「自助・共助・公助」論について2つ言いたい

 菅義偉の「自助・共助・公助」論が議論になっている。

 

www.huffingtonpost.jp

agora-web.jp

 これらの記事にあるように、「自助・共助・公助」論は菅個人の主張ではない。自民党政治の根幹に座る太い考え方である。つまり菅個人の「思いつき」ではなく、イデオロギー的に強固であり、ある程度体系化されているものなのだ。

 特に自治体行政の現場での町内会統制はこれを理論的な屋台骨にしている。各種の条例、計画はこの文言のオンパレードである。本当に検索すれば掃いて捨てるほどあるが、一例として、宮崎県日向市の「協働のまちづくり指針」をあげておこう。

https://www.hyugacity.jp/tempimg/20140319165056.pdf

 

 ビジネスならビジネスのシーンで支配的なイデオロギーというものがあり、経営者だけでなく労働者も少なからずそれに絡め取られている。*1

 地域活動、つまり町内会やボランティア活動においては、おそらくこの「自助・共助・公助」論こそが最も主要なイデオロギーである。*2

 町内会などをやっていると、連合体の幹部などはこのイデオロギーで「武装」されていることがしばしばある。自分たちは「共助」の一翼を担うのだ、と。戦前からの「行政下請」としての町内会の流れを今日的に受け継ぎ、自分たちの活動をこうした保守政治の太い流れの中に位置付けて自身の正統性を確認するのである。

 

 ぼくは、拙著『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)でも、『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)でも、この「自助・共助・公助」論を批判した(前者は第4章、後者は第3章)。町内会の仕事を町内会が抱え込んで行くのは、背景に行政の下請け圧力が存在し、行政と町内会幹部自身がこの「自助・共助・公助」論によってその下請け化・仕事の抱え込みを「正当化・正統化」してしまうからである。その批判こそが、2著作の要であったと言っても過言ではない*3

 

 

どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

 

 

 この「自助・共助・公助」論が実際には「公助」、行政の責任を放棄する隠れ蓑になっているということは、今回の問題でもいろんな人が指摘している。ぼくも今あげた本の中で述べてきた。なので、その点はあまり繰り返さない。

 この記事では2つの点だけ書いておきたい。

 

その1:補完性原理のもともとの意味からズレている上に、前提がある

 第一に、この議論と一体になっている「補完性の原理」はもともとの意味からズレているし、そもそも前提があるということだ。

 「自助・共助・公助」はそれだけでは何も語っていない。自分のことは自分でするという領域、みんなで助け合うという領域、公が責任を持って助けるという領域の3つがある、というだけだからだ。分類がただ並んでいるだけ。「魚類・両生類・爬虫類・哺乳類・鳥類」と同じである。もちろんそんなアホなことを天下の日本国内閣総理大臣候補がいうわけがない。

 この言葉は「補完性の原理」といわれるものと一体になって初めて意味を持つ。

 日本ではたいてい次のように解説されている。

補完(補完性の原則)  個人でできることは個人が(自助)、それができないときは地域が(共助)、それでもできないときには行政が(公助)行うという、なるべく身近な所で問題解決を図ることをいいます。(日向市「協働のまちづくり指針」p.3)

 当の菅もだいたいこのように説明した。

 しかしもともとはこの考え方はヨーロッパ淵源のもので、個人、小さなコミュニティ、社会、国家などの自己決定の関係を言い表したものだった。

補完性の原理」の基礎にあるのは、政治権力は、社会やそれを構成する個人、家族、地域社会あるいはもっと大きなグループが、その必要性を満たすことができない部分に限って介入すべきだという考え方である。(第七次自治制度研究会報告書p.36)

