『名句で読む英語聖書』を読んでいるとき、
Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, Iwill fear no evil.
たといわれ死の蔭の谷を歩むとも禍害(わざわい)をおそれじ
という有名な句が出てきた。
古い英語Yeaが入っているので分かりにくいが、現代の英語ではevenに置き換えられている。
Even though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil
ぼくがこの句に初めて接したのは、クリスチャンであったつれあいの祖母が亡くなったときである。その葬儀で神父が読んでいたのである。
鮮烈で印象に残った。
文語での表現がやはりシビれる。
主(エホバ)はわが牧者なり、われ乏(とも)しきことあらじ。主は我をみどりの野に伏させ、いこいの水際(みぎわ)にともないたまう。主はわが霊魂(たましい)をいかし、名(みな)のゆえをもて我をただしき路(みち)にみちびきたまう。たといわれ死の蔭の谷を歩むとも、禍害(わざわい)をおそれじ。なんじ我とともに在(いま)せばなり。なんじの笞(しもと)なんじの杖われを慰む。なんじわが仇(あた)のまえに我ために筵(えん)をもうけ、わが首(こうべ)にあぶらをそそぎたまう。わが酒杯(さかづき)はあふるるなり。わが世にあらん限りは、かならず恩恵(めぐみ)と憐憫(あわれみ)とわれに添い来らん。我はとこしえに主の宮に住まん。
これではよくわからないと思うので、英語から訳して勝手な説明を加えた我流の超訳を以下につけておく。
神は私の羊飼いであって、羊である私には不足していると思うものはありません。 神は私を緑の牧場で寝ころがらせ、休憩できる水のそばに連れて行ってくださいます。 神は私の魂をいきかえらせ、み名のために私を正しい道に導かれます。 たとえ私が死の陰の谷を歩むとも、私はわざわいを恐れません。なぜなら、あなたが私と共におられるからです。害獣と戦うためのあなたの鞭と、危険なところに行かないように羊を導くのに使うあなたの杖は、私を安心させてくれます。 あなたは、私を惑わす敵に私が直面したとき、私にごちそうを用意して元気づけてくれます。そして、あなたは私の頭に聖油をそそがれます。私の心の杯はあふれます。 私の人生の日々には、必ずあなたの優しさと慈しみとが付いて回るに違いありません。私は永遠に神の家に住むでしょう。
ぼくにとって何が鮮烈だったのかといえば、第一に、死の危険が迫っているというときに「神様が一緒にいるから恐れることはないよ」という宗教観である。
もしぼくが同じ立場だったらそんなことを思うのだろうか、安心を得られるのだろうか、と遠い気持ちになったことだった。深く共感したのではなく、自分とキリスト者との違いのようなものを強く感じたのである。
例えば、いかにもクリスチャンに入信した死刑囚が、執行の直前に教誨師から読み上げられそうな章句ではないだろうかと思った。
ただ、以下の動画を見たとき、「創世記」が読み上げられていて(4分5秒あたりから)、それはそれで遠い気持ちになった。実際にはいろんなところが読まれるんだな。
第二に、この名句の周辺にある喩え、つまり神を牧者(羊飼い)にたとえ、自分を羊にたとえ、その安心を詩的に描き出すその宗教観にやはり遠い気持ちになった。
神ってそんなに安心できるものなの…? 的な。批判や不信じゃなくて、「ぼくはよく知らないけど、そうなんですか」というニュアンスである。知らないことをのぞきみるような。「我はとこしえに主の宮に住まん」という信仰の告白は、もう全面降伏というか、信頼しきっているというか。そしてその永遠の感覚。なんだか自分にはないものばかりなのである。
こういう遠い気持ちになってからずっとあと、『ペリリュー 楽園のゲルニカ』に関連してペリリュー戦に参加した米兵の手記『ペリリュー・沖縄戦記』を読んでいたら、この言葉が出てきた。
