ぼくが最初に読んだ『資本論』は岡崎訳
ぼくが最初に『資本論』に接し、そして第3部まで初めて読み通したのは、大月書店の全集版である。大学の入学時に買い、卒業直後に読み終えた。
この全集版の扉には「マルクス=エンゲルス全集刊行委員会」の「訳」と記され、奥付には「大内兵衛・細川嘉六」が「監訳」とされている。
しかし中を開いてよく見ると「凡例」とされた注記に
翻訳は岡崎次郎が担当
と小さく書かれている。
ぼくの『資本論』初体験は岡崎次郎の翻訳だったのだ。「岡崎次郎」の箇所にはぼくが鉛筆で線を引いている。確か翻訳についてサークルで先輩に聞き、引いたのだったと思うが、大学1年生にはあまり関心のないことだった。
岡崎の名前が訳者として大書されるのは、これを文庫用に直した大月書店の国民文庫版『資本論』である。
呉が紹介した岡崎像
ぼくは岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』(青土社)を呉智英の『マンガ狂につける薬 下学上達篇』(メディアファクトリー)で初めて知った。呉によって、岡崎次郎が岩波版『資本論』の翻訳を実際にやりながら、その訳者としての肩書、翻訳料を向坂逸郎に持っていかれてしまった話として紹介されている。
岡崎次郎は、この本〔『マルクスに凭れて六十年』〕を刊行すると、身辺を整理する。子供がなかった岡崎は老妻に、自分とともに西へ旅立ってくれるか、と問うた。妻は夫の心境を察し、何も聞かず涙を浮かべてうなずいた。
それから約一ヶ月間、夫妻の足取りは、文字通り西日本の観光地の何ヶ所かに確認されている。そして、以後、消息不明となる。(呉前掲p.16-17)
これだけ見ると、岡崎は恨みに満ちた気持ちでこの本を上梓し、その後自殺の旅に出た……というふうに読める。
さらに呉の本を2007年に読んだ後、読売新聞(2013年10月12日付)で特別編集委員の橋本五郎が岡崎の死についてより具体的に書いた文章を読んでますますそう思った。
しばしば岩波版『資本論』翻訳の名義・翻訳料の向坂逸郎による「搾取」と、「西への旅」=自殺旅行の話がセットで語られる。
だから、ぼくも“向坂に騙されたうらみつらみを負のエネルギー満載で書いて、悔しさで悶死せんがばかりに血の涙を流しながら死んでいったんだろうなあ”……などと勝手に想像していた。
ところが、読んでみるとまったく印象が違う。
「自嘲生涯記」というサブタイトルのとおり、まさに「自嘲」。人を食ったような文体。むしろ明るい、しかしニヒルさがただよい、乾いた笑いを誘う。
まあ、よく呉の紹介を読めば次のように書いてあるんだけどね。
しかし、読みどころは、さまざまなエピソードより、副題に「自嘲生涯記」とあるように、内省をユーモラスに語る人生観にある。(呉p.15)
書名がそもそも面白いではないか。『マルクスに凭れて六十年』。人を喰ったタイトルである。岡崎は、自分はマルクス主義者ではないと言う。マルクス主義には実践が伴わなければならない。しかし、自分は意志薄弱、実務能力も行動力も欠如している。本来なら身を持ち崩してろくな人生を歩まないところだったけれど、たまたまマルクスに出会い、なんとかまともな人間として生きてこられたし、翻訳者・研究者として口に糊することもできた。八十年の生涯をふり返ってみれば、青年期以後は、マルクスに凭れて送った六十年だった、という回顧である。
私は、岡崎次郎以外にマルクスを語った人間を知らない。(呉同前)
自分の中の岡崎イメージを壊す
本書を実際に読んでみて、自分の中の岡崎のイメージが壊れた。
特に、向坂との関係は印象が変わった。
よく取り上げられる向坂との翻訳でもめた話にしても、訳者名が向坂になっていて岡崎が驚いたのは1948年だし、そのもめるやりとりをしたのは1950年ごろなのである。しかも、その時のやりとりが岡崎の筆で書かれているのだが、向坂が「交替訳」にしようという最初の約束を違えて、向坂は「上」(翻訳)、岡崎は「下」(下訳)だ、という規定をしたことについて例えば次のように書いている。
ここで私が、自分では下訳をやっていたとは思っていない、そういうことなら話はこれまで、とさよならすれば、恰好もついたのだが、なんたる情けないこと、私はこのえげつない言い草をそのまま呑んでしまったのだ。(岡崎本書p.195)
ぼくは、本書を読むまで向坂と岡崎は師弟関係、少なくとも厳しい上下関係にあって、向坂の言い分に逆らえなかった……というパワハラ状態だったのかと思っていた。
ところが、そもそも向坂と岡崎は独立人同士で、全く師弟ではなかった(多少マウントの上下はあったにせよ)。もちろん「自嘲」なのだから、表面的な文章をまともに信じてはいけないかもしれないのだが。
ただ、それから20年後に、国民文庫版が岡崎次郎名で出るにあたって、再び激しくやりとりするまでは向坂と親しく交わり続けた。結局向坂の圧力で岩波版の印税半分は放棄したけども国民文庫版は岡崎の名前で出している。
岡崎の話が事実とすれば、向坂の態度は褒められたものではないのだが、岡崎にはテーブルをひっくり返すチャンスはいくらでもあったものをあえてそれをせず、向坂と付き合いを続けてきた。ということは、やっぱりこの件で向坂を死ぬほど憎んでいる、というタイプのエピソードではなく、岡崎にとっては納得づくの話、「そんなこともありました」という程度の話なのではないのか。
もちろん、呉も向坂から欺かれたことを岡崎は恨んで死んだとか、そんなことは言っていない。だから、今書いたことは、ぼくの中にあった誤解(岡崎が岩波版『資本論』に名前を残せず原稿料も途中から受け取れなくなったことと、岡崎の自殺旅行はセットの話題である)がなくなった、というだけのことに過ぎない。
なぜ岡崎は最後に自殺旅行を選んだのか
ではなぜ岡崎は最後に自殺旅行を選んだのか?
