星乃治彦『赤いゲッベルス ミュンツェンベルクとその時代』

 学生運動をしていた頃の友人に勧められて読む。

 

赤いゲッベルス ミュンツェンベルクとその時代

赤いゲッベルス ミュンツェンベルクとその時代

  • 作者:星乃 治彦
  • 発売日: 2009/12/18
  • メディア: 単行本
 

  

 ヴィリー・ミュンツェンベルクの評伝である。

 ミュンツェンベルクは、ナチス期のドイツでコミュニストの側に立って宣伝扇動の活動を行い、それを通じて反ファシズム統一戦線の形成に大きな役割を担った活動家である。しかし、やがて「粛清」が吹き荒れるソ連コミンテルンとも対立するようになり、1939年の独ソ不可侵条約に至ってついにスターリンを「裏切り者」と弾劾するに至る。そして、1940年に亡命先のフランスからさらにスイスに逃れる途中で「謎の死」を遂げる。

 ここでいう「ゲッベルス」とはいうまでもなくナチの宣伝大臣であったヨーゼフ・ゲッベルスのことで、「赤いゲッベルス」とは敵であるゲッベルスに匹敵するほどのコミュニスト側の宣伝巧者という意味である。ただし「赤いゲッベルス」という評価・表現は、同時代人がしていたものではなく、後世の研究者が「ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相といい勝負」と評した言葉から星乃が造語したものである(p.84)。

 

 ぼくは、ミュンツェンベルクのことをほとんど知らず、本書でその活動の一端を知った。

 ぼくが驚いたのは、ミュンツェンベルクが宣伝を一種のビジネスのようにして展開し、企業や組合を次々設立して「ミュンツェンベルク・コンツェルン」というべき複合体を作り上げたことだった。

ヴィリーはそれまでの活動のスタイルを次々と打ち破っていた。例えば、一九二三年一月末にライプツィヒのドイツ共産党大会に出席しようとしていた時、二人の同伴のもと、列車の食堂車で朝食をすませ、食後に三杯のコーヒーを立て続けに飲んだ。ライプツィヒに着くなり、市の中心街にあった最も大きなホテルに駆け込み、ドイツ共産党大会に出席する代表たちの全員の部屋を予約した。こうしたヴィリーのスタイルは、従来イメージされたような労働者、共産主義の指導者とは大きく違い、むしろアメリカの大企業家を想起させるものであったし、「赤い億万長者」を連想させる。こうしたことは、ヴィリーが、それまで身内のカンパによって細々と身内の言説だけにとどまっていた「活動」を「ビジネス」へ変貌させていたことを物語るエピソードである。(本書p.112-113)

 まあ、活動の資金稼ぎに「ビジネス」を直結させた時の弊害というものは、その後、日本でもいろいろ見てきたからこれがそのまま現代でどうのこうのという話ではないのだが、当時としての斬新さはこの一文でもうかがえる。

 

 ただ、ぼくが今回記事として書きたいことはそこではない

 ミュンツェンベルクが反ファシズム統一戦線に対して、どういう態度で臨んだのかという点である。

 コミンテルンつまり共産党側は、社会民主党に対して「社会ファシズム」規定を与え、相当敵対的な態度をとってきた。しかし、そこから大きく転換をして、「反ファシズム統一戦線」の方向を呼びかけたことは有名な話である。

 しかし、そのような時に、「統一戦線」に対してどういう位置付けを与えたのか、ということは共産主義者の中でも様々だった。

 簡単に言えば、「統一戦線」を相手を倒すための「方便」、つまり戦術と考えるのか、そうではなくて革命において違う思想信条の人々との共同を一貫して追求という戦略として考えるのかということになる。

 そして、それは共通の敵を打倒した後にできる体制を、自分とは違う思想信条の人たちとの混成社会と考えるのか、そうではなくて、体良く敵を倒した後は今まで手を組んでいた相手もやがて圧倒し・滅ぼし自分たちが支配する単一の社会と考えるのか、の違いにつながっているのだ。

 

 コミンテルンの忠実な活動家であり、ミュンツェンベルクのライバルとされるウルブリヒトは、コミンテルンの「反ファシズム統一戦線」の成果を焦るあまり、社会民主党の幹部との性急な政党間合意を作ろうとして破綻する(社会民主党の側に根本的な非があったとはいえ)。

