LGBTを「趣味」「生産性」で論じることはいけないか

LGBTは趣味」発言を理解しようとしてみる

 私がAさんを好きか、Bさんを好きかは個人の趣味の問題である。
 国家が口を出すことでもないし、補助金をつけてAさんが好きな気持ちを助成しようというのもおかしな話である。AさんとBさんは「結婚」してもいい。勝手に式でもなんでもすればいいんじゃないか。もちろん、「AさんはキレイだけどBさんはキモいよね」「Bさん好きになるやつは頭がおかしい」とかは言ってはいかん。キビしく叱るべきだ。

 これが「LGBTは趣味」発言の政治家の気持ちではないか。そしてそれは、この範囲ではそんなに間違っていないと思う(「趣味」という言葉については後から述べる)。なお、上記の「引用」囲みは何かの引用ではなく、ぼくが頭の中でできるだけ筋道が立つように考えた理屈である(以下同じ)。

 しかし、AさんとBさんの結婚を法律的に認め、相続とか減税とか公営住宅入居とか、そういう「優遇」までするのはどうなのか? そこまでする必要があるのか?

 Aさんとの法律婚はよいがBさんとの法律婚はダメというわけである。*1
 これは差別ではないのか。そして(理由は別にして)「Aさんとの法律婚はいいが、Bさんとの法律婚はダメ」としているのは、別に杉田水脈や谷川とむだけでなく、現在の自公政権そのものである。
 ここにおいて、問題は「趣味みたいなもの」ではなくなる。法律や制度の問題だからだ。

 しかしそもそも「Bさん」は、絶対に誰でもいいというわけでもないぞ。そもそも「Bさん」が子どもだったらダメだろ。市松人形でもハトでも「南ことり」でもダメだろ?
 つまり法律婚で認めて社会的に一定の「優遇」をするのは無条件じゃない。線引きがあるんだ。
 そして、どうして法律婚夫婦には「優遇」をするかと言えば、社会の再生産を担う経済単位であることが期待される(子どもを産み育てて社会の縮小を防ぐ)からだ。
 そういう意味で同性同士は勝手にカップルになる分には構わないけど、法律婚まで認め、そこに税金を一定使うのは、やりすぎだ。
 「好き・嫌い」といういわば恋愛の間は、趣味なので勝手にやってればいい。しかし、同性同士の法律婚を認めろというのは趣味に税金を使うものであり、そこまでやる必要はない。

 「趣味」「税金」「人口」というキーワードで「LGBTは趣味」という政治家の理屈を体系立てればこのようなものになるはずだ。*2

「社会の再生産のために税金を使う」という論だて

 この理屈のキモ(でありアキレス腱)は、「どうして法律婚夫婦には『優遇』をするかと言えば、社会の再生産を担う経済単位であることが期待される(子どもを産み育てて社会の縮小を防ぐ)からだ」という部分だろう。杉田の「LGBTは生産性がない」という発言もここに位置づけられる。


 「税金を使う」という理屈にのみつきあって、ここを考えてみよう。
 例えば、福岡県大川市には新婚世帯への家賃補助制度がある(家賃の半分、ただし月1 万円が上限)。
 その目的は市の交付要綱に従えば次の通りである。

少子化対策として、若者の結婚に伴う新生活スタートの支援及び経済的理由で結婚に踏み出せない若者負担を軽減し、安心して子どもを産み育てることができるよう支援するため、…

 なるほど、ここでは、「子どもを産み育てる」ことを政策目標にして、新婚世帯に税金を使っている。このような場合、確かに同性婚の新婚世帯に家賃補助をすることは「目的」から外れるかもしれない。


 しかし、法律婚は「子どもを産み育てる」ことを前提に税金での優遇制度がすべて設計されているわけではない


 例えば、茨城県石岡市にも新婚世帯への家賃補助があるけど、こっちの目的は「新婚世帯の定住化の促進を図るため」である。
 ここでは、子どもを産み育てるかどうかではなく、「夫婦というユニットになることで、生活基盤が安定し、定住性が高まる」という考え方がベースにある。定住することで、そこで働き、何らかの富を生み出すという想定があるのだろう。それが税金を投入するのに値する、というわけである。*3