私はかつて見た第一次世界大戦のニュース映像を思い出した——西部戦線で、放火のなかを連合軍の歩兵部隊が攻撃を仕掛けていた。歯を食いしばり、カービン銃の銃床を握りしめながら、私は何度も繰り返し祈りの言葉をつぶやいた——「主は私の牧者であり、私に乏しいものはない……死の陰の谷を歩みながらも、災いを恐れはしない。あなたが私と共におられるから。あなたの鞭と杖が私の慰め……」(ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』講談社学術文庫p.123)
つまりまあ有名なのである。
though I walk through the valley of the shadow of death, Iwill fear no evilは、この有名な詩篇の中でもとくに親しまれ、現代英語の成句the valley of the shadow of death「死の蔭の谷」として、「病気や危険なことで死に直面している状態」や「禍にみちたこの世」などの比喩的意味に用いられ、葬儀の際にもしばしば引用されている。(寺澤p.237)
本書では欧米圏で『エレファントマン』、『わが谷は緑なりき』などの映画、そして911事件の際のブッシュ大統領の緊急演説などでこの詩篇の部分が使われていることを紹介しつつ、日本での文学的影響などを振り返る。
一方日本文学では、島崎藤村『落梅集』(1901)に収められた「めぐり逢う君やいくたび」には「吾命暗の谷間も 君あれば恋のあけぼの」の一節があり、徳冨蘆花『死の蔭に』(1917)や堀辰雄『風立ちぬ』(1937)の終章「死のかげの谷」などにはこの詩篇の影が濃く出ている。また、大岡昇平『野火』(1948-51)でも「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも」が題詞として選ばれている。
ちなみに、いわゆる免田事件で死刑の判決を受けながら、再審の結果冤罪として死刑台から生還した免田栄氏が、獄中でキリスト教に入信したのは、たまたま独房の食器口から放り込まれたチラシに記されたこの聖句がきっかけであったと聞く。(p.239)
免田がこの章句に出会って入信をした、というくだりは、ぼくが葬儀で聞いた時のインパクトに似ている。それくらい詩としての力を持っているのだろう。
ところが、本書を読むとびっくりするようなことが書いてある。
the shadow of deathに対するヘブライ語の原語ṣalmāweth(ツァルマーヴェス)は、(子音文字は同一で母音符号を異にする別語ṣalmūth(ツァルムース)の)誤読によるもので、正しくは「真暗闇」と解するのが今日ほぼ定説となっている。そこでRSV〔改訂標準訳聖書Revised Standard Version〕は正確な訳としてはdeep darknessをとるべきところを、the shadow of deathを含むこの句があまりにも人口に膾炙していることを考慮し、本文にはあえて変更を加えず、脚注に正しい解釈を示すという妥協策をとったものと推測される。(p.237、強調は引用者)
あらま。
聖書をよく読んでいる人にはもう常識なのかもしれないが。
誤読が名句となり、それが力を持ってしまい、入信をさせてしまうというのは考えてみればすごいことである。
ちなみにこの本を読んでいると「へー、この文句は聖書が出どころだったのか」と思うものがいくつもあった。
例えばこれ。
Vengeance is mine. 復讐するは我にあり
いやもうすっかりバイオレンスな言葉かと…。
5人殺害の西口彰事件を題材にした佐木隆三の小説のタイトルであるが、下記の記事(長江俊和の解説)を読むと、
『復讐するは我にあり』と言う小説の題名も、西口がクリスチャンであることに関係している。「復讐するは我にあり」とは、以下の新約聖書の一節からの引用されている。
「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」(ロマ書12・19)。
その意味は「悪人に報復を与えるのは神だけであり、我々は決して復讐を行ってはいけない」というもの。作者の佐木隆三は、「復讐する〔は〕我にあり」の言葉通り、西口という一人の犯罪者の足跡を淡々と描いた。彼の行動を肯定も否定もすることなく、「悪の申し子」「史上最高の凶悪犯罪者」と言われた、その犯行の動機さえも、まさに「神のみぞ知る」と言うかのごとく。
ということで、しっかり聖書の解釈が織り込まれとるやん。