『あなたがしてくれなくても』はセックスレスを扱う作品だ。
ぼくがこういう作品になぜか読む前から望んでしまう・期待してしまう設定は「夫婦仲はいいんだけど、セックスだけがない」だ。
渡辺ペコ『1122』は完全にコレである。
しかし、本作『あなたがしてくれなくても』は、最初はそういう設定なのかなと思って読み始めたのだが、登場する二つの夫婦はどちらとも内実が壊れかけていることが暴露される。
そうなると、『あなたがしてくれなくても』においてセックスというのは夫婦関係のいわば象徴的・集約的なものに過ぎず、セックスするかどうかが肝心な問題ではないことになる。
主人公の女性・吉野と、不倫関係を結びかける男性・新名が4巻でセックスを断念して「セックスはしない」「傍にいるだけでいい」という関係を結ぼうとするのは、理解できる。
私たちの意識には性→性器→下半身というとらえ方が根強くあって性交ができなければもう性とは無縁というような考えがちですね。/ところが実際には性の快さは脳で感じているのです。ですから、たとえ性器性交ができなくなったとしても、全身にくまなくひろがる皮膚の、文字通り“肌のふれ合い”から生ずる快さをはじめ、言葉やしぐさも含め、からだのすべてを使って性を表現し、楽しみあうことができるのです。そして、それこそが人間にしかない性の姿といっていいのです。/つまり、そこでもっとも重要なことは、そんなふうにして自分の願いを表現しあう人間関係になっているかどうかということと、性にかんしてそういう考え方を身につけているかどうかということですね。/肌のふれ合いと心のふれ合いが直接結びつくという――。/この意味でいうと「生の関係の貧しさ」は「性の関係の貧しさ」に直接ひびくのでしょうし、「性の楽しさ」をうみだすには「生の楽しさ」をともにつくりだす努力を除いてはありえないことになります。(村瀬幸浩『さわやか性教育』新日本出版社、p.192-193、1993年、強調は引用者)
「性=生」というテーゼ。
わかる。
わかる……んだけど、ソレかよ、と思う。あるいは本当にそうなのかよ、とも思う。
特に新名が望んでいるものは不可解だ。
新名は、編集の仕事にのめり込んでいる妻に対してセックスを望んでいるように初めは見えるし、吉野に綺麗事を言いながら近づいていくときも、吉野を性的な対象としてみているように思える。なぜなら、悩みの相談に乗りながら、次第に吉野との関係を深め、やがてそれが“デート”然としたものに発展した時(2人は巨大水槽のあるスポットに行く)、新名から吉野の手を握ったり、車で送り際にキスをしたりするのである。
しかし、社員旅行の吉野の部屋でセックスしてしまいそうになり、それが未遂に終わると先ほどのように「セックスはしない」「傍にいるだけでいい」という関係を結ぼうと提起するのである。
これはアレなんだな、客観的に見ると「吉野とのセックスに失敗して、吉野が離れないようにつなぎとめている」ってことじゃないのか?
そして、その後、新名は自分の妻に初めて不満をぶちまけるとき、「じゃあ何でセックスをずっと拒むの!?」という問題を投げかけるのだろうか。
もしも新名にとってセックス=性器性交が重要な問題でないのであれば、新名は妻に対してセックスを拒否していることを問題提起すべきではなく、日頃の自分たちの関係について話すべきではなかろうか。妻が仕事に疲れているからセックスをしたくないと思っているのは事実なんだろうから、その事実から出発せずに、“なぜ自分のセックス要求に応じないのか”的な非難をする新名の姿に不自然さを覚える。
このマンガをどこが面白いかと思って読んでいるかといえば、「同僚と不倫関係になりかけながら、(性交)ラインをなかなか超えない」というスレスレ感がベースだが、さらにその中で「男の側がその気持ちを無意識に隠蔽しながらカッコつけてしまう姿が、他人事とは思われなくて悶えてしまう」というあたりがポイントなのである。
例えば、泣き崩れる吉野を「不用意」に抱きしめてしまったことを「お詫び」して性的ニュアンスのない「相談」をしたいという思いを告げるために、新名が選んだのはこういうバーである。
いやー、これはいかんだろ。
「しっとりしたバー」って感じすぎる。
親密になろうという気持ちマンマンじゃね?
って思ってつれあいに「どう思う?」って聞いたら「うーん、まあ、落ち着いて話したいと思ったんじゃないの? スタバとか居酒屋だとうるさいでしょ」と意外に寛容な意見。うむ、そういう考えもあるのか(狼狽)。
完全に自分=新名目線。
新名が吉野と言葉の上でやり取りするのがとても「いやらしい」。エロい。言葉でセックスしている感じ。そういう関係になろうとすまい、と表では取り繕いながら、精神的には乳繰り合っているというような。
だからぼくにとってはこのマンガはエロマンガなのである。
エロマンガといっても、完全妄想モードではなくて、もっと現実に近い話として受け取るのだ。
そうなると、2人の関係の危うさとか、その中に性暴力的な要素があると、「現実問題」のように気になってしまうのである。
さっき書いた「手を握る」「キスをする」ってシーン。
現実世界では、同意なしに同僚とか旧同級生とかにこうやっちゃう案件って結構多いよな、と思う。
酔っていきなり手を握ったり、キスしたりする案件。相手を性的な対象としてみるという話。
そういう社会背景の中で、新名が「キスしていい?」とか「手を握っていい?」って同意を求めずにキスしたり、手を握ったりするのは、「それ、性暴力では?」と気になる。明らかに吉野と新名は気持ちが通じ合っているから、結局OKになっているんだけど、これ、もし男の側の「勘違い」だったら、相当痛いな、とか思ってしまうのだ。
「お前は虚構にすぐポリティカルコレクトネスとかジェンダーチェックをするのか。貧しい読み方だな」という意見がすぐ返ってきそうだ。
だけど、こればっかりは不思議なのもので、非現実感が強い作品、例えば、『娘の友達』には自分の中で作品にそういうチェックを働かせないんだよね。
だけど、作品の描く領域が自分の現実に近ければ近いほど、何かのスイッチが入ってそういうチェックを働かせてしまうのだ(作動しないこともある)。いじめに悩んでいる人が作品中のいじめの描写をおよそ虚構として読めないのと同じである。だから、そういうチェックが作動していることを以て、「貧しい作品批評だ」と言うのは一概にどうかと思う。