 新婚世帯の公営住宅の入居促進はどうか。
 例えば大分県の県営住宅では、子育て・新婚世帯の入居を優遇している。その政策目的としては「大分県は『子育て満足度日本一』を目指しており、経済的な負担の重い子育て世帯やこれから出産を控える新婚世帯の入居機会の拡大を図る」とやはり「子育て」「出産」を目的にしているが、この目的に「加え」、「若い世帯の入居促進を通じたコミュニティ形成により、高齢化の進展によるコミュニティの弱体化の懸念が解消され、安心・安全な住生活ができる」としている。


 つまり若いやつ入ってこい、若いやつでも定住しそうな奴が入ってきてコミュニティを若返らせてくれ、団地自治会を支えてくれよ、ということである。これは子どもを産むことが前提とされていない目的だと言える。若けりゃいいんだから。(しかし単身者は想定されていない。長くそのコミュニティには居着かないだろうと思われているのだ。)



 所得税配偶者控除はどうか。この控除は法律婚でなければ受けられない。
 しかし、子どものいない異性婚夫婦は配偶者控除を受けられるのだから、もしこれが「社会の再生産をする人を優遇するためのもの」でしかなければ、理屈は成り立っていない。「今後子どもを産むかもしれないからだ」というかもしれないが、それならば子どもが生まれたことを控除の要件にすべきであり、やはり理屈が立たない。
 ここでも背後にある理屈は、子育ての単位であるかどうかではない。
 一方が会社で働き、他方が家事労働という分業をするユニットとして経済活動に参加している、という想定がそこにはある。そういう分業で「効率的」に経済価値を社会に生み出してくれている、だから税金をまけてやるのだ、と。*4


 法定相続は税金を使うものではないが、この流れでつくられている制度と言えるだろう。ある人の財産を配偶者は法定分だけ優先して相続するように法律が作られている。それは、夫婦というコンビでその財産を築いたからであって、たとえば会社で働いていたのは本人だけかもしれないが、パートナーのサポートなしには働くことは無理だったんじゃねーの? という理屈で優先的に遺産を分けてもらえるのである。


 こうしてみると、確かに、「子どもを産み育てるから税金を投入する」というロジックを使っている場合も少なくないが、他方で子どもを産み育てるかどうかではなく、子どもを産まなくても「夫婦である」という事実だけで経済単位として評価され、税金を使って支援するに値するとみなされている行政制度がたくさんあることがわかる。*5

生産性で評価して税金投入をする政策

 「人間を生産性・経済性で評価してはいけない」というのはまったくその通りであるが、生産性・経済性で評価して費用対効果を考えて税金を投入している政策が少なからずあるのもまた事実である。
 しかし、そのロジックに従うとしても、「子どもを産まないから生産性がなく、税金を使うべきではない」という理屈は破綻している*6


 「人間を生産性・経済性で評価してはいけない」という問題はもう少し丁寧に言っておきたい。
 例えばハンセン病療養所入所者には補償金=税金が支払われているが、これは生産性・経済性を考慮したものでは微塵もない。入所者の人権と尊厳が奪われてきたことに対して国の責任を認めるがゆえに税金を原資にした補償金を支払うのである。
 奪われた尊厳(マイナス)を回復する(ゼロにする)ために税金を使うのだ。
 他方、夫婦に税金を使う、夫婦に税金をまけてやるのは、生産性・経済性が考慮された制度である。同性婚カップルは現在その制度から外されている。あくまで税金を使うかどうかについてだけいえば、異性婚カップルが受けている生産性・経済性にもとづく優遇を、同性婚カップルにも受けさせてくれ、というものだ同性婚カップルを異性婚カップル以上に税金を使って特別に優遇しろ、ということではない*7

オタクやSMにも「支援」?

