社会運動に対応するために、天皇制国家体制を強化し地域の再編によって乗り切ろうとした。感化救済事業に、社会運動の防波堤の役割を期待し、善良な国民づくりのための感化訓育を測ろうとした。それまでの民間の慈善事業は次第に国家の統制のもとに組み込まれ、国の救貧行政を代替した。(p.4)

 日露戦争で大量の死傷者も出て、いよいよ貧困は大きな社会問題となり、社会運動が起きてくるんだが、大逆事件(1911年)のように弾圧をもって迎えるわけだ。で、民間にあった慈善事業とかを国家の影響下において「感化」事業にする。現在の更生事業ではあるが名前からして、非行するような奴らの思想を直そうという姿勢が前面に出ている。「正しい」道に導き、それを慈善事業やボランティアでの助け合いでなんとかしようとしたわけだな。思想教育+地域の助け合い。

 

1908年、政府は「国費救助ノ濫費矯正方ノ件」と題する内務省地方局長通帳を発したが、貧困や社会問題に対し社会的原因を認めず、救貧政策において国費救助を抑制しようとするもので、公的救済の放棄を意味した。代わって、「隣保相扶ノ情誼」を強め、共同体での相互扶助と地方自治体に救貧責任を転嫁した。(p.5)

 うぉーい! これもどっかで見た光景だわ!

 「そいつの性根を直して、助け合わせればなんとなる!」っていうのは、日本のブルジョアジーに抜きがたい発想なのだなあ。

 

大正期の社会事業

1920年頃から社会事業の名称が一般に用いられた。1918年の米騒動は、わが国の初めての本格的な民衆運動となったばかりか、原敬内閣を成立させ、それまでの専制政治に代わって政党政治が始まるきっかけをつくった。国民は民主主義と生存権への願いを強めた。社会福祉の思想においても公的扶助義務の考えが現れた。すなわち、貧困問題を個人の責任に帰することだけではなく「社会貧」と見て。その解決には「社会的連帯責任」の必要性を認識するに至った(『社会事業』第5巻第1号、1921年)。これまでにはなかった「社会改良」「労使協調」などをうたった新しい社会事業が展開された。(p.5-6)

 やっと…。そして、米騒動という民衆運動が事態を動かしていることがわかる。

 「社会的連帯責任」というのとさっきあげた「隣保相扶ノ情誼」=「助け合い」は似ていると思うのだが、前者は貧困の責任が社会にあることを見て、その流れで社会連帯を説くのに対して、後者は徹頭徹尾自己責任のもとにあり、思想を善導するという中での助け合いなのであろう。いわばベースは「愛」=慈善である。

 この時期はいろいろ前進面が多い。

(1)工場法(1916年)

 弱点はあるけども、初めての労働者保護法である。

(2)社会事業その1:経済保護事業

 なんのことかわからないと思うけど、都市の貧困層の生活困難への対策である。具体的には公設市場、公益質屋、公営住宅だ。

 公営住宅はわかる。

 「公設市場」って何か。「食料品や日用品を廉価に供給することを目的とした施設」(p.66)。米騒動で価格が釣り上げられたことが強く意識されている。ぼくの学生時代に、京都で大学の近くに「公設市場」があった(どうも2006年に市の条例が廃止されているようだ)。

 「公益質屋」ってなんだろう。「社会福祉事業の一環として設置される非営利的な庶民金融機関。私営質屋と比較すると、低利率であること、流質期限が長いこと、公売剰余金の返還など、質置主本位の制度となっている」(小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』)。2000年に公益質屋法は廃止されている。

 このほか、失業保護として、職業紹介事業、公共土木事業が生まれた。はあ、なるほど。この頃に生まれた事業なのか。

(3)社会事業その2:乳幼児・児童・母子保健事業

 今の事業はわかるけど、この本では当時(大正期)どんな事業をやっていたのかは詳述されていない。

(4)社会事業その3:国民一般を対象とした医療保護事業

 これも大正期の記述としてはあまり他に詳しく書かれていない。

(5)方面委員制度

 「この制度は、知事が地域に住む民間の篤志家等に、その地域住民の救貧活動を委嘱するというもので、今日の民生・児童委員制度の源となった」(p.6)。「この時期に誕生した方面委員制度は特筆される」「個人の生活援助を内容とする社会事業の推進において地域委員の役割は大きいものであった」(同前)とあるように当時としては非常に重要な役割を担ったのであろう。

