レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』

宮城で思い出した本書

 宮城県塩竈市多賀城市に被災地支援に行ったとき、ぼくのサイトの「ファン」だという人(まあまあそんなに騒ぐんじゃないよ君たち…)に会った。その人は保育園に子どもを通わせているので、地震津波が起きた当日がどんな様子だったかを詳しく聞くことができた。


 地震直後に職場にいた夫はただちに車で家に戻った。すぐ行動したので渋滞に巻き込まれずに済んだのだが、もし少しでもぐずぐずしていたらそこで津波に遭っていた危険は高かった(実際、彼が通りがかった地点は渋滞となり津波に巻き込まれた)。


 保育園にも津波が来たが、2階までは到達しなかった。
 家も被災したものの、どうにか住める状況。しかし、職場も地域も「仕事」どころではなく、1週間近くを「生活」だけ送ってしのいだ。水や電気や食料の確保に忙しかった。「遠くへ避難しようとか思わなかったんですか」と聞いたら、しばらく夫婦で考え込んだ後、「いや……その日その日をどう過ごすかってことに精いっぱいで、疎開するとかそういうことはまったく頭に浮かばなかったですねえ」とゆっくりと言った。
 保育園仲間や近隣の人たちが食べ物や役立つそうなものを交換しあう状況が続いたという。


 「精肉関係のところで働いている人が、『どうせ腐るから』ってハムを大量にくれたこともありました。ああいう空間ってもうなんか夢みたいでした。ユートピアというか」と言った。その言葉やエピソードを聞いて即座に思い浮かべたのは本書、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房、2010)だった。

 1906年のサンフランシスコ地震のときのエピソードが冒頭に綴られており、その中の一つの次のようなものがある。

 市の南東部の海岸地区にある大手食肉供給会社〈ミラー&ラックス〉の経営者チャールズ・レッディも、自らの気前の良さを語っている。彼によると「その朝、真っ先に頭に浮かんだのは、家を失った人びとにはまもなく肉が必要になるという考えだった。それですぐさま、肉を欲しがる人たちには誰でも必要なだけ与えて、金は取るなという命令を下した。黒人も白人も黄色人種も分け隔てなく扱えと。〔…中略…〕あらゆる部分を分け与えた結果、七日分の供給があった。地震が起きた日の午後五時に配達を始め……二社以外のすべての食肉供給会社が手持ちの肉を無料で差し出し、人びとが取るに任せた……倉庫を開放しなかった二社の肉は、すべて彼らのもとで腐ってしまった」


 肉を腐らせてしまうより無料で分け与える方が理にかなっている。けれども、できるだけ多くの避難民のニーズに応えられるよう、余分に人を雇い、配達のプランを立てるということまでしたミラー&ラックス社の行いは、ビジネス上の決断ではなく、利他的な行為だ。〔…中略…〕おそらく、その人たちが災害時に町を支援するのは、究極的には地元の顧客に頼る商売上の利益になるからだろうと主張する人たちもいるだろうが、そのような長期的な計算をしていた人は、ほとんど見受けられない。〔…中略…〕レッディ氏も一財産の食料を無料で分け与えた理由を説明する必要はない。ただ、彼らはそうしたのだ。(本書p.46〜47)

朝鮮人虐殺は民衆の仕業か

災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか 本書は、副題のとおり、大災害で都市や統治の機能がマヒしたとき「なぜ特別な共同体が立ち上がるのか」ということを問題意識として書かれたルポルータジュである。本書のオビには「5つのなぜ?」が記されている。


  • 災害時になぜ人々は無償の行為を行うのか
  • なぜ混乱の最中に人々は秩序立った動きができるのか
  • なぜ災害が起きるとエリートはパニックを起こすのか
  • 市民ではなく軍隊や警察官が犯罪行為を犯すのはなぜか
  • 地震のあとニカラグアで革命へと突き進んだのはなぜか

 本書は「ミレニアムの友情:サンフランシスコ地震」「ハリファックスからハリウッドへ」「カーニバルと革命――メキシコシティ地震」「変貌した都市:悲嘆と栄光のニューヨーク」「ニューオリンズ――コモングラウンドと殺人者」という5つの章からなり、それぞれ個別の大災害における人々と権力機構の行動、そのときの世論などを扱っている。
 先ほどのべた5つの疑問を解くものになっている。
 5つの疑問は、ぼくらの間には逆の形の質問や「偏見」として存在している。たとえば「大災害時に欠乏が覆うと、民衆は暴徒となって手がつけられなくなる」などといった形で。