 よく「同性愛を『支援』するなら次は差別されているオタクやSMも『支援』しないとな」という皮肉があるけども、もしオタクやSMであることを理由に例えば法律婚から排除されているとすれば、それは「支援」されねばならないだろう。つまり法律婚を認められるべきである。


 結婚の問題を別にして、LGBTであることを理由に、いじめられたり、就職できなかったりする問題はどうか。
 もちろんいけないに決まっている。
 では、例えばオタクであることを理由にいじめられたり、就職できなかったりしたらどうか。
 SMはどうか。やはりいけないに決まっている。SMであることと就職はなんの関係もないし、いじめられてよいものではない。個人の「趣味」は自由だ。
 では、それを学校や公民館で講座を開いたりして教えるべきだろうか。LGBT差別はいけない、そしてオタクやSMの差別はいけない、と。
 結論から言えば、本当にそれが深刻であれば、教えるべきだ。
 だいたい自治体ごとに「人権教育推進計画」とか「人権教育・啓発基本計画」というものが定められていて、教育や啓発の内容の柱が定められている。*8
 例えば新潟県柏崎市で言えば「様々な人権課題」の一つに「性的志ママ向と性自認に悩む人」という柱がある。
https://www.city.kashiwazaki.lg.jp/gikaijimu/shigikai/inkai/jonin/katsudo/documents/jinkenkeihatu01.pdf
 他方福岡市には、その柱はない。「同和」が太い柱になっている。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/774/1/jinkenkihonkeikaku110921.pdf

 そして、どちらにもオタクやSMの人権については書いていないが、例えば福岡市の計画で言えば「一人ひとりの尊厳が大切にされる社会、つまり人権が尊重される社会の実現」ということの中に含まれているのである。理屈からいえば、オタクやSMの差別が深刻であるなら、「女性」「高齢者」と同じように抜き出して柱にして「オタク」「SM」と柱立てすべきだろう。*9
 

LGBTを「趣味」「嗜好」としてはいけないか

 さて、LGBTを「趣味」とする表現について最後に一言だけ。
 LGBは「性的嗜好」だと言われることがある。そして「嗜好」を辞書で見ると、「たしなみ、好むこと。趣味。特に、飲食物についての好み」(大辞林)とある。つまり「嗜好=好み=趣味」だということになる。
 「私はAさんが好きです」と言ったとき、「えー、あんなのが趣味なんだー」と言われたりする。「趣味」を辞書で引けば「2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」(大辞泉)とあり、そういう意味で「趣味」なのである。


 この部分に関して、ことさら「LGBは性的嗜好preferenceではなく性的指向orientationである」として反論する向きがある。反論しようとするあまり、LGBは生来的なもので、変えようがないものだという側面だけが強調されてしまうこともある。


 性的指向といった場合、性愛の方向がそういう性に向いているか、という大きな方向性の意味であるのに対して、性的嗜好といった場合、誰の、どんな特徴を好むのか、というまさに対象そのものの意味であるといった違いがある。言い方を変えれば、「指向」は性別について方向を示すのみで、分類のためのニュートラルな表現であるのに対して、「嗜好」は「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」といった具合に個別性が強くなる。そのような意味で「指向」を使ったほうが、ニュアンスを交えずに中立的に表現ができるように思える。
 しかし、LGBの人の性愛のありようを「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」という「嗜好」の一つだといって何も問題はないのではないか?
 「Aさんという個人をかけがえのない人として好きになったが、それがたまたま同性だった」という場合、方向付けを表す「性的指向orientation」よりも「性的嗜好preference」で表現した方がむしろしっくりくる。
 LGBが生来的なものか、変えようがないものかどうかに至っては、二の次の問題ではないのか。自分の同性愛が生来的なものだと決めつけることもできないし、逆に後天的なものだと決めつけることはできないだろう。将来のこともわからないから、変わるかどうかなんて誰にも変わらない。杉田水脈の言うように、同性愛は人生上の一過性のものであるかもしれないが、他方で、一過性であるとは決めつけられないのもまた事実である。


 「嗜好」「趣味」という言い方は、「特に、飲食物についての好み」と辞書にあったように、例えば今日はカレイにするか、サンマにするか、というほどのニュアンスに聞こえる。自分の気持ち一つで変えられるのだ、と。
 そういう恋愛もないとは思わない。
 他方で、「Aさんをやめて代わりにBさんを愛しなよ」と言われて、「はいそうですか」と代替できない場合があることもまた事実である(というか、統計的にはおそらくその方が多い)。趣味として、好みとしてAさんが好きだったとしても、Bさんに替えられるわけではない……という人が事実として1人でも存在する以上、「同性愛とはいつでもどんな場合でもサンマかカレイかのように選択の入れ替えが自由なものだ」と決めつけることは不可能である。
 ゆえに「嗜好」や「趣味」だから軽いというわけではなく、「嗜好」や「趣味」に基づく感情・性愛であっても個別の、代替不可能な、かけがえのなさを含んでいることはあるのだ。
 だから、「性的嗜好」と表現することや「趣味」と表現すること自体に、ぼくはあまりかみつく必要はないと思っている。