 やはり「地域に住む民間の篤志家等」=地元の名士に頼むのが民生委員の源流であったから、一種の名誉職的な意味がもともとあったわけだ。「顔役が面倒を見る」という感じの制度で、まあ、原始的な福祉としては機能したけど、このフレームでは今日厳しいよなと思う。あくまでも相互扶助的なもの。

 しかし、この制度の積極面がこの本では大きく評価され、行政と連携して救護される人の調査と救済方法の探求を一生懸命やっているという実をあげている。

方面委員は行政の事業を肩代わりする役割を担ったが、地域の相談活動も展開した。(p.7)

 

昭和恐慌期の社会事業

 昭和の初め(1927年頃)〜1937年頃。昭和恐慌、満州事変、日中戦争という時期。

 小作争議が高まり、無産者診療所、無産託児所なども開かれたが、弾圧。

 「恤救規則」では貧困層を全く救えずにこの体制が破綻。

 内務省の諮問機関が、対象を広げ、国・地方公共団体の公的扶助義務を明確にした「救護法」を答申するが、実現が頓挫しかかる。

1930年、全国の方面委員らが中心となって実施期成同盟会が結成され、議会への実施要望の陳情などの活動を展開し、天皇への上奏までを決意した。その甲斐もあって1932年1月から実施された。…地域において直接生活困窮者と接していた方面委員が組織的に活動を継続し、ついに政府を動かしたことは画期的なことであった。(p.8-9)

 救護人員は1931年で1.8万人、1936年には22.5万人に達した。

しかし、前年の1935年、方面委員が援助対象者として登録した数は206万人であったので、救護を必要とした人の1割しか適用を受けられなかった。(p.9)

 今生活保護は200万人だから、その10分の1。それでも「恤救」制度に比べれば大前進だなあと思う。間接的には労働運動・農民運動、そして直接的には方面委員の陳情が政府を動かした。戦前においても声をあげることで政治が変わる。

「救護法」が定めた日救護者は、「一、六十五歳以上ノ老衰者、二、十三歳以下ノ幼者、三、妊産婦、四、不具廃疾、疾病、傷痍其ノ他生活スルコト能ハザルトキ」は、本法によって救護する(第1条)としている。労働能力のある者は救貧制度より除外した。また、被救護者は選挙権が停止された。救護の種類を「生活扶助、医療、助産、生業扶助」まで拡大し、救護費は市町村の負担とし国庫が「二分ノ一以内」を補助することを定めた。(p.9)

 選挙権停止! まさに二級市民扱い…。

 しかし、こういうひどい中身を持ちながらも、歴史はまだら模様のようになって、あるいはジグザグに、時にはトンボ返りしながら前進する。そのことを如実に示すのは、次の日中戦争、太平洋戦争期になり、国民を戦争に総動員する体制の中で、逆に戦時厚生事業が整備されるという事実だ。

 

日中・太平洋戦争期の戦時厚生事業

1938年4月には「国家総動員法」が公布され、あらゆる国民生活は戦時体制へ組み込まれた。1938年7月から「社会事業法」が施行され、私設社会事業に対する公的な補助が制度化された。そこでは、私設社会事業の範囲を定め、政府が予算の許す限り補助することができることなどを規定した。「救護法」の委託施設になった場合、委託費の需給によって事業費の負担軽減にはなったものの分配額はわずかで実効性が乏しかった。同年には「国民健康保険法」も制定され、「健康保険法」の対象にならない国民を対象とした。皮肉にも、戦時下の社会事業は限定主義、劣等処遇をこえて普遍主義を採ることとなった。(p.10)

 優秀な兵士を確保し、人的資源を保護育成しようとする政府の意図が、国民皆保険社会保障整備の核をつくっていく。

 しかし「だから戦争は社会を発展させる」と結論づけるのは早計で、「予算制約をせずに強力に推進すれば社会は発展する」というのが正解である(「戦争は科学技術を発展させる」という誤りも同じ)。