 たとえば、関東大震災のときに、朝鮮人が大量に殺された事件などはどう扱われるのだろうか。本書ではこの事件をp.119で取り上げている。ソルニットは「群集は必ずしも無害な現象ではない」と書いてこの事例を紹介している。
 しかし、続けてこうも書いている。


だが、サンフランシスコでもそうだったが、関東大震災後の残忍な出来事は現状の破壊が目的ではなく、むしろ権威機関の結託による、もしくは直接彼らの手による現状を維持しようとする行為だった。(本書p.120)

 つまり、直接手をくだしたのは自警団のような人々だったが、その発端には警察や憲兵などの権力機関があったという見方である。


 民衆はむしろ整然とした自生的秩序をつくりだし、物資の分配や管理を驚くほどの力でやってのけ、支配階級(エリート)たちは、逆に既成秩序の崩壊(実際に崩壊しているのだが)、その根本的崩壊にいたることをひどく恐れ、野蛮きわまる管理と弾圧をおこなう、とされている。
 エリートたちが想定していた意味(暴徒化による暴力革命)とはまったく別に、社会的連帯の気持ちがわきあがり、それによって既成秩序の欺瞞を疑い、その後の「静かな」議会革命の序幕となってしまう例を、ソルニットはメキシコやニカラグアに見ている。

ニューオリンズの事例によって示したかったものは

 最後にあがっているニューオリンズの例は、2004年というごく最近の話であり、ハリケーンカトリーナ」の大水害をうけた地域で、「貧民や黒人が暴徒化したアナーキーな空間がつくられた」という宣伝がなされた問題をとりあげた。
 実際には恐るべき放置と抑圧をおこなったのは当局の方で、残された住民たちはむしろ立派な機構をつくりあげていた、という検証をおこない、「デマ」がどのように発生し、それがいかに無根拠なものであったかを明らかにしている。


 「災害のときに特別なユートピアが出現する」というふうに本書をまとめてしまえば、何だか同じような実例がくり返し載っているように思える(いや実際そういう部分は少なくなくて、やや辟易するのだが)。
 しかし、今述べたように、各章はそれぞれ違った役割を持っている。


 とくに第5章は、もともとニューオリンズのような地域には自然発生的な共同体秩序が存在していることを強調している。これは本書にとって特別な意味をもっているのだといえる。
 なぜ災害時にユートピアが立ち上がり、支配者はそれを恐れるかという問いを貫いているのは、本書に頻繁に登場するピョートル・クロポトキンの社会観に拠っているいるところが大きいとぼくは思う。


 まったくの偶然であったが、ぼくは最近マンガ『ワンピース』のことを調べるつもりでクロポトキンの『相互扶助論』を読んだ。


クロポトキン『相互扶助論』、平居謙『「ワンピース」に生きる力を学ぼう!』 - 紙屋研究所 クロポトキン『相互扶助論』、平居謙『「ワンピース」に生きる力を学ぼう!』 - 紙屋研究所


 ところが、ソルニットの本書の中にこのクロポトキンが出てくるではないか!と思ってびっくりしてしまった。なんたる偶然。


新版 相互扶助論 上記の記事でも紹介したように、クロポトキンは、人間には「愛」とかそんなレベルの話ではなくて、すでに本能ともいえるものとして「相互扶助」を行う性質がともなっているのだ、ということを動物観察から人間の原初の歴史にさかのぼって詳しく論じている。
 そのような人間的な紐帯が、国家が出現することによって失われたり、見えなくなったりしている、とクロポトキンは主張する。国家が社会を抑圧しているのだ。だからこそ国家を廃絶することによって、社会はその本来の機能である相互扶助の力やエネルギーを蘇らせる、という考え方だ。


 ソルニットは、このクロポトキンの考えにあからさまな支持は表明していないものの、本書の随所で紹介している。
 つまり、このような本性を人間が持っているからこそ、国家機構が崩壊する大災害時にはこのような相互扶助の精神がよみがえるのだ、というわけである
 ニューオリンズの例は、そのような相互扶助の共同体が、災害時に現れるだけでなく、日常普段にぼくたちの生活の中に存在し、機能していることを示している、とソルニットは言いたいのだろう。ソルニットは、ニューオリンズから無機質な他都市に強制的に移住した人々がニューオリンズを懐古するように、現代の大都市ではこのような絆が失われていることと対比させている。

『相互扶助論』的な見方への疑問

 ぼくは上記の記事のなかでものべたのだが、このような見方は半分は正しいと思うが、半分は「欲望」、つまり「そうであったらいいなあ」というファンタジーであろうと感じている。


