中間団体はコミュニティの基礎単位なのか?


 田中秀臣さんがブログで拙著『“町内会”は義務なのか?』を紹介している。

紙屋高雪『“町内会”は義務ですか?〜コミュニティと自由の実践〜』 紙屋高雪『“町内会”は義務ですか?〜コミュニティと自由の実践〜』

 この中で注目してくれている中間団体の問題について少しふれておきたい。非常に重要な点に注目していただいた。


 町内会を考えるさいの中間団体というのは、簡単にいえば、町内会の連合体のことである。この問題を拙著ではかなり扱った。


 この連合体は、小学校区でひとつのまとまりを示している場合もあるし、小さな自治体では自治体規模でまとまっている場合もある。「校区連合会」とか「●●市自治会協議会」のような名前だったりする。また、町内会以外に老人会や婦人会などの地域団体がこの連合に入っていたりするが、それはここではおいておこう。


 この中間団体の民主的運営は、町内会が強制や義務、あるいは自治体の下請化する問題を考えるさいの一つのキモである。もちろんこれだけが問題なんじゃないけど。

校区の運動会にみる「強制」の論理

 校区で強制の論理が働くケースについて、拙著の中では行政の補助金によって引き起こされる問題について書いた。
 それ以外にも、わかりやすいところから言えば、たとえばこのような形である。
 校区で運動会を開く。各町内会から○○名を要員として参加させるようにせよ、ということになる。「学校の校庭を使って開催する運動会」 ということを取り決めると、一定規模以上の要員が必要になるので、「各町内から出せる分だけ(出せないところは出さなくてよい)」というわけにはいかなくなるのだ。


 20の町内会で構成される小学校区があるとして、そのうち8町内会しか参加したくないとすると、本来ならその8町内会だけで運動会はやるべきだろう。さらに「運動会には出たいけど、要員はしたくない」という人がいて、要員が10人しか集まらなかったとすると、「要員10人でできる規模の運動会」にスケールを落とすしかない。


 こうした規模縮小ができないのである。連合体である中間団体は、20町内会すべてに動員をかけ、あらかじめ決めた要員を必ず確保しようとする。
 この規模縮小を認めない論理は次のようなものだ。

  • 例年と違うのはおかしい。
  • 昨年よりも盛り上げたい。
  • 校区の一体感がない。
  • しょぼい。

 うん、10人の要員でやる運動会ってしょぼそうだもんね…。


 もちろん、これは同じように個別町内会→各世帯・個人に対しても働く強制の論理になるんだけど、個別町内会の場合は、仮に個人が町内会(幹部)に対して「やれません」「やりたくありません」と言えば、それは民主的な抗議の声となる。声をあげること自体が民主主義的なプロセスになる。


 ところが、中間団体が決めたイベントでは、動員される個人は中間団体に対して、個別町内会を隔てているので、遠い。動員を押しつけられた個人があげる抗議の声は、中間団体に直接あげることはできず、動員の指示を直接行っている個別町内会としては圧殺せざるを得ないのである。
 もちろん原理的には個人の抗議をうけて、個別町内会がそれを集約して連合体に対して、動員の仕方を変えるように注文をつけたり、最悪イベントへの参加をとりやめることもできるが、走り出した段階でこんなことをするのは現実的ではない。


 中間団体側には言い分もあろう。
「連合会の年間事業計画をつくるさいには、案をつくり、個別町内会の意見を聞いています。個別町内会がきちんとした民主的討論をして、意見をだしてほしい」
 まあ、これはぼくの勝手な妄想なので、実際に中間団体幹部がこのように言うかどうかはわからない。ぼくは実際に「参加したい町内会だけのイベントにしては」と言ったことがあるが、一蹴された。
 でも、仮にこの通りであったとしても、個別町内会がすべての連合体のイベントについて、細かい民主的討議を行うと想定することは現実的ではないと考える。一元的計画経済のもとで、計画の細部にわたってすべての国民が民主的討議を通じて決めると想定するのに似た非現実性がある。


 任意団体である町内会を民主的に運営することは非常に難しい。拙著の中で「ラスボスとしての偏屈じじい」(町内会に巣食うダメ幹部)の登場を書いたが、ああいうものは個別町内会でも登場を防ぐのは難しく、ましてやその連合体である町内会連合体ではさらに難しい。
 規約と民主的続きを定めればいいように思えるが、法制度のもとでの団体ではなく、あくまで任意団体なので、これをルール通り、民主的に十分に運営するには相当な労力が必要になる。
 ヘトヘトになってしまうか、うまくいかないか、どちらかだろう。

中間団体を純然たる窓口機関化せよ

 連合体である中間団体は、純然たる行政との連絡窓口となり、最小限度一致する問題だけで最小限度のイベントを行う「連絡協議会」化しなければならない。これは、中間団体を純事務的機関にしてしまうイメージだ。
 このようにならないのは、行政が連合体や中間団体のレベルを「コミュニティの基本単位」と位置づけてしまうからである。このような扱いによって、あたかも中間団体の単位が一つのコミュニティとして自立的な動きをする「生き物」になってしまう


 たとえば福岡市は、「コミュニティにおいて自治が行われている(地域コミュニティの自治の確立)」と記した、次のような現状認識の文書を出している。

地域の課題を解決し住みよいまちをつくるため、小学校区を基本的な単位として、自分たちの地域のことを話し合い、必要な活動を決定・実施している。〔強調は引用者〕

http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/44266/1/siryou.pdf


 このような考え方に賛同し、支持する中間団体幹部がいる。たとえば「第8回福岡市コミュニティ関連施策のあり方検討会」で、中間団体幹部であろうと思しき委員が次のように発言している。

町内単位で何ができるかといっても、高齢の方も多いし、住民からの協力もなかなか得られない。やはり、校区単位で協議しながら、自治会加入促進についても、多くの人間で手分けしてという方法がいいと思う。

http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/8953/1/gijiroku.pdf


 ここには、個別町内会では事業を支えられなくなったので、校区という単位が必要だという論理がある。


 こうした意識が「校区をコミュニティ単位=自立した生き物」として扱う基盤になっている。
 しかし、そもそも福岡市は人口が150万人でそこに校区の連合体は150ほどしかなく、1校区平均1万人を相手にしている。「1万人のコミュニティ」はもはや「顔の見える関係」にないと言わねばならない。こうした単位で自治をすることは、きわめて困難だ。


 そして、もう一つ、「高齢者ばかりになったから町内会の事業は支えられない」といった場合の「町内会の事業」とは何なのかと思う。おそらくここには、防犯、防災、交通安全、男女共同参画、環境、夏祭り、リサイクル、餅つき……といった事業が無数に並ぶのだろう。そこに町内会費の集金や総会成立実務が加わる。
 本当にそんなことをしなくてはいけないのだろうか。拙著で考えたのはまさにこの問題である。