 先ほどの日向市の説明と似ているけどもズレているのがわかるだろう。

 補完性原理は、もともとは「自己決定は自分とそれに近い身近な範囲で行うのが理想」という話なのである。

 菅の説明では「個人でできることは個人が(自助)、それができないときは地域が(共助)、それでもできないときには行政が(公助)行う」の部分で終わる。日向市はそこに「…という、なるべく身近な所で問題解決を図ることをいいます」をつけている。自己決定の原則であることをにじませているのであるが、しかし残る印象はほとんど菅と同じだ。「まず自分でやれ」ということだけが残る。「自助・共助・公助」論は何よりも自助論であり、自己責任論なのである。何れにしても、この日本流の説明はもともとの意味からズレている。

  もともとの補完性原理の意味、すなわち「自己決定は自分とそれに近い身近な範囲で行うのが理想」ということであれば、個人の尊厳を大事にする考えからすればむしろ納得のいく考え方だ。ぼく自身も政治参加は自己決定の問題だという思いが強いから、これはよくわかる。だからこそEUの統合や地方分権地方自治の問題としてこの補完性原理が問題となるのだ。

 しかし、これには前提がある。

 自己決定できるだけの十分な権限と資力が保障されているということだ

 小さな市町村では、お金も権限もない。それでは自己決定しようにもできないではないか。だからこそお金や権限をそのような小さな自治体に移すことが必要になる。

 社会保障や防災も同じである。

 歳をとって体が動かないのに自分の食い扶持を稼ぐことはできない。自分の蓄えだけでも生きていけない。そういう人が社会の大多数である。公的な支え(年金)が充実していて初めて自己決定ができるのだ。

 大雨で河川が氾濫する時、個人や町内会の努力でいくら土嚢を堤防に積み上げてみても、なんにもならない。個人に堤防のかさ上げや川底を掘る権限と財力を与えるならともかく、そんなことができるはずもない。まず公が責任を持って堤防を整備するしかないのだ。

 これを換骨奪胎して、先の日向市のような説明にしてしまえば、ただの行政のサボりの口実にしかならない。

 大地震や山崩れが起きた時、家が倒れ重い瓦礫や土砂の下敷きになっている人が多数出ている状況で、ユンボもない、捜索や撤去の人員もない、そんなカネも権限もない個人に向かって、「まず自分でなんとかしなさい」「どうしてもダメなら家族や近所の力を借りなさい」などという説教がどれほど無力で空疎か。もし政治家がそんな話をするのなら、その無責任さに震えるわ。

 

その2:「共助」概念に潜むあいまいさをしっかり仕分けろ!

 第二に、「自助・共助・公助」論で曲者なのはとりわけ「共助」であり、「共助」において公的責任をあいまいにさせ、後退させる、様々な仕掛けが潜んでいることが多く、それを厳しく見定めないと騙されてしまうということだ。

 共助は「助け合い」とか「支え合い」という言葉に変換される。「支え合う」のは住民同士だけだったり、行政がそこにいても住民と同じような一要素に後退してしまっていたりする。「住民同士の支え合いに丸投げはしません。行政もしっかり関与します」などと行政が大見得を切ることがあるのだが、その「関与」とは単に情報を提供するだけだったり、団体間をコーディネートするだけだったり、確かに手は引いていないけども、サービスの供給には責任を持ってはいないよね…みたいな話だったりする。

 特に行政はこの共助の分野について「協働」のような物言いをする。

 「行政と市民団体の関係は、市民団体が行政の下請けをするのではなく、対等平等のパートナーとして仕事をする。これぞ協働」とかいう具合だ。しかし、そこには概念上、「対等平等のパートナーだから、行政が責任を持っているわけではない」という問題が含まれていることがわかるだろう。「市民が自主的に行う」ということの裏返しとして「行政には責任がない」という命題がある。ここには概念上、混乱しやすくごまかされやすい問題があるということだ。 

 

