熊代亨『「若者」をやめて「大人」を始める』

 
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか? これは俺のことが書いてある本じゃないのか? と思った。
 「若者」のやめどきを見失い、いつまでもオタクライフの「最前線」にいるようなつもりになって、そのステージから降りられず、とはいえ実態としてはとっくにそんな第一線からはおいてけぼりをくっている。しかも体がついていかず、仕事にも家庭にもオタクライフにも支障、つうか破滅してしまう。
 いや、ここまで劇的な破綻っぷりじゃない。
 だけど、20代から30代のころに続けてきたオタク生活がどうもうまく続けられない。ブログで書いたこともほとんど反応がない。つまり自分の体力ももう昔のように徹夜はできないし、「これが面白い」という感覚も若い人とズレてきているように思える…。
 本書は、こうした問題を、「あなたは若者から大人への移行をうまくできていないんじゃないか?」と諭しているのだ。俺のことじゃねーか。


 そういう移行は、結婚・子育てというライフイベント、そして職場では部下をもつようになる昇進によっておそらく果たされてきた。つまり「後進を育てる」という契機が外から与えられることになる(本書ではさらに地域社会での「子ども会」→「青年団」→「町内会」のような移行についても書いている。そのしくみは解体しているが)。
 簡単にいえば、その「後進の育成」に楽しみを見出せ、ということになるのだが、それは自分を大きく変えるような若者的成長をあきらめろ、という道でもある。
 加齢にともない自分が「何者かになる」=立場やアイデンティティを確立するという安定への志向(焦燥)と、同時にアイデンティティや立場を固定して成長できずに停滞することへのおそれというジレンマ、若者から大人への移行の危機をどう乗り切るのか、というのが本書のテーマでもある。
 その提要はなにか?
 本書は「変化できなくなった自分―フットワークの重い自分―流行に鈍感な自分―そういう未来の自分を、あなたは肯定的に捉えられますか?」(p.96)と覚悟をうながしたうえで次のように諭す。

全面的に「若者」的に生きていくのではなく、どうしても必要なところだけはアップデートして、それ以外の部分はいままでに確立したやりかたを変えずに生きたほうが楽で、なにより効率的です。(p.97)

 仕事や家庭ではこの生き方はあまり矛盾なく受け入れられる、というのがぼくの実感。
 問題は、これをオタクライフにどう適用するのか?
 本書ではいくつかの処方箋が用意されているが、その一つがこれだ。

いちばん簡単な方法は、自分が若かった頃に好きだったコンテンツや、その続編シリーズだけを追いかけていくことです。(p.194)

 当然この方針には疑問がつきまとう。これは新しいものを受け入れられなくなった、保守的で懐古趣味のおやじ・おばさんの成れの果てではないのか。それはオタクの死だ、ああはなりたくない、反面教師ではないのか、と。著者・熊代は次のように我々を諭す。

ですが、サブカルチャーを心底楽しんでいた青春時代が終わって、もっと他のことにも目を向けなければならない年頃になってからの落としどころとしては、いちばん無理がありませんし、そういった道を選んだからといって、人生の選択を誤っているとは私には思えません。むしろ、自分にとって本当に大切なコンテンツに的を絞ることで、最小の労力で自分の趣味の方面のアイデンティティをメンテナンスし続けられているとも言えます。(p.195)

 ぼくはこの語りに諭された。なるほど、と。
 もうちょい言えば、楽になった(少しだけだが)
 本書にはいくつもの仏教タームが登場するように、本書は煩悩や迷いに対してどう心の安定・平安を得るのかという、まるで仏教書のようである。前にも述べたように、仏教は人生のいろんな局面で起きる迷いや執着を達観し、悟りを開く精神コントロール術だと思うので、熊代の本書はいわば現代の仏典とも言える。仏教者は、本来このような悩みに応えるべきではなかろうか。


 ただ、熊代の語りに諭されたからといっても、熊代の結論に自分の行動を従わせるというふうには思わなかった。
 自分はもともとマンガを通じて社会や人生を語り合うという、関川夏央のような語りをめざしていたので、引き続き自分なりの語りを追求していけばいいんだろうと改めて思い直した。今のマンガがわからなくなっている、面白がれずにいる、という感情が生じてもそこに焦燥を感じる必要はない……と。
マンガの「超」リアリズム ついでに宣伝するけど(別の機会にまたいうけど)、今回本を出すことにしたが、そこでは自分のこのような原点に戻っての語りをしている。
 というわけで本書の圧巻は第7章であった。最も読み応えがある。

8章は納得いかぬ

 最後の8章は、人生全体にこの悟りを押し広げているのだが、ここはほとんど共感し得ない。正直に言えば「あいまいで何を言いたいかわからない」といったところだ。
 熊代は「良いことも悪いこともすべて自分の歴史になる」と述べた後で、

個人史も、数人単位の家族関係やコミュニティの歴史も、もっと大きな国や社会といった最大単位の歴史さえすべて繋がっていて、最終的には歴史の大河をかたちづくっています。良い行いも悪い行いもすべて有意味で、大きな歴史の一滴となって堆積していくのです。(p.220)

といっている。
 これはぼくが前に述べた、人生の意味ということに似ている。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20160609/1465400752


 しかし、確かに歴史は「良い行いも悪い行いもすべて有意味で、大きな歴史の一滴となって堆積していく」かもしれないが、そこに自分が貢献したという思いを込められるのは、歴史に進歩という物差しを導入しない限り、無理だろう。自分のやったことが、人類史の進歩に貢献したかどうかだ。それはマルクス主義者か進歩主義者であってのみ、可能なことだ。
 自分は反動に奉仕したのか、進歩に貢献したのか。そこが大事なところだ。
 まあ、でもそこはそれ。
 自分と年齢も近く、本業を持ちながらネットを通じて文章を書き、本も出している――という経歴が自分に似ていて興味深く読めた。そして、小さな気づきを得た本であった。