 タイトルの問い(LGBTを「趣味」「生産性」で論じることはいけないか)の(ぼくなりの)答えをまとめて言えば、「趣味」「生産性」で論じることはありうるのだ。
 言いかえると、
(1)LGBTは「趣味」である人も、「趣味」でない人もいる。しかし「趣味」であるからといって法律婚が認められないのはおかしい。LGBT法律婚から排除するかどうかの問題は、少なくとも「趣味」の領域ではない。
(2)生産性がない人というものは存在するけど、生産性がないからといって尊厳が奪われていいわけがない。生産性の有無で尊厳を論じるのは間違いだ。他方で、性的少数者の多くは経済的な生産性があるのに「ない」と言われているのはおかしいのではないか――
となる。

*1:法律婚そのものではなくてもそれに準じる制度でもよしとすればとりあえずは「ダメ」の範疇には入らないだろう。例えば自治体でやっているような「パートナーシップ宣誓制度」のようなもの。

*2:自民党議員である谷川とむの発言も読んだ。ガチャガチャして分かりにくいが、整理すればこうなるんじゃないか。 「日本の伝統的な家族形態に反するから」という理由もありうるが、その理由づけだと「税金」「人口」を使って体系立てて説明することが難しい。

*3:ちなみに、政府は結婚新生活支援事業費補助金というのを始めている。年所得300万円以下の新婚世帯の新居費用に18万円の補助を出す事業を自治体がやったらそのうち3分の2は支援しましょう、というものだ。これは明確に「少子化対策」が目的で、自治体が移住支援でやる場合、「少子化対策」であることもうたえば、国が補助してやろうと書いている。大川市のケースなら応援するけど、石岡市のようなケースは応援しない、というわけである。 https://www.zennichi.or.jp/wp-content/uploads/2016/11/79b9013da1f78bcb91ffe2649a1956be.pdf

*4:配偶者控除などの所得税控除は生産性や経済性ではなく生存権の観点から生じたものだという意見があることは承知している。しかし、「なぜカップルの一方は病気や障害でない場合に働かずに専業主フをしているのか?」という問いへの答えとして経済性や生産性を答えにしても差し支えないように思われる。

*5:この理屈で言えば、例えば5人くらいの友達同士が長く同居して家事を支え合ったりするような「家庭」も優遇を受けるべきことになる。ぼくは何らかの要件を設けてそういう「家庭」も認めていいと思う。

*6:ただ、ぼくは「生産性」という議論の枠に乗っかって、そのロジックの中で議論する危険性については恐れがある。西口克己『小説蜷川虎三』にある次の一節が思い出された。「最初、このままではダメだ、いまの軍部のやり方ではダメだと思い、そう思うことによって、よりましな政策を模索するようになる。模索するということは、しかし、すでに政府の大きな枠内に取りこまれていくことでもあった。いいかえれば、冷静な『外在的』批判の目をしだいにくもらされて、『内在的』批判に向かうようになり、そのことは当人が好むと好まざるとにかかわらず、政府に協力することになるのである」(p.88-89)。

*7:アファーマティブ・アクションの文脈で、そういう「ゲタはかせ」の制度が「絶対にない」とは言えないが。

*8:ぼくはこのようなほとんど私人間の差別問題に「人権」を解消するような人権把握は人権の矮小化だと思っている。ブラック企業と人権、学ぶ権利の侵害としての高学費、などのような内容を柱にすべきだ。とは言え、他人の人権を傷つけないよう教育や啓発をすること自体は悪くない。

*9:ただ、教科書やテキストの厚さ、受けられる啓発の量は一定しかないのだから、何を柱にして何を柱にしないかは、啓発・教育の場合は、あくまで相対的なものである。例えば同和問題は人権侵犯事件のうち0.5%ほどしか占めておらず、「教えるな」とは言わないが、福岡市のような最重要の柱にするのは明らかに偏りがあると思う。