 他方で、ミュンツェンベルクは、幅広い立場の有識者による「人民戦線暫定準備委員会」を組織する。そこにミュンツェンベルク、社民党幹部、自由労働組合カトリックの代表、ブルジョアの代表などが合流し、作家のハインリヒ・マンが議長に就任するのである。そして打倒後の体制についても棚上げするなど、統一のための極力の調整をしていることがわかる。

 このような経験を経て、さらにスペインの人民戦線運動の経験がそこに加わる。スペインでは政権を握り、それはすでにヴァイマル時代の共和国を乗り越えていたのである。

 

こうした「マドリードの闘う顔」をもつ民主共和国に到達したヴィリーの人民戦線認識は、ナチスとの闘争にあたって西欧型民主主義を高く評価し、それへと接近していく過程を示すものであった。これは、後の、資本主義でもソ連社会主義でもない新しい「第三の道」を模索した人民民主主義ユーロコミュニズムに代表されるような民主的社会主義像に繋がっていくものであった。ただ、それを志向するということは、そのことは同時に、スターリンの下ソ連で推し進められる国家主義社会主義からの離陸を意味し、国家主義社会主義を代表するウルブリヒトとの軋轢につながったのであった。(p.182)

 

これを読んで現代日本野党共闘について考えた

 なぜこの部分が今のぼくにとって興味を引いたのかといえば、何と言ってもそれは「野党共闘」のことが頭にあったからである。

 松竹伸幸が最近上梓した『安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない』(かもがわ出版)では、安倍政権の「強さ」を分析しながら、野党共闘でどのような政権を組むかについての提案がされている。

 

安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない

安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない

  • 作者:松竹 伸幸
  • 発売日: 2020/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 松竹は、安倍政権の「強さ」、特に安保・外交について、岩盤支持層に目線を送った政策ではなく、むしろそこはもう大丈夫だからと考えて、「リベラル・左派が共感するようなアプローチをとってきた」(松竹p.63)のだという。

 その評価が妥当かどうかは、松竹の本を読んで判断してほしいのだが、松竹は野党連合政権に期待をかける立場から、その政策、特に安保・外交政策は、リベラル・左派だけがうなずくようなものではなく、保守層が共感できるような政策を示すべきだとするのである。

 

 例えば、核兵器禁止条約。

 ある種の左派・リベラルの中では、野党連合政権ができたら当然のようにそこに加盟(批准)すると思っている人がいるが、松竹の本を読んでも、必ずしもそうとは言い切れない。共産党は当然批准であるが、立憲民主党の立ち位置はアメリカの核抑止力の琴線に触れてしまうため非常に微妙である。

 

 違う立場の人たちと戦線を組むのであるから、そこに大きな違いがあり、違いがあることを覚悟して経済や安保・外交の根本問題に取り組まねばならない。

 

 地方政治でも同じことが言える。

 地方で例えば市長候補や知事候補を共同で擁立する場合、その地域で問題になっているようなムダな大型開発に対して、現在の国政の立憲野党は必ずしも同じ態度が取れているわけではない。あるいは福祉・社会保障の切り捨てや地域施設の統廃合についても同様である。

 そのような場合に、「ムダな大型開発を推進している政党同士は連合すべきではない」というような態度をとるのかどうかが問題となる。

 常識的に考えれば組むことはできないだろう。

 しかし、例えば住民によって見直しの検討委員会のようなものが組織され、あるいは住民投票や住民討論会のようなものがかけられて、結論が出た場合はどうだろうか。

 仮に一定の見直しの後、修正して推進することで合意できるなら、それは一歩前進となるのではなかろうか。

 多様な見解が存在することを前提にし、多様な主体が話し合って決めるという、ミュンツェンベルクが「高く評価」した「西欧型民主主義」を実践し、統一戦線を単なる戦術と見ずに、住民自身が主体となって政治を決定していくための戦略だと考えるなら、仮に「ムダな大型開発」が止まらなかったとしても一定の改善として評価すべきであり、そこに統一戦線の基軸を見出していいはずである。

 ミュンツェンベルクの精神を生かすというのは、そのような「多様性の不快」を受け止め、違うもの同士の統一を戦略として受け入れる精神を持つことではなかろうかと思うのである。