わー、不快な本だなー。胸くそ悪い・オブ・ザ・イヤーに決定。
冒頭に著者が
本書は、読む人にとっては不快な本である。
と断り書きしている通りだよ。
つれあいが新聞の書評欄か広告で見つけて、買ってきてぼくに読め読めと押しつけたものである。
ぼくはコミュニティや居場所を作り出すことは現代において社会運動の重要な機能であるとこの「紙屋研究所」でくり返しのべてきた。それは左翼運動にかかわる若い人たちとの交流の結果得たものだし、様々な読書体験を通じて得た結論でもあった。
ところが、本書では、「ピースボート」の乗船体験やそこでのアンケート・インタビューをもとにして、その結論を否定する。このサイトでいろいろ論じているような、あるいはぼくが読んできたような論者や運動関係者を俎上にあげ、批判し、サブタイトルにあるような「承認の共同体」というものは幻想なのだとして、社会運動への悲観を述べて終わるのだ(必ずしもそうではないという受け取り方もできるが)。
著者は1985年生まれの大学院生・古市憲寿である。慶応卒、東大院生の25歳ときて、そいつが高二病的軽妙軽薄の文体で綴っている様子をみれば、もうね。過去に出会ってきたこの種のスペックをもつ人間のいやらしい調子が頭に浮かんできて仕方ないでございますよ!
ピースボートに乗船する若者を、よくある4象限のマトリクスにして、「セカイ型」「文化祭型」「観光型」「自分探し型」の4類型に分けるという作業から始め、あんまり目的性がはっきりしていない、というか低学力的(明確な目的に対する明確な知識や技術の欠如)なところを揶揄しつつ、「(憲法)9条ダンス」といった、祈りや宗教的なものとして平和や環境の問題をとらえる茫漠さを批判し、その結果ピースボートが終われば目的性は雲散霧消し、ただのゆるい共同性だけが残っていくという身も蓋もない様を描いていく。
古市は、かつての学歴社会が若者が夢をあきらめ現実に順応していく冷却の機能を果たしていたように、現代では承認の共同体がそういう役割を果たしている、早い話が友だちとゆるくつながっていればそれでいいじゃん、という安住の存在を指摘する。最終章のタイトルは「だからあなたもあきらめて」である。
社会一般ではなく「若者が社会変革に立ち上がるうえでコミュニティとか居場所というものは有効なのか?」という問い
この本は、社会一般を論じているというよりも、「若者が社会変革に立ち上がるうえでコミュニティとか居場所というものは有効なのか?」という問いにたいする回答を書いている。だから、実は左翼周辺という狭いターゲットに向けられているものだといってもよい。こうしたことに問題意識さえない人たちには、何のことかわからないだろう(だから本書はそういう興味のない人たちに対しては「よくポスターを見かけるピースボートって何なの? 具体的に何やってるの?」ということのルポとして楽しめるようになっている)。
ピースボート観察に依拠しすぎ
この本の限界は、「ピースボート」の調査結果に依拠しすぎているということだろう。それを普遍化しすぎている。
もともとピースボートというのが「見る」ということで終わるものだし、ある意味で目的性がはっきりしない、まあ観光であれ世界平和であれどういう目的を持ち込んでいいものだから、目的性が薄いのは当たり前なのである。古市は「憲法9条の維持」という目的性があるんだと印象づけたいのだろうが、それを誓約・契約させるならいざしらず、そんなことはない。
そういうツアーに集まった人たちがその後も常に9条維持で結ばれていると考える方が不自然だろう。
そうなれば、「承認の共同体があればいつでも目的性は消失して、ゆるくてぬるい共同性だけが残る」なんていうことは普遍的には言えないはずだ。
あと、「若いんだから目的がぼやけていたり、そのための知識や技術が欠けていたりするのはしょうがないだろ」というのも言いたい。9条の穴埋めテストとかやって
正解できたのは122人中3人に過ぎなかった
とか嬉々として書いてんじゃねーよ、東大院生!
