渡辺雅之「日本教科書の危なさが突出し、全体が巧妙化する」ほか

 共産党の理論誌「前衛」2018年7月号は、中学校の道徳教科書の特集だった。夏には各自治体で採択がされる。


 3本の論文が載っていてどれも面白かった。
 日本教科書の道徳教科書を批判するという論点が3本とも共通している(ところで「日本教科書」って教科書会社名とはじめわからなくて、「学校でもし日本教科書の道徳教科書を使ったら」という論文タイトルが意味不明であった)。


 扶桑社の流れをくむ育鵬社の道徳教材をふんだんに使っているのが「日本教科書」という会社で、3人の論者はいずれも警戒を呼びかけている。


 佐藤広美東京家政学院大学)の論文の中で興味を引いたのは、日本が戦前植民地支配をしていた台湾での物語、土木技師・八田與一の教材についてである。
 佐藤は、胎中千鶴の『植民地台湾を語るということ 八田與一の「物語」を読み解く』から次の部分を引用している。

彼〔八田――引用者注〕を「真の国際人」として位置づけることよりも先に、まず、民族差別を嫌ったであろう八田が、それにもかかわらず植民地主義のシステムのなかで生きざるを得なかったこと自体にまなざしを向けるべきだ

 「植民地でいいことをやったんだから」というだけではすまない問題を端的にえぐっている。


 次の平井美津子(子どもと教科書大阪ネット21事務局長)の論文は、日本教科書の道徳教科書の教材を次々と斬っていく論法で、最初は「ちょっと乱暴じゃないのか」と面食らったのだが、読了してみると、日本教科書の道徳教科書の問題点が大ざっぱに俯瞰できるものになっていた。


 最後の渡辺雅之(大東文化大学)。
 今回ぼくが一番興味を持ったのはこの論文だった。
 ここには、日本教科書や他の道徳教科書の問題点なども書いてあるんだけど、「道徳教育はどう進めればいいのか」がコンパクトに書かれている。「道徳教育なんて必要ない」と機械的に否定するのではなく、権力の側からでなく国民の立場でどう進めるべきかを示しているのだ。
 もちろん、「(権力の側ではなく国民の立場では)道徳教育はどう進めればいいのか」という論点は、前々から教職員組合運動やそこに近い学者からも長年提起されてきたものであるが、コンパクトに改めて示されていることが大事だと思った。

全面主義

 一つは、全面主義。

その前提として、まず道徳教育は、基本的に全面主義を柱にすること――つまり学校の全教育活動の中で道徳教育を推進するという視点を持つことです。そして教科書の中身を杓子定規に全部やらないことが大事だと思います。(「前衛」前掲、p.138、強調は引用者=以下同じ)

 全面主義というのは、学校生活のあらゆる機会をとらえて臨機応変にやるのが本来の道徳教育であって、机の前にすわってテキストから徳目を教え込む、というやり方ではダメだということだ。
 例えば「ルールを守りましょう」ということは一見すると否定しがたい徳目である。
 渡辺が紹介している有名な「星野くんの二塁打」という教材などはまさにそれだろう(バントをしろという監督の指示に対してそれに従うというルールを破って星野くんはヒットをしてしまう。試合は勝ったが、ルールを破ったことを咎められる)。この教材を教科書で読んで「ルールを守ろう」という徳目を教え込まれる、ということは、

  1. 「はいはい、ルールを守ればいいんでしょ」という空虚なタテマエを生徒に植え付ける。
  2. ルールを絶対視するという態度を育んでしまう。

という2点において危惧がある。
 
 これを「チャイムがなったらすぐ席についてじっと待ちましょう」という教室に実際にあるルールを守れなかった場面をとらえて指導する、という局面が考えられる。学校生活の中で道徳を具体的に考えるのだ。
 このルールを守れないことを一方的に批判されるべきだろうか。
 「チャイムがなったらすぐ席につくことは果たして合理的であるか」という疑問がそこには含まれていなければならない。生徒が「チャイムがなってから数秒も許さずに着席を要求されるのは不合理だ。2〜3分くらい余裕があったほうがいい」とルールを批判し、その組み替えの要求し、実際に組み替えに参加する権利を持つことだってあるだろう。


 渡辺は、「教科書を教えるのではなく、教科書で教える」という言葉を引き合いに出して「そうした理念は文科省も否定していません」として、教材を取捨選択し、あるいは教材そのものを批判的に読むことを授業でやるべきだと勧める。

現場の教員が多忙化の中でそれをできるのかと問われることがあります。でも私はやはりそれはやらなければいけないと思うのです。そうでなければ、徳目押しつけの道徳教育になってしまうからです。やらされる道徳科から、子どもたちのリアルな生活実態をもとに、そして社会に開かれた道徳科に“転換できるチャンスがある”というのは言い過ぎでしょうか。(p.138-139)

適当に!

