編集・DTP・校正・装幀についてのエッセイ。出版や書籍の将来についても書いている。
ぼくはイラストレーターというソフトでチラシを作って業者に入稿することがある。レイアウトとか使う書体とか字間とかそういうデザイン的な要素は完全にシロウト仕事である。たぶん、プロから見るとめちゃくちゃな作法でやっていると思う。だが、「早く、安く」を至上命題にしているので、やむをえない。別に製作者の署名も入らねえし。
だから、本書で示されているようなプロの思いは、耳が痛い。「そこにプロは目がいくんスか…」みたいな。
例えば「自己顕示しない書体」(p.42)。
チラシの本文を適当な明朝体で埋めてしまうのが、シロウトというものである。ぼくなどは惰性でだいたい「ヒラギノ明朝 Pro」の「W3」あたりをアウトラインかけて入稿する始末である。
自己顕示しない書体こそ、求める書体といえるかもしれない。一方で、読みすすめるのがやっかいな版面もあるのだ。文字の集まりが汚いとかきれい以前に、内容がさっぱり頭に入ってこない、あるいは読みすすめるのが苦痛になる紙面にならないよう注意したい。書体、字間、行間、文字ヅメ、行ドリ、余白など、さまざまな要素でなりたつ版面。それは、紙面という風景のなかで、読み手の意識をどんどん前にすすめてゆく地平を提供しているのだ。(p.42)
これは書籍の話だが、チラシはどうだろうか。
チラシは版面全体が送り手の文化圏を表す。
ダサい版面には、ダサい文化圏からの発信になるので、「あ、自分と違う文化だな」と思うと受け取ってくれなかったり、共感度が下がったりする。
サヨクであるぼくは、高齢者とごいっしょに政治チラシを作ったりするのだが、高齢者左翼のみなさんがワードなどで作ってくるチラシは、「手作りミニコミ風」「絵手紙風」を究極の地位に置いているような感じがある。和気藹々と地元のほっこりニュースを入れたりして、それにふさわしい版面になる。たいてい書体は何も考えずに「MS明朝」である。
うーん、いいんだけどね。それが味として受け取られている層は確実にある。
だけどそのまま、若い人・子育て層向けのチラシもこれで作ろうとしたりするので、圧倒的な違和感が生じてしまう。受け取った子育て層は、「ああ、自分とは別の文化圏の人が何か言っているな」的な受け取りをしてしまうのである。
その場合、書体は主張してくれた方がいい。若い人向けの書体ということだ。
それに自信がない場合は、やはりここの著者(和田)の言うように「自己顕示しない書体」として存在感を「消して」もらうしかない。
個人的に「そうだったのか」と教えられる知識もいっぱいあった。
例えば画像をどの形式で入稿したらいいかとかいう話。TIFFなんだそうである。大昔、まだページメーカーというソフトを使っていた頃、TIFFでよく入稿していたが、今はもう全てJPEGである。「JPEGは劣化する」と昔誰かが言っていたのだが、ここでも同じこと(「JPEGは、圧縮のときはもちろん、開いて保存するたびに劣化しちゃいますからね」と和田の対談相手、尼ヶ崎和彦が述べている)が書いてあった。そうなのか。
あと、誤字。本書p.184-185の表は、かなり誤用の方を使っていた。あるいは「そう言われれば」という感じですぐには気づかなかったりした。「それにも関わらず」「豪雨の恐れ」「胸踊る」「出席者に配布する」「先立つ不幸」「指を食わえる」「彼は口先三寸だ」などである。
エッセイなので、縦横無尽に話が広がる。
著者の「畏友」・渡辺順太郎と著者が山道を一緒に登った時、渡辺が「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ、というからな」と発言していたことを本書で紹介している。
その言葉の意味がすぐに気になった。
そして、その真意はすぐ後に著者・和田が『臨済録』の解説書の中に次のようにあるのを紹介していた。
達磨の墓塔を訪れたとき、臨済は「仏も祖も倶に礼せず」と断言していた。だが、それは、「仏」や「祖」という外在的な権威を認めない、というだけのことではない。
ぼくはすぐ「外在的な権威を認めない」という意味なのかなと思ったので、それ「だけ」のことではない、という箇所にさらに惹かれた。こう続く。
もし、それを敷衍して、自らの内なる仏祖を信ぜよ、などと説いたならば、臨済から直ちに一喝されること必定である。外のみならず、自らの内にもそうした聖なる価値を定立しない。それが臨済の立場だからである――
この2箇所の引用はいずれも小川隆『臨済録――禅の語録のことばと思想』岩波書店、2010年、p.147、21からである。
和田はここで編集者と著作者との関係について話を移していくのだが、ぼくはこのくだりを、仏教(とりわけ臨済)というものの無神論ぶりに驚く材料として読んだ。何事にも固執しない自由な精神によって妄執から逃れるのであるとすれば、それを自分の中の「神」や「仏」を定立させることに頼らずに、精神のコントロールによって実現しようとしているように思えたからである。これはすごいことではなかろうか。
ゆえに「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ」ということを仏教のことばとして考えると凄みあると思ったのである。
こういう自在なところも、随想としての本書の面目躍如だろう。