「しんぶん赤旗」(2018年1月16日付)を読んでいたとき、由比ヶ浜直子*1の次の文章が目に止まった。
発信されたものの多くがその場限りで流れ去っていくなか、時として何度も味わったり、眺めたり、手触りを確かめずにはいられない文章に出会うことがあります。心に響くものを書きたいという願いは、今や多くの人に共通するものではないでしょうか。(由比ヶ浜「宮本百合子没後67年に 何倍も長く立体的に生きた人生」/「しんぶん赤旗」2018年1月16日付)
まったくその通りだと思った。
自分の書いたものが人の心に響いたら書き手冥利につきるというものである。
「大分大学経済論集第69巻第3・4合併号(2017.11)別刷」という冊子が小学館から送られてきた。
ぼくの町内会についての2つの著作、『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)と『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)を研究の対象として一文を書いた研究者がいたのである。
研究者は高島拓哉。大分大学経済学部の准教授で地域社会学が専攻である。
「紙屋高雪の『町内会』2作から学ぶ ―アンペイドワークとガバナンスの視点から―」というタイトルだった。「研究ノート」という付記があってよくわからないのだが、いわゆる「論文」ではなく、論文化する以前のノート、メモ・覚え書きのようなもの、ということになるのだろうか。
実は、一度大分市でぼくは講演をしたことがあり、その際に高島が聞きにきてくれて、面識がある。書簡をやりとりしたこともある。ぼくが引っ越したせいで住所がわからなくなっていたためであろう、「論集」は出版社の方に届けられていた。
家庭内のアンペイドワーク、いわゆる「無償労働」の議論というのは、女性の家事労働などでよく聞く話だが、高島は地域社会のアンペイドワークに関心を持っており、これまでにごみ出し・ごみ置き場の清掃などについて論じてきた。
ぼくは『どこまでやるか、町内会』で1章を割いてこの問題を論じ、そこをヒントにして町内会が抱える問題、解決の糸口を論じているために、高島は特別の関心を寄せて本稿を書いたのだとしている。
高島は、ぼくの立ち位置を、町内会の現状に批判的な外側の視点とともに、町内会自身の苦労や理屈を内面化させた視点も持っている立場として規定し、ともすれば「町内会必要論=現状肯定派」と「町内会不要論=現状全面否定派」に両極化しそうなこの問題を、止揚させうるというむねの指摘をしている。
アンペイドワークを半ば強制的に構成員に押し付ける社会装置であることをやめて、住民が楽しみながらできる範囲で参加する新しい町内会は、NPO主導のテーマ型コミュニティと対極にイメージされてきた従来型の町内会とは異なって、現代人にとって参加障壁が低く、担い手不足を解決し、組織の存続に前向きな展望が抱けるような、コミュニティ・ガバナンスの革新的なモデルとなっている。(高島、p.21)
これまで全国にみられた町内会のありようを動かせないものと考える固定観念を排し、求められる役割を本当に果たすことができる組織にするために、そのありようを根本から見直すことが必要である。そのために、この「町内会」2作が最良の手引書となることは間違いない。(同前)
本2作は町内会肯定は、否定派、中立派、行政関係者など、どの立場の者も無視できない説得力を持っている。(同前)
町内会論にとって記念碑的な作品であると言っても過言ではない。(同前)
本稿の前半には、高島自身が町内会についてどちらかといえば全否定的な見方をしていたことや、仮に改革する際にも親睦・交流的なものは副次的なものであり、安全・安心確保の活動のような活動こそ本質的であると考えていたことなどが、ぼくの2作を読んで考えが変わったことなどが記されている。
高島が体験した町内会の現状で息を飲んだのは、高島の知り合いの高齢女性が、全身障害となった夫の交通事故対応で大変なときに町内会班長の役が回ってきて、なんとか順番を変わってくれないかと頼んだものの、結局押し付けられ、とうとう本人も入院するはめになってしまったという話だった。
(町内会)必要論・肯定派の人たちはよく、助け合いの組織だから、お互い様だと言っているが、この場合を見る限り、困っている人を助けるどころか崖から突き落とすような役割を演じてしまっている。(高島p.11)
高島は自身の中にある町内会不要論の根っこにこうした強烈な体験があったことを本稿の中で告白している。
ぼくもこのくだりを読んで「崖から突き落とす」という比喩が強く印象に残ってしまった。まさにその通りだなあと。
高島は本稿で「自助・共助・公助」の序列論、「補完性の原理」について批判をしている。基本的にぼくが行なった「自助・共助・公助」論批判を肯定しつつ、それに補足をする展開になっている。
その際、高島は「自助・共助・公助」の序列論について「実際におかれている混合的複合的形態から乖離した観念論」(高島p.18)「その責任や役割の序列を述べることはほとんど非現実的で無意味」(同p.19)としている。
これは、現実はまったくその通りである。3者は混合された形で現実には存在している。
しかし、ぼくは、あえて「公助」の責任、この部分だけは概念的にきちんと切り分けるべきであることをあえて強調しておきたい。すでにその趣旨は2著作の中でも書いているし、さいきまこ『助け合いたい』の批評の中でも表明してきたので繰り返さないが、町内会を熱心にやっている人、特に本来公的責任の後退には敏感なはずのサヨであっても、町内会に入って熱心にやればやるほどこの公的責任を肩代わりしてしまう熱心さに、いつの間にか取り憑かれているからである。
それはともかく。
自分の書いたものをここまで読み込んでもらい、しかも高く評価してくれたことに深く感謝したい。
批評は作者でさえ気づかぬ、作品の価値をさまざまに照らし出してくれるという、その醍醐味を見た思いだ。