 ソルニットはそのことをある程度自覚している。本書の中でプラグマティズムの始祖である哲学者・ジェームズの『宗教的経験の諸相』という本の、


「現代の多くの社会主義者アナキストが耽溺する社会的正義というユートピア主義の夢は、非実用的で、現実の環境条件に順応しないにもかかわらず、聖人が実在を信じる国に似ている。それらは厳しい一般的な状況を打破するのを助け、よりより体制をゆっくりと育む」 


という一節を引いて次のように述べている。


完全なユートピアの実現は不可能でも、それを実現しようとする努力が、やはり世界をよりよくすると彼は説く。信じている内容は正しくないかもしれないが、それは有益だ。考えが世界をつくるのだからと。(本書p.82)


 よく「そんなのユートピアだよ、実現しっこないよ」と言って社会活動家を非難したり揶揄したりすることがあるが、これは一種の開き直りである。たとえ実現しないものであっても、公正な社会のために力をつくすことは社会をよりよいものにしていく、というわけである。


 ぼくはマルキストであるから、自分がめざす共産主義社会は社会法則の必然として訪れるであろうし、訪れつつあるということを信じている。
 しかし、仮にそれが「夢」にすぎなかったとしても、それへ向けてのぼくたちの運動の積み重ねの一つひとつは、必ず社会をよりよいものにするために貢献している。ある無党派の映画監督から、


「ぼくの地域にも共産主義者の方がたくさんいましたよ。そういうコミュニストの方々の努力でぼくたちの地域にもいっぱい保育園や学童保育ができましたもんね」


と言われたとき、ぼくはハッとしたことがある。本当に社会の隅々でおこなわれていた努力が今日の社会保障憲法生存権の豊富化をおこなっているのであり、それをコミュニストが先頭にたって担ってきたのだなあと。


 さて、そこまで本書の立場を認めながらも、やはり人々の中にアナキズム的な社会観――人々のなかに相互扶助の精神が息づいている――をナイーブに信じるわけにはいかないものがある。


国民の社会的連帯を求める変化は何によって生じているか

 最近、共産党志位和夫が「3.11以後、国民の意識に変化が起きている」ということを語った。

日本共産党創立89周年記念講演会/危機をのりこえて新しい日本を/志位委員長の記念講演 日本共産党創立89周年記念講演会/危機をのりこえて新しい日本を/志位委員長の記念講演


 このなかで、志位は、「『自己責任』論を国民的にのりこえ、社会的連帯を求める変化が」として、被災地だけでなく、国民全体に大きな意識変化が起きていることを、結婚観にまでふれて指摘している。

 大震災は、国民の意識にどういう変化をつくっているでしょうか。


 NHKの「あさイチ」という番組が、5月30日、「震災で変わった! オンナの生き方」という特集を放映しました。番組では、「東日本大震災の後、被災した人だけではなく、日本中の女性たちの生き方や価値観に変化が生まれています」として、つぎのような取材結果を明らかにしました。


 「変わる結婚観」――「被災地から遠く離れた大阪でも、震災の後、結婚相談所に入会希望する人が殺到。……ある30代の女性は、『震災前は、守られたいという意識が強く、結婚してラクになりたいという気持ちがあった。だけど、被災地の人たちの、相手の身を第一に考えて行動する姿を見て、守られるだけではなく、守れるようになりたいと思った』と話していました」

 
「気持ちの変化〜人のために何かしたい」――「初めてボランティアに参加したという、ある女性を取材しました。小さな頃から引っ込み思案だったという彼女は、……被災地の現実を知ったことで『何かしたい、逃げちゃいけない』と奮いたちました。仲間と協力して、被災地にドライアイスを送る活動に参加。『前だったら、どうせダメだろうという気持ちでやる前から消極的になっていたと思います。でも参加してみて、あきらめるよりやってみようという気持ちになりました』と話していました」


 「『ご近所づきあい』が楽しく」――「千葉県浦安市の今川地区。ここに7年前から暮らすある女性は、それまで何となく避けてきたご近所づきあいのイメージが、震災で一変したと言います。幼い子どもを持つ彼女は、震災の日、隣の家に住む年配の女性に親子ともども助けてもらうという出来事を経験しました。それ以来、子どもの安全を守るには、住民同士の助け合いが大切だと感じ、自治会活動にボランティアで参加します。すると、それまで見えていなかった隣近所の人たちの素顔が少しずつ見えてくるようになり、ご近所づきあいを見直すきっかけになったのです」


 こういう報道であります。一つひとつは小さいし、あらわれ方もさまざまですけれども、私は、ここには大切な変化があると思います。そこに共通しているのは、「人と人の絆を大切にしたい」という思いです。同じような変化は、みなさんの身近にも感じられるのではないでしょうか。