 「共助」は相互扶助、共同、連帯、支え合い、助け合いなどの概念と重なり合っている。

 無政府主義者クロポトキンの名著は『相互扶助論』である。

d.hatena.ne.jp

 「国家というものに依存せずに共同の力で生きていく」という左翼がいることは事実であるし、NPOとかサークルとか市民団体とかは、まさしく自主的な市民の共同によって形作られている。そういう共同が市民社会の活力であることは疑いない。

 だから、左派の中にも町内会や地域自治の活動を盛んにやっていこうぜ! という議論と、行政が地域の福祉をそれに代替させてしまおうとする議論を混同してしまう人が出てくるのだ。

 かつて民主党政権が「新しい公共」の考えを示したが、そこには市民団体の自主性を活性化させてそれを政治に生かそうという側面もあったが、行政がサービスを安上がり・無責任なものに置き換えようとする新自由主義的な意思が働いていた。

市民やNPO…こうした人々の力を、私たちは「新しい公共」と呼び、この力を支援することによって、自立と共生を基本とする人間らしい社会を築き、地域の絆を再生するとともに、肥大化した「官」をスリムにすることにつなげていきたいと考えます。(鳩山内閣総理大臣施政方針演説2010年1月29日)

官だけでなく、市民、NPO、企業などが積極的に公共的な財・サービスの提供主体となり、教育や子育て、まちづくり、介護や福祉などの身近な分野において、共助の精神で活動する「新しい公共」を支援する。(2010年6月18日閣議決定「新成長戦略」)

 

 

 だからこそぼくは、先ほどのべた2つの本で、町内会活動におけるその問題を整理した。

 簡単に言えば、行政は住民に対して責任を負っており、町内会をはじめとする自主的な団体は住民には責任を負っていない、という明瞭な原則である。(行政の「委託」を受けて、つまり下請けとなって初めて町内会は行政の代理としてその仕事に責任を持つことになる。)

 町内会の活動はあくまでプラスアルファの仕事だ。

 

 しかし、共助の中に混乱が生まれやすい要素が潜んでおり、その整理が必要だという問題は、町内会の話だけで終わるものではない。さまざまな場面でそれが現れてくるから、それを一つひとつ整理して見抜いていかねばならない。

 

 応用問題として1つだけ、国民健康保険の問題を挙げておこう。

 

応用問題としての「国民健康保険は相互扶助か、社会保障か」

 国民健康保険国保)のような社会保険を「相互扶助」とみなすのか、「社会保障」とみなすのかは、せめぎあいのあるところで、政府の役人、保守政党や一部の自治体は国保のようなものでさえも「共助」の一環にしてしまおうとする。

 次のやり取りは衆議院厚生労働委員会(2005年3月16日)のものである(山口は共産党)。

山口富男委員 局長…あなたは、この国民健康保険について相互扶助だと言いましたけれども、国民健康保険法のどこに相互扶助と書いてありますか。

○水田政府参考人 条文上、相互扶助ということは書いてございませんけれども、制度の立て方として、まさに国民健康保険であるということから申し上げたところでございます。

○山口(富)委員 この法律は、第一条に目的を明確に定めているんです。…「この法律は、国民健康保険事業の健全な運営を確保し、もつて社会保障及び国民保健の向上に寄与することを目的とする。」社会保障なんですよ。もちろん、保険という形をとりますから保険料を納めていただきますけれども、それを国庫で、国が支えてきたわけでしょう。…そうじゃないんですか、大臣。

○尾辻国務大臣 …社会保障そのものがやはり保険で成り立たせておるところも多いわけでありますから、そういう部分において、やはりお互いの助け合いなんだというふうに思います。

 相互扶助=助け合いだということに政府や自民党がこだわっているのがわかる。それは自治体も同様だ。次に紹介するのは群馬県安中市広報である。

国民健康保険助け合いの制度です

というどデカいタイトル。そしてQ&Aでも

国民健康保険は加入者全員の相互扶助制度です。

とくる。

——助け「合い」なのだから、全ての人が助けるためのコストを支払う必要がある。そのコストを払わない人は助けない。保険料滞納はそのままサービスを打ち切られる理由に早変わりする。だって助け「合い」なんだもん。

