さいきまこ『助け合いたい 老後破綻の親、過労死ラインの子』


助け合いたい~老後破綻の親、過労死ラインの子~(書籍扱いコミックス) 『助け合いたい』とはまた直截なタイトルではないかと思ったのだが、読み終えてみて、むしろこれは「助け合う」という言葉の批判的な吟味、「助け合い」イデオロギーの批判ではないのか、と思った。
 作者・さいきまこがどう意図したかは知らないが。


 「老後破綻の親、過労死ラインの子」というサブタイトルからもわかるように、ぼくのような中年層、そしてその親たちの世代が、一つのつまずきでドミノが倒れるように貧困のスパイラルに陥りかねない生きづらさを描いているのだが、物語の軸にあるのは、その環境をサバイバルする際に、「助け合う」という思想・考えをよくよく考えて見なければならない、ということなのだ。


 舞台となる漆原家は団地(分譲)住まいで、二人の子ども(娘・息子)はすでに独立し、高齢の夫婦二人暮らしである。
 夫が倒れて老々介護が始まる。この瞬間から、この家族は、子どもたちも含めて「いい人」ばかりで、お互いを「助け合おう」と真剣に、そして懸命にがんばるのである。いや、それはもう健気なほどに「助け合おう」という精神が横溢している。
 例えば、これは物語の序盤に出てくる、母親・春子の言葉である(「諒」は離婚・リストラで実家に戻ってきた息子の名前)。

困っている時に支えあってこその
家族だもの
私とお父さんだって
諒のおかげで
助けられているのよ

大丈夫
私たちは
大丈夫

助け合える
家族がいる
支え合って
生きていける……

 春子の穏やかな顔のアップ。
 家族が支え合うという助け合いが、物語の序盤で登場人物たちによって肯定的に語られるのだ。


 本作当初に登場する「助け合い」とは、家族が「助け合いたい」という自然な気持ちから、ひたむきにがんばる、非常に素朴な「助け合い」である。
 春子は夫・幸雄の介護をし、直美も内緒でパートを増やしながら金銭援助を続ける。諒も懸命に春子をサポートして幸雄の介護をする。そして、幸雄は希死念慮にとりつかれそうになっている息子・諒を何くれとなく心配しつつ、力になれない我が身を嘆く。

そうだ
せめて
笑っていよう
そうすれば
家族みんな
元気になってくれる
笑っていれば
きっと……

 前向きな気持ちで家族がおのおの努力して「助け合おう」とするのである。


 しかし、夫の死、妻の病気をきっかけに、家は売り払われ、息子は「自死」の一歩手前に陥る。
 息子を救いたいという一念で医療ソーシャルワーカー(MSW)に教えられた生活保護の窓口に向かうのだが、あれこれと詮索された上に

家族なんですから
お互いに助け合って
頑張らないと

と冷たく、そして体良く申請を拒まれる。

ずっと
助け合ってきた
頑張ってきた
それでも
どうしようもなくて
ここに来たのに

どんなに助け合っても
頑張っても
気持ちだけでは
どうにも
ならないのに――

 生活保護窓口での春子の絶望の内語である。
 ここで初めて、「助け合う」「そのためにみんなが前向きに頑張る」という、物語当初から漆原家が歩んできた考えの虚構性が暴露され、批判される。


 そして、漆原家が一息つけるようになるのは、生活保護が受けられるようになってからである。MSWの小田が再び登場し、生活保護を再度勧めたのだ。
 まぶたを半分閉じたような小田のグラフィックは、どちらかとえいば眠たそうな、ある種の冷徹さの印象を与える。そのクールさのまま、彼女が語るのは、生活保護制度を理解しない窓口対応の批判であり、さらに「助け合い」イデオロギーのラディカルな批判へと進む。