 多くの国民は、これまで「自己責任」論をおしつけられて、ばらばらにされてきました。ところが、津波で、家族も、家も、街も失った、東北地方の人たちを目のあたりにして、1人では何もできない、みんなで力をあわせることこそ人間社会の本来のあり方ではないか。こういう思いが広がっているのではないでしょうか。多くの国民が救援募金をよせ、ボランティアにとりくんでいます。いま、「自己責任」論を国民的にのりこえ、温かい社会的連帯を求める大きな変化が、生まれているのではないでしょうか。(拍手)

http://b.hatena.ne.jp/entry/image/http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-08-03/2011080307_01_0.html


 3.11以後に、社会的連帯の機運が広がっているのは、クロポトキン的な「本来の人間の本能」というよりも、90年代後半以来、新自由主義の攻撃のなかでバラバラにされてきた人々が、小さい、身近な、中間的な(あるいは現実的にすぐ役に立ち実感しうる規模の)紐帯や共同体的な絆を求めようとしていることに由来している、とぼくは考える。


 すなわち、震災前から広がっていたムードが、震災を受けて加速したということができる。


 したがって、本書を読む態度として、ぼくは、これを「人間の本能」のようなことから理解するむきには全面的には同意できない。魅力的な本ではあるが、具体的な歴史状況を抜きにした超歴史的なユートピア解釈は、問題を見誤る危険をおかすことになる。

 だが、以前のエントリでも書いたように、小さい、身近な、中間的な(あるいは現実的にすぐ役に立ち実感しうる規模の)紐帯や共同体的な絆を自覚的につくりだすことに、左翼はもっと注目があってもよい。その意味で本書は有効なものである。
 今述べたように、それは被災地だけの問題ではなく、日本全体が抱えつつあった問題を先鋭化したものとして受けとめるべきで、「被災地が大変だから支援にいく」というのは、左翼がこの事態を受けとめるうえでは問題を半分も理解していないことになる。

余談:左翼と組織

 余談であるが、左翼組織はこのような社会の変化をうけて、組織のあり方を変化させなければならないだろう。もともと史的唯物論の立場で組織論を組み立てるのがマルクス主義者の任務のはずで、社会という「自然」の法則にたいして、組織という「機械」をどう組み立てるかという「技術」論が必要になる。なのに、社会の変化をうけてどう組織が変わらざるをえないか、どこに発展の芽があるのかを考えずに、平板で抽象的な組織拡大を訴えているだけの左翼組織体があるとすれば、それはマルクス主義の貧困というほかない。滝や太陽の光をみてエネルギーがあることは知っていても、そこからどうやったら電力を汲み取れるのかを技術として高めなければエネルギーは取り出せない。

 

「3.11以後の国民の変化」という議論についていくつか


 3.11以後の国民意識の大きな変化という意味では、「3.11以後のオタク(表現)」という議論がある。

Togetter - 「竹熊健太郎氏( @kentaro666 )の語る、3.11以後のオタク的な表現」 Togetter - 「竹熊健太郎氏( @kentaro666 )の語る、3.11以後のオタク的な表現」


 ぼくは、3.11で日本社会がこうむったもののオタク表現への影響はこれからやってくるのであって、それを今論じることはなかなか難しいと考えている。


 ただし、すでに3.11が起きる前から、「日本社会のダウンサイジング」という議論は起きていた。


 これからは高度成長のような右肩上がりはもちろん、成長そのものも望むのは難しく、経済大国ではなく、規模を縮小したうえで、そこそこを生きて、場合によっては「下り坂」をうまく生きなければならないという議論である。


 ちきりん『ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法』(イースト・プレス)での、日本はイタリアのような国をめざすべきだ、という主張や、島田裕巳小幡績『下り坂社会を生きる』(宝島社新書)でのダウンサイジングをうまくやりながら生きながらえる方法を考案せよといった提案が、それだ。
 NHKの「クローズアップ現代」がレイチェル・ボッツマン『シェア 〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』(NHK出版)のテーマをとりあげたのも、このような空気と関連してる。新しい富の大量生産ではなく、すでにあるものを誰かと共有しながら大事に使うという風潮だ。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3064

 これは(経済)成長至上主義への批判を含んでいるが、それだけでなく、生き方や社会制度の改革や再編をせまる議論となっている。3.11はこの志向を加速し先鋭化させていくだろう。

 この変化は、経済成長をすべてに優先させる政治・経済のスタイルへの批判を生むとともに、それを批判する社会運動自体が、高度成長期の姿のままではなく、「ダウンサイジング」のようなものを考えなければならないということも含むだろう。

 ただ、いずれにせよ、こうしたものはすべて端緒であり、3.11以後、国民の意識や社会がどう変わっていくのかはまだまだ十分に論じることはできない。