——生活保護は違う。受給者がコストを支払わなくても助けてくれるから。

…という理屈である。

 実際には、社会保障社会保険であっても公的扶助であっても、国家(行政・公)が責任を持つ制度であり*4国民健康保険は明確に社会保障制度だ。共助ではない。上記の安中市の説明は間違いである。

 

 もう一度、別の、国会での参考人質疑や質問を見てみよう。(高橋・小池は共産党、芝田は立教大教授)

高橋千鶴子委員 …そもそも国保とは何かということがやはり大事だと思うんですね。…例に挙げられましたさいたま市の例もあるんですけれども、そもそも相互扶助という言葉が、ここ最近、政府ですとかさまざまに使われてきたわけですね。資格証を出して保険証の取り上げをするということも、まさに相互扶助だから仕方ないのだ、そういうことで使われてきたのではなかったかと思うんです。やはり、国保は保険ではあるけれども、同時に、憲法二十五条に基づく社会保障制度でもあったはずではなかったか、こうしたことを先生も指摘していらっしゃるのかなと思うんですが、ぜひ御見解を伺いたいと思います。

○芝田英昭参考人 そもそも国民健康保険社会保障ということで私の意見陳述の最後の資料のところに書いてございます…。
 社会保険というのは、まず国民等が保険料を支払ってお金をプールし、そして、社会保険におけるさまざまな問題が起こった場合、給付をするという制度なんですけれども、ただ、その説明だけですと私的な保険と何も変わりません。
 社会保険というのは何なのかといいますと、社会的扶養部分である国の公的な、財政的な負担と、あるいは事業主負担、そういうものを社会的扶助部分というふうに呼んでおりますけれども、ここがあるがゆえに社会保障の中の社会保険だということが言えるんですね。そうなれば、単に相互扶助で、私的な保険のように、保険料を払ったからいわゆる給付が見返りとしてあるんだということではないというふうに考えられます。
 つまり、私保険の場合は、私的な商取引になりますので、保険料という商取引にかかわる代金を払わなければ当然給付はないのは当たり前の話ですけれども、社会保障における社会保険というのは、払えない場合であれば払わなくてもいいというのが一般的な概念だと思います。これは生存権というものを具現化しているんですから、お金があるないにかかわらず、医療を受けたりあるいは社会福祉制度を受けるというのは当然の国民の権利であるというふうに考えられております。
 そういう意味では、一九五八年以来、国民健康保険においては、その目的の中で社会保障制度として位置づけているにもかかわらず、各市町村のパンフレットがいまだに相互扶助あるいは助け合い制度だということをうたって、国民に対して、保険料を払わない、払えない人たちを差別する制度を維持しているというのは大変問題だというふうに思っております。

(2010年4月13日衆議院厚生労働委員会

 

小池晃 … 国民健康保険制度になぜ国庫負担が導入されているのか。これ、一九三八年の戦前の国保法の第一条では相扶共済の精神と書いてあるんですね。それが、一九五八年の全面改正で社会保障及び国民保健の向上に寄与するとされているわけです。
 つまり、この制度というのは、単なる相互扶助ではなくて社会保障であり、そのために国が財政責任を果たすという趣旨だと私は考えるんですが、大臣の基本的な認識はどうでしょうか。

国務大臣塩崎恭久君) 国民健康保険は、他の医療保険制度に加入しない方を受け入れておりまして、国民皆保険を支える基盤として重要な役割を果たしているわけでございます。
 こうした国民健康保険の役割を踏まえ、国保の安定的な運営に関して、市町村の責任のみに委ねるということではなくて、国としての責務を果たすため、一定の国庫負担を制度化をしているわけでございます。…

参議院厚生労働委員会2015年5月19日)

