『資本論』にでてくるabstraction(続き)

 前のエントリIkimono-Nigiwaiさんから次のようなコメントがありました。

紙屋さんの論説を楽しく読ませていただいています。私は理系で社会科学には疎いので捨象するという日本語に馴染めません。
英語の
we make abstraction from the means of subsistence of the labourers during the process of production
はドイツ語では
von den Subsistenzmitteln der Arbeit während des Produktionsprozesses abstrahiert
abstrahiertは不定詞ではabstrahiren、プログレッシブ独和辞典では、(他)抽象化する、(自)度外視する。ですから、
"生産過程における労働の生計手段を無視すること"
という意味ですね。紙屋さんが矛盾を指摘されていますが、新版資本論の訳で良いように思います後半部分がマルクスの労働能力の定義だとすると、労働能力は売れなければ無なので、生計手段は考慮されないことになります

 新日本版の該当部分をもう一度見てみます。Ikimono-Nigiwaiさんに従って、「捨象」を「度外視」「無視」にしてみましょう。

 ことがらの本性から出てくるこのような労働力の価値規定を粗野だとして、たとえばロッシとともに次のように嘆くのは、きわめて安っぽい感傷である。すなわち——「労働能力を、生産過程中にある労働者の維持諸手段を無視して把握することは、幻想を把握するに等しい。労働と言う人、労働能力と言う人は、同時に労働者および生活維持諸手段のことを、労働者および労賃のことを言っているのである」と。労働能力と言う人が労働のことを言っているのではないのは、ちょうど、消化能力と言う人が消化のことを言っているのでないのと同じである。周知のように、消化過程にとっては、丈夫な胃袋よりも多くのものが必要である。労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活諸手段を無視するわけではない。むしろ、その生活諸手段の価値は労働能力価値で表現されているのである。労働能力が売れないならば、それは労働者にとってなんの役にも立たないのであり、彼は、自分の労働能力がその生産のために一定分量の生活維持諸手段を必要としたこと、そして労働能力の再生産のために絶えず繰り返し新たにそれらを必要とすることを、むしろ冷酷な自然必然事として感じるのである。そのとき労働者は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ことを発見する。(『新版 資本論2』p.302)

 ロッシの引用の中に「無視」の言葉がありますが、その後の地の文にも「労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活諸手段を無視するわけではない。」ともう一度「無視」という言葉が出てきます。これがIkimono-Nigiwaiさんの指摘する「後半部分」のことだと思います。

 Ikimono-Nigiwaiさんは「後半部分がマルクスの労働能力の定義」と考えているので、ここは「無視」以外には訳語としてはあり得ないというわけです。Ikimono-Nigiwaiさんの後半部分の解釈は“労働能力について本当に語ろうと思うなら、労働能力の維持に必要な生活諸手段を無視してはいけない。むしろ、その生活諸手段の価値は労働能力価値に表現されているからだ”という意味のことをマルクスが定義している、というものです。

 これは確かに一つの理屈です。

 

 ただ、Ikimono-Nigiwaiさんの解釈のうらみは、前半(ロッシの引用)がどうしても「無視」では意味が通じないことです。そうなると前半(ロッシの引用)の箇所にあるabstractionと後半(マルクスの地の文)のabstractを別々の意味で使うかな? という素朴な疑問が生じます。*1

 

 鍵になるのは、

(1)労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活諸手段を無視するわけではない。(2)むしろ、その生活諸手段の価値は労働能力価値に表現されているのである。

という2つの文をどう解釈するか、です。わかりやすくするため、文に番号を(1)(2)とつけておきます(以下同様に便宜上番号をふります)。

 

 Ikimono-Nigiwaiさんの解釈はすでに示しました。

(1)労働能力について本当に語ろうと思うなら、労働能力の維持に必要な生活諸手段を無視してはいけない。(2)むしろ、その生活諸手段の価値は労働能力価値に表現されているからだ

 ぼくの解釈については前掲のエントリを再掲しておきます。

 (1)ロッシの言うように(崇高な)「労働能力」なるものを語っている人は、労働能力の維持に必要な生活手段から抽出しているわけではない。

 (2)しかしむしろ、その生活手段の価値こそは労働能力価値を表現しているのである。

 (1)の文、「労働能力と言う人は、…」とは「ロッシのような誤った主張をしている人」のことなのか(紙屋解釈派)、それとも「労働能力について真実を語ろうと思う人」のことなのか(Ikimono-Nigiwaiさん解釈派)という解釈の違いがあると思います。そして、(2)の「むしろ、…」以降の文は、紙屋解釈派の場合、直前の文の意味を批判していると考えることになります。

 (1)から(2)に素直に流れるのか、それとも(1)を批判して(2)が来ているのかがIkimono-Nigiwaiさん解釈派と紙屋解釈派との分かれ目です。

 

 

 この部分は他の訳ではどうなっているかをみてみましょう。

 新日本版と同じ「捨象(無視・度外視)」で書いている大月版では次の通りです。ここでもIkimono-Nigiwaiさんの勧めに従って「捨象」を「無視」にしてみます。

(1)労働能力を語る人は、労働能力の維持にために必要な生活手段を無視するわけではない。(2)むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表されているのである。(p.227)

 これは(1)と(2)がストレートに流れています。Ikimono-Nigiwaiさん解釈派ですね。

 

 これに対して、「抽象」で書いている岩波版、筑摩版を見てみます。

 まず岩波版です。(「出段」はおそらく「手段」の誤りだと思います)

(1)労働能力を語る者は、その生存のために必要な生活出段から抽象してはいない。(2)むしろその価値は労働能力の価値に表現されている。(岩波版Kindle No.5472-5473)

 (2)は(1)を批判しています。紙屋解釈派です。

 

 次に筑摩版です。

(1)労働能力について語ったからといって、労働能力を保持するために必要不可欠な生活手段からそれを抽象したことにはならない。(2)むしろ生活手段の価値こそが、労働能力の価値に表現されているのである。(p.257)

 これはかなりはっきりと(2)が(1)を批判しています。紙屋解釈派です。

 

 どうでしょうか。

 ぼくはやはりこの部分は筑摩訳が一番すっきりしていると思います。

 というのは、新日本版も大月版も岩波版も「労働能力を語る人は…」のように書いているんですが、これだと「労働能力を語る人」をマルクスが批判しているかどうかよくわからないからです。しかし、筑摩版では「労働能力について語ったからといって、労働能力を保持するために必要不可欠な生活手段からそれを抽象したことにはならない。」としていて、これだと、マルクスがその部分を批判していることがきちんとわかるようになっています。

*1:日本語でも両義性を持った言葉が一方だけのニュアンスで使われる使い方がないわけではありません。例えば「取捨選択」という言葉を取り上げてみます。リュックにいっぱい荷物を持った人が一緒に旅行する友達のところに現れたら、友達から「お前、バナナとか折りたたみ傘とかは取捨選択しろよ」と言われます。この時「取捨選択」は事実上「捨てる」という意味しかありません。