「近代的不幸/現代的不幸」という区分の限界
この本がピースボートをターゲットにして以上のような結論を導いてしまった落とし穴は、小熊英二の「近代的不幸」と「現代的不幸」という区分を補助線に使ってしまったことにあるだろう。
ぼくは小熊の『1968』で用いられたこの用法に批判を加えたが、戦争や飢餓といった「近代的不幸」が消滅し、成熟した社会で目標を見失う「現代的不幸」がかわりにやってくるという世界観は、近代的不幸が形を変えてワークしていることが見落とされる。
ぼくは、〈近代的不幸〉と〈現代的不幸〉は画然と分かれるものではないと考えている。というか、現代でも大きなベースでは近代がワークしており、近代への課題に対する運動ぬきに現代の課題への対応などありえないと思うからである。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/1968.html
本書に即していえば、共同性のぬるさに浸って「夢をあきらめて」いつまでもまったりできるのであれば、別にそれでいいではないか。本当に永遠にまったりし続けられるのならね。しかし本書が自らそういう共同性は永続しないと指摘もしているし、あるいは別の問題としてやはり本書で、
「寂しさ」という承認の問題は解決できたが、「貧しさ」の問題は手付かずのままだ
と言っているように、そのぬるさに浸っているだけでは解決しようもない経済的格差の現実がその共同性を破壊、というか洗い流していってしまう。
だから「あきらめさせる」ことなど、しようと思ってもできないのが現実である。
本書の最後に「解説、というか反論」を書いている本田由紀が次のように指摘しているのは的確だ。
私は古市君のように「でもそれでいいのだ」と言ってしまうことには違和感をもつ。その違和感の核にあるのは、古市君が何度か使っている、「お金がなくても仲間とそこそこ楽しく暮らしている」といった表現への疑念だ。そのような生活は、どれほど持続可能(サステイナブル)なものなのか? 実際にはなかなかシビアなのではないか。……上記の表現の中の「お金がなくても」という部分、つまり生活を支える物質的基盤ということだ。古市君自身が「帰国後の若者たちは、低賃金で不安定な労働に就いていることも多い」と書いているが、このように脆弱な基盤の上に載っている生活が、どれほどの時間的スパンで成立しうるのかについて、私は危惧を覚える。たとえば病気になったら、たとえば子どもができたら、たとえば「低賃金で不安定な」仕事すら失ったら、友だちとルームシェアして時々ホームパーティを開く生活は続けていけるのだろうか。
本書では首都圏青年ユニオンやNPO「もやい」も「コミュニティ」や「居場所」を主張するものとして同列気味に批判されている。
だが、この二つの団体は、その目的性とその達成手段の具体性において、ピースボートよりはるかに明瞭なものを持っているのではなかろうか。それはピースボートが低劣で、ユニオンやもやいが高尚というのではなく、目的性の違い、というにすぎない。
目的性の強化こそ解決のカギ――アソシエーション的コミュニティの可能性
目的性が明瞭であるユニオンやもやいは、古市の分け方でいえば、目的によって編成されるアソシエーション(結社)であることを基本としつつ、コミュニティとしての役割を持っている。
古市は「あきらめ」という結論の前に、ひょっとしたら共同体に開放性があればゆるくつながり続けられるかもしれない、という解決策を述べているが、そうではない。
無目的にいくら「開放」していったとしても、そんなものはたしかに古市のいうよに、やがて目的性を消失し、ただの緩い共同体に変質してしまうのだろう。
必要なのは「目的性」だ。結社の目的をたえず明瞭化することがそのコミュニティを持続し、強化する。
そんなのはオウムやカルト宗教を創りだすだけだという批判をするかもしれない。しかし、たとえば貧困という現実があれば目的は消えない。その現実が解消されるまではそのアソシエーション的コミュニティが強化されるのはむしろ必然といえる。ゴールを具体的に設定し、それにいたるまでの道筋をできるだけ明瞭にし、時々に課題を鮮明にできるのであれば、アソシエーション的コミュニティは大きくなっていくだろう。
労働組合のゴールを、まあたとえばだけど「貧困の一掃」に設定し、年収の基準などを定めるとしよう。そしてそのための方策を明らかにし、時々に「労基法違反はまず根絶する」などの目標を明らかにするのであれば、その労組は目的性を見失うことはない。そして必要とされる。現実がある限り、目的性は(究極的には)決して冷却されることはない。
では古市の問題提起は無意味なのだろうか。
目的性を見失いがちな運動への戒めとして
そうではない。
ぼくが本書を「不快」に思ったのは思い当たるフシがあるからだ。
ぼくがかかわった平和運動団体では若い人たちが「ピースやきいも」とか「平和盆踊り」とかやっている。ん?「9条ダンス」と似ている?
それはいい。
そういう祝祭的なことが目的とは区別されて存在するというのは普通のことだ。
しかし、あるときその平和運動団体で「戦争被害者の体験を聞き取る運動をやろうよ」と提起したとき、ある左翼を名乗る女性は「そういうのは暗くなるからイヤだ」と言ったのである。びっくりしてしまった。そしてその女性は「やきいも」や「バーベキュー」には積極的にかかわっていったのである。
ここではまさに古市の指摘する目的性の消失がおきている。
目的性が見失われて、無目的な共同性に「安住」するという傾向が起きている。
断っておくが、社会一般にそういう無目的な共同性をぼくは許さないと言っているわけではない。それどころか、そのようなコミュニティが無数に用意されていることは重要な機能だとさえ言いたい。それでどうにか生きていけるという人もいるのだから。
だが、最初にぼくが本書の目的意識を論じたさいに述べたように「若者が社会変革に立ち上がるうえでコミュニティとか居場所というものは有効なのか?」という問いを考えたとき、つまり社会運動のエピソードとして考えた場合には深刻な問題となるのだ。
「とりあえず署名」的運動への根源的批判として
単にそれは「楽しいことをやってはいけない」とか「そういう要素をあまり大きくしてはいけない」とかいう話ではない。
運動の目的というものが、切実さや具体性をもっていないときにいかにも容易にこうした「無目的共同性」に変質するという問題なのだ。
たとえば、古い世代にとって、署名を集めるということは自明な運動方法であるし、具体的で目標が明瞭な運動形態のように思える。
しかし、若い世代にとって、果たしてそれは自明のことだろうか。
自分自身がひどく困っているとか、あるいは具体的に困っている人がいて、その人を何とかするために具体的な援助が必要だというような明瞭さこそ運動にとっては大事な問題となる。
たとえば学費値下げの署名を集める、というのは確かに大事なことだが、就学そのものや就学継続が困難な家庭を具体的に援助する、というような実践を重ね、データを集め、交渉を重ねるなかで、政治や社会の変革という問題を痛切に感じるのではないか。ユニオンだって、自分自身や同じような若い人がブラック企業の無法に苦しめられていてそれを団交という具体的交渉で解決することを積み重ねながら法律の改正や政治の改革に次第に思いが及んでいくのではないか。
それなのに、古い世代からの運動スタイルをあまりにも安易に引き継いで「とりあえず署名」「とりあえずアンケート」的な「あまり本気でもなさそうな運動」では、たちまち底の浅さを見破られ、運動から去られるか、目的を消失した共同性へと変質してしまうとぼくは考える。