 そして、もう一つ、渡辺は道徳科への向き合い方で、教師に対して大事なことを示す。

最後に少し矛盾した言い方になりますが、もう一つあるのは、「『教科』ではないのだから適当に」という考え方です。本気になって、道徳科をやろうと思ったら、かなりの労力がいります。実際には道徳は教科と言っても、「特別な教科」であり、ちゃんとした「教科」ではない。裏づけとなる学問的な蓄積を背景としていない。だから、「そんなに本気にならなくていい、教材を読んで感想を交流するくらい」の授業があってもいいのかもしれません。批判的に扱ったり、発展させたりするのは王道ですが、王道だけで歩めるわけではありません。年間三五時間あるなかで、「今日はこの教材を批判的に扱ってみよう」「子どもたちの調べの学習につなげて発展させよう」というのが、年に三回、四回くらいあればいいというくらいのゆったりした構えも必要です。(「前衛」前掲p.144)

 年に3回くらい本気のものがあれば、いいんじゃね? と鷹揚に構える。「働き方改革」の実現が程遠い教員の実践としてリアルだし、役に立つ励ましだ。
 そして「あー、こんな愛国心ガチガチのもの教えなきゃいけないのかよ…はあ……ユウウツ……」みたいに悩む必要もない。
 批判的に扱えばいいのである。
 渡辺は前川喜平(前文部事務次官)の雑誌インタビューの次の部分を引用している。

「『国を愛する心』は教科書にも学習指導要領にも出てきますが、だったらそれを授業では批判的に扱えばいいわけです。『国を愛するという時の「国」ってなんだ?』とか『そもそも「愛する」ってどういうことだろうとか……それを自分で考え、みんなで議論することは決して悪いことじゃない。だって、『これからの道徳は考え、議論する道徳でなければならない』と、文科省が作ったマニュアル(学習指導要領)にちゃんと書いてあるんですから(笑)」(前衛」前掲p.144)

 こういう疑問↓を持つ向きにもちょうどいいわけですよ!

愛国心て結局なんなの


 愛国心は単純な郷土愛ではなく、ナショナリズムとともに生まれたものであり、「自由・平等・同胞愛(愛国心)」は一体のスローガンだった。下図は、『ゆげ塾の構造がわかる世界史』の一部であるが、そのことが簡潔に記されている。


*1

 このように問題を深めることで、愛国心はその歴史性を問われる。
 そうすることで「その教科の内容をまず第一に科学が決定するという他の教科で働く仕組みが機能しない」「道徳科では、まさに、国家がストレートに、第一義的にその内容を決定する」(佐貫浩)という問題点を組み替えることができる。


 自由・平等・同胞愛(愛国心)はフィクションだったけども、自由と平等を約束された中産階級の出現が民主主義の出発点だったとすれば、「おっしゃ、じゃあそんないい国だから、ぜひ守るぜ!」というファイトも湧いてくる。そこにはリアルな現実もある。『ゆげ塾の構造がわかる世界史』ではなぜナポレオンの軍隊が初めは強かったか、についてこのような説明をしている。
 しかし、格差と貧困がはびこる希望レスの国であれば守りたくもないし、関心もなくなるだろう。いまの政権のやり方を厳しく批判し、別の国のあり方を示すことが、まさに「愛国」の別の形だというバリエーションがいくつも生まれる。
 本当はそんな愛国心教育が必要なはずだ。
 日の丸や君が代を無理に歌わせて「さあ愛しなさい」という「愛国心教育」の狭さにクラクラする。

道徳性とは何か、めざすべき道徳教育とは

 渡辺は、道徳性とは何かを次のように規定する。

私は、そもそも道徳性とは、異なる他者と共に生きる術、であり、異なる他者と共に生きることを阻む力とたたかうこと――ととらえています。(前衛」前掲p.140)

 これは教育学者の佐貫浩が「道徳性とは、何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との根源的共同性の実現――共に生きるということ――という土台の上で、反省的に吟味し続ける力量であるということができる」*2をよりいっそうわかりやすく、端的にしたものであり、特に「異なる他者」としていることによって、問題が明瞭になっている(一般的な「共同性」では、例えばいじめられっ子をみんなで排除して成り立つ「共同性」もありうるからだ)。


 そして、そのような「異なる他者と共に生きる術」を考える場合、文科省流の道徳性は「ベクトルが個人の心にのみ向けられています」(p.140)ということを批判する。

本来、道徳性は社会の不正義や不合理に対しても向けられるべきなのです。(同前)

 先ほどのチャイム着席などはその一例だし、例えば「職場でノルマを達成せずにみんなの和を乱す会社員」という問題は、ノルマという任務・責任を果たさない会社員個人の心ではなく、「無茶なノルマをふっかけて、法定労働時間も守ろうとせずに押し付ける会社と社会に問題がある」というふうに組み替えられる可能性がある。

 渡辺はいう。

道徳性のベクトルは、「全ての人々が、人種、宗教、障害、性的嗜好に関係なく生まれた時から約束されている(バーニー・サンダース演説)」人権の実現に向けられるものであり、社会の公正・公平を毀損するものとたたかうことがその中には含まれている。それは社会(国家)の従属物として「わたし」ではなく、権利主体としての「わたし」が世界に登場することでもある。(前衛」前掲p.141)

 自分と違う人と生きていくために、個人の心遣いで実現できることもある。
 しかし、会社とか学校とかのルールを変えることや、社会のあり方を組み替えることも必要になるのは当然だ。
 ブラックな会社に入った時、そこでモノをいう術を身につけること、あるいは共同して変える術を見いだすこと(または、誰かに助けを求めてそこから抜け出す術を身につけること)――それが本当の、切実な道徳教育ではないか。

*1:ゆげ塾『ゆげ塾の構造がわかる世界史』飛鳥新社、p.108-109。こうした愛国心ナショナリズム論に対する批判があることもわかるが、オーソドックスな理解として出発点にはなる。

*2:佐貫浩『道徳性の教育をどう進めるか』、新日本出版社、2015年、p.51