分け合えば
喜びは倍に
苦しみは半分に
なるというけど
困窮という苦しみは
分け合うと
倍加するって

だからお伝え
したいんです
家族を大切に思うなら
お金や介護以外にも
できることはある
それを大切にすれば
いいんじゃ
ありませんか

 そして、直美のこの言葉。

それにね
わかったの
お金の援助って
人の心を壊す
ことがあるんだ

人の施しで
暮らしてたら
その人の顔色を窺って
生きるしかなくて
プライドも自立心も壊れちゃうんだ
お母さんは
生活保護
受けることで
自分を取り戻して
生きたいんだよ

 金銭援助は人の心を壊す――これは相当に踏み込んだ「扶養義務」イデオロギーへの斬り込みである。そして権利としての社会保障生活保護と、「施し」としての「扶養義務」を並べることで同じ金銭の給付でも、前者がプライドを守り、後者がそれを破壊することを鮮やかに浮き立たせる。


 「家族を大切に思うならお金や介護以外にもできることはある。それを大切にすればいいんじゃありませんか」という小田の言葉にある「お金や介護以外にもできること」とは、結論である。
 その結論とは

互いに思い合っていれば
家族はそれで
十分なのかも
しれないね……

である。
 この言葉・結論の急進性は、すさまじい。
 この結論の直前に、諒が障害の認定を受け、具体的に自分が誰かの「役に立たない」と悩み、しかしそれでいいのだという受容をする。
 金銭援助は人の心を壊すこともある、あるいは、助け合おうとする頑張りだけではどうにもならない――こうした一連の展開の後に来る「互いに思い合っていれば家族はそれで十分」という言葉は、家族そのものが助け合って支え合うには、限界があるという冷厳な事実の承認ではないのか。
 では誰が支えるのか?
 それは、この物語の家族が生活保護によって支えられたことを見れば明らかである。
 物質的で具体的な支えは、社会保障による以外にないのだ。
 「どんなに助け合っても頑張っても気持ちだけではどうにもならないのに」という前半の言葉と、「互いに思い合っていれば家族はそれで十分なのかもしれない」という後半の結論には、一見して矛盾がある
 一体どっちなんだ?
 しかし、それは矛盾ではない。それを解く鍵は、真ん中に社会保障が「どん」と存在することなのだ。
 「助け合いたい」という気持ちに真ん中に太い社会保障という公的な大黒柱がなければ、構成員みんなが「がんばり地獄」に陥っていく。
 この作品がタイトルに打った「助け合いたい」とは、「助け合いたい」という気持ちや個別家族の頑張りだけではどうにもならないという批判であり、そこにしっかりした社会保障があってこそこの気持ちが生きるという主張なのだ。


 自民党憲法草案は24条で「家族は、互いに助け合わなければならない」とうたい、安倍政権は「自助自立を第一とし、共助と公助を組み合わせる」(2013年施政方針演説)という社会保障観を打ち出し、史上最悪幅の生活保護費切り下げを断行した。社会保障という公助をまず大きな基本にすえず、むしろそこを破壊して「助け合い」をさせる政治は、漆原一家のような「がんばり地獄」を全国で引き起こしている。*1


 さいきまこは、生活保護バッシングに抗して『陽のあたる家 生活保護に支えられて』を描き、貧困=自己責任論と対決して『神様の背中 貧困の中の子どもたち』を描いた。政治世論の最も風当たりの強い部分に、あえて立ち向かう、勇敢な漫画家である。今回も、「助け合い」という一見美風に思える思想に切り込み、それを批判的に再生させた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20150719/1437274305

 まもなく総選挙投票日であるが、投票前に読んでおきたい作品である。

*1:ちなみに、安倍が「貧困率が改善した」と言っているが、これは中間層が貧しくなったために貧困線(中央値の半分のライン)が下がり、下から10%の人々の可処分所得は減っているにもかかわらず、「貧困」定義から外れてしまったのである。なるほど、確かに「相対的な貧困」は「改善」された。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-01-29/2017012903_01_1.html