ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(映画)

何の救いもない映画

 エンドロールが出てきたとき、「あっ、ここで終わるのかよ…」という絶望感を隠せなかった。

 ケン・ローチ監督の映画「家族を想うとき」は、すばらしく何の救いもない映画である。

longride.jp

  個人事業主という形で配達の仕事を請け負うことになった主人公・リッキーとその家族を描いた作品である。クソ高いレンタル料を選ぶか、長期のリスクを背負うローンでの買取かという博打のような選択で自家用の配達車を買い、分単位で管理される過酷な配達ノルマをこなす。

 

アントレプレナーシップ」と「ソサエティ5.0」の本当の姿

 そういえば、2006年、今から13年も前に、ぼくは「30年後の日本」を予想する企画を自分のホームページでやったことがある。あの時、野村総研の『2010年の日本』を紹介したけど、かの財界シンクタンクはその本で「雇用社会から起業社会へ」と題した最終章を用意していた。

「自分が自分のボスになる」という言い方があるが、会社に勤めていても新しい事業を始める、あるいは、組織の変革をすすめるという主体的な人が増える社会……起業家精神アントレプレナーシップ)がより発揮される社会(p.204)

  そして、その時ぼくは、財界のいう「起業家」とは単に労働法の保護を失った労働者に過ぎないことを指摘した。

 資本の立場から国民にむけて「起業家精神」を吹き込むことには、資本にとっては意味がある。

 たとえば「個人請負」。
 2003年に名古屋で「軽急便」ビル爆破事件がおきたことことを覚えているだろうか。
 本来、「輸送労働者」として雇われ、「車」という生産手段も、会社が所有するものを使い、労働者はそこから労賃をうけとるというのが資本主義システムである。そのかわり、労働者は労働時間、労賃、解雇規制、社会保険など労働法によってさまざまな権利を保障され、保護されている。

 しかし、「個人請負」は、労働者に法外な金を出させて生産手段を使う「権利」を背負い込ませ、あらゆる労働者保護を解除する。労働者は「起業家」となり小さな資本家となる。ゆえに賃金を払ったり、労働時間を気にしたり、社会保険料をおさめる義務は会社にはいっさいなくなるのだ。もちろん「小さな資本家」になった「労働者」にとって、「もうけは自分のもの」のはずだが、そのような対価を得られる保障はどこにもない。

  まさにリッキーの姿は、財界が望んだ「起業家」そのものの姿である。

 ぼくが住む福岡市では小学生にまで「アントレプレナーシップ教育」をやっているけども、労働法に保護される「サル」(野村総研)になるのではなく、立派な起業家になってくれよ! というわけである。めざせリッキー。

http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/48921/1/shiryou7.pdf?20190925151247

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 そして、AIやICTといった技術革新による「社会問題の解決」。財界が望む「ソサエティ5.0」を安倍政権、そして福岡市の髙島市政が旗振りしている。先日も市長の話を直接拝聴する機会があったが、彼は自動運転車やドローンの例を上げて、技術革新がいかに社会問題を解決するかを熱心に語っておられた。

 しかし、鬼監督・リッキーがGPSを備えた「銃」(手元で集中管理をするハンディターミナルの「愛称」)でリッキーたち配達人を精密に管理するように、明らかにその技術は、猛威を振るう資本の権力である。

 何の保障もない、徹底した自己責任の起業家たちの集まりなのに、『蟹工船』の現場監督・浅川らしきものがいるんだぜ?

 

 「アントレプレナーシップ」とは労働法の保護を失った労働者であり、「ソサエティ5.0」とは技術による資本の専制権力の確立である――この映画をみてそう思わずにはいられなかった。

 

家族はリスクに

 映画では、リッキーの息子・セブは学校に行かない。万引きをしたり、「落書き」(ストリート・アート)をしたりしている。

 配達を休むわけにいかないときに、息子が警察に捕まったと連絡が来る。息子に前科がついてしまわないように、リッキーは悩んだ挙句に警察に出向く。マロニーは電話の向こうで怒鳴りながら莫大な制裁金を覚悟しておけと脅す。

 セブだけではない。

 他の家族の行動も、リッキーの労働には「リスク」として現れる。

 リッキーは配達を時間通りにこなす「優秀な配達人」だった。リッキーが奪うことになったコースは、「いつもトラブルずくしで時間通りに配達できない配達人」のものだった。その配達人は不要とされ、マロニーにあっさり切り捨てられた。いわば「ダメ配達人」だったわけだが、リッキーは家族の「リスク」に巻き込まれてあっという間に「ダメ配達人」にされてしまう。

 子どもたちが成長の過程で右往左往し、そのために必要な時間を過ごすことはリッキーの労働には予定されていない。おそらくリッキーが病気になること、怪我をすることもその労働にはうまく予定されていない。そのたびにペナルティが課せられる(いくらか保険で賄われるにせよ)。

 このようにリッキー的な「起業」とは、家族と向き合う時間、事故や病気、そうしたものがほとんど予定されていない。「順調に」仕事だけをこなしていけば、確かになにがしかの報酬が約束されているわけだが、生活をもつ人間、家族をもつ人間にとって、実はそのような「順調」さは極めて成り立ちにくい条件なのだと思い知る。

 なるほど家族は「贅沢品」になってしまう。

gendai.ismedia.jp

  家族がリスクになったり贅沢品になるのは、むろん家族のせいではない。

 社会の制度設計が間違っているのである。

 

救いがないということ

 かつて労働運動や教育問題を報じていたジャーナリストの斎藤茂男が、“自分の描くルポルタージュは展望が見えないと批判される”と自嘲していた。組合とか政党とか、社会変革の力が見えないから、という批判である。

 今にして思えばそのような「安易」な展望を描くことが作品に必要なのかという思いさえよぎる。

 この映画を見た人は、絶望して布団をかぶって震えて寝てしまうのではなく、むしろ社会に何かを感じ、行動を促されるのではなかろうか。

 「救いがない」ことはこの映画の美点である。

 救いがないのだけども、介護労働者でリッキーの妻であるアビーが、怪我をしたリッキーのもとにかかってくるマロニーからの電話に向かって啖呵を切るシーンは、涙なしには見られない。資本の専制に対する痛烈な告発である。この映画の白眉だ。

 

タイトル(邦題)のこと

 町田智浩はこの映画の邦題について批判していた。

miyearnzzlabo.com

 

というような、恐ろしい映画がこの『家族を想うとき』で。でも『家族を想うとき』じゃあ伝わらないよ!っていう。

 これはぼくも同感で、原題「Sorry We Missed You」はイギリスの宅配の不在連絡票に書いてあるいわばおきまりの文句のようである。

赤江珠緒)ねえ。原題の『残念ながらご不在でした』の方が伝わるけども。

  ま、「残念ながらご不在でした」で伝わんのかよ……とは思うけど。

 『家族を想うとき』がハートフルすぎるというのはその通りで、例えば「ご不在連絡票」とかの方が、不気味でいいんじゃないかな。