  つまり、国が税金を投じて責任をもって支えており、ただの相互扶助ではない、すなわち社会保障であるとしているのである。*5

  ただし、社会保険方式には、みんなで保険料を納めるという仕組みが入っていてそれは「共助的側面」なのである。2012年版の『厚生労働白書』は「社会保険」を次のように解説する。

 社会保険制度は、保険料を支払った人々が、給付を受けられるという自立・自助の精神を生かしつつ、強制加入の下で所得水準を勘案して負担しやすい保険料水準を工夫することで、社会連帯や共助の側面を併せ持っている仕組みである。
 社会保険の導入は、保険によるリスクの分散という考えに立つことで、社会保障の対象を一定の困窮者から、国民一般に拡大することを可能としたものといえる。
 このように、自立・自助という近現代の社会の基本原則の精神を生かしながら、社会連帯の理念を基盤にしてともに支え合う仕組みが社会保険であり、自立と連帯という理念に、より即した仕組みであるといえる。

 「自助」や「共助」も入っているけど、これは公が責任を持つ制度、すなわち社会保障であり公助なのである。多面的な性格を持っているのが社会保険なのだが、主要な面はどれであるかをきちんと見極めなくてはならない。安中市のパンフレットは、この「側面」をあたかも主要な面のように強調することで住民に誤解を与えている。

 

余談:「支え合う社会」というスローガン

 左翼ではないがリベラル派である立憲民主党党首・枝野幸男の政権構想スローガンは「支え合う社会へ」である。

cdp-japan.jp

 正真正銘の左翼・日本共産党の党首である志位和夫言っている

これらの七つの提案を貫く考え方は、経済効率のみを最優先する政治から、人間のケア、雇用、教育、食料、エネルギー、文化・芸術など、人間が生きていくために必要不可欠のものを最優先する政治に切り替えようということであります。人々の間に分断をもちこむ自己責任の押しつけでなく、人々が支え合う社会、連帯を大切にする社会をつくろうということであります。

 

 これは「自助・共助・公助」の文脈で見ると「共助」を唱えているかのように見えてしまう。だがこれは「自己責任」や「分断」、すなわち「孤立した個人」との対比で社会的連帯を呼びかけるスローガンである。共助論ではない。

 

参考

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

*1:例えば「企業活動を政治が応援してこそそのおこぼれが経済全体に回る(だから労働者への配分は政治が面倒を見なくてもよい)」というのは支配的なイデオロギーの一種としてある。

*2:イデオロギーは特定の階級の利害を本当は代弁しているが、それをむき出しにせず、「価値中立」を装っていることが多い。そしてその出自がわからないようになっている。つまり、特定の階級の利害のための考え方のはずなのだが、それを主張している当人にはその自覚は必ずしもなく、あたかも中立で公平な議論をしているかのように本気で考えている。

*3:ぼくの本を「町内会・PTAポルノ」(町内会などの閉塞性を指摘してスカッとする類の本)だと思っている人がいる。まあそういう面がないとは言わないが、違います。どうでもいいけど。

*4:例えば1993年の社会保障制度審議会社会保障将来像委員会第 1 次報告」「国民の生活の安定が損なわれた場合に、国民にすこやかで安心できる生活を保障することを目的として、公的責任で生活を支える給付を行うもの」と規定しているし、1950年の社会保障制度審議会による「社会保障制度に関する勧告」でも「社会保障制度とは、疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業多子その他困窮の原因に対し、保険的方法又は直接公の負担において経済保障の途を講じ、生活困窮に陥った者に対しては、国家扶助によって最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生及び社会福祉の向上を図り、もってすべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることをいうのである。…このような生活保障の責任は国家にある。」と明確にしている。

*5:そもそも国保法第1条には「この法律は、国民健康保険事業の健全な運営を確保し、もつて社会保障及び国民保健の向上に寄与することを目的とする」と書かれている。