その理由は、本書の最終章にあたる「マルクスとの別れ」に書いてある。
岡崎がいうには、マルクス主義をめぐる複雑な情勢について触れた後で、マルクスを「怪物」と称して、次のように書いた。
老いてますます根気のなくなった私は、この思想と行動とにおいて無類に頑強な怪物とこれ以上取り組むことを諦めたのである。完全な敗北である。(岡崎p.368-369)
マルクスと別れた私にはもはやなにもすることがない。したいこともない。いや、できることがない、と言うほうがいいかもしれない。(同p.369)
さらに岡崎は自分に自治体から贈られる敬老金・敬老品的な「老齢福祉」を嘲笑した上で、
いま私にとって問題なのは、いかにして生きるかではなく、いかにしてうまく死ぬかである。(同p.370)
と書く。呉はこれをとらえて
自分は主義に殉じるような男ではないと言っていた岡崎次郎だけが、日本中で唯一人マルクス主義に殉じたのである。(呉p.16)
と述べた。
岡崎の死は「マルクス主義に殉じた」ものなのか。
岡崎の死は、ゴルバチョフ登場以後であるが、ソ連・東欧の激変の前ではある。「プロレタリアートの独裁」と「暴力革命」をマルクス主義の根幹だとみなす信条を岡崎は本書で書いている。他方で、資本主義における改良的な変化をもって「マルクス主義の破綻」であると決めつける議論には反論をしている。
こうしたことから想像するに、80年代に入って岡崎が想定していたような事態での革命や共産主義が考えられなくなり、岡崎はそうした事態の分析をマルクスと格闘して引き出す気力もなくなり、さりとて十年一日の黄ばんだノートで教条的な「マルクス主義」を教えたりふりまいたりするつもりもなく、それならばいっそ死んだ方がいい――そんなふうに思ったのでははないか。
マルクスを使って生計を立ててきた。
しかし、それはマルクスによって世界を説明できるという確信をもとに立ててきた生計であって、もはや自分にとって説明さえできなくなったものに「凭れて」まで生きていこうとは思わない。
そういうことではないのか。
ある種の知的誠実をそこに見る。
その知的誠実ゆえに岡崎は自裁したのではあるまいか。
その意味では「マルクス主義に殉じた」といえなくもない。
しかし、他のマルクス主義者は、ある者はソ連の崩壊とともにマルクス主義を放棄し、ある者はマルクスに立ち戻ってソ連・東欧で広められてきた「マルクス・レーニン主義」を乗り越えていこうとしたし、ある者はソ連をマルクス主義の中にあった誤りとみなしてそれも含めてマルクス主義を変えようとした。
つまりマルクス主義がまだ死んでいない(と思える)以上、マルクス主義に「殉じる」必要は必ずしもないのである。その意味において呉の「岡崎次郎だけが、日本中で唯一人マルクス主義に殉じた」は間違いなのだ。
俺もこんな職場に勤めたい!
さて、自殺だの主義に殉じるだの、暗くて思いつめた言葉ばかり並べてしまったが、何度もいうように、本書は全体としては陽気な本である。ただ、死を見つめたようなニヒリズムが通底していてどこか乾いた感じがあることは否定できないのだが。
どこも「スーダラ節」のようないい加減さが充満している。
例えばぼくが気に入っているのは、戦前、岡崎が満鉄調査部に配属されたときの、職場のだらしなさである。時は「昭和十六年」。1941年である。つまり日中戦争はすでに深刻な段階に入っているし、日米開戦も近い。そんな時期の中国大陸なのに、本当にいい加減なのだ。
尾崎秀実は第三調査室を掃き溜めだと言ったが、大連ではこの部付の室こそ真の掃き溜めだった。中国流の誇大な言い方をすれば、まさに食客三千人の観があった。碁盤が二つ置いてあって、私は出勤するとその前に腰を下ろした。とっかえひっかえ相手がやってきて、昼食抜きで例の賭け碁を戦わせた。退勤時刻になると、正業に就いているだれかから電話がかかってきて、一緒に出かけた。あるとき幹部の一人に、部付とはなんという社費の無駄使いか、とあからさまに言ったら、遊んでいるように見えてもいざというときに役に立つのだ、という答えが返ってきた。(岡崎p.150)
この部付生活は非常に気に入った。凡庸な上役の下で意に沿わない仕事を好い加減に格好をつけてやる必要もなく堂々とぶらぶら勤めていればよいのだからである。いざ鎌倉というときには逃げ出してしまえばいい。……たまたま珍しく家にも外にも遊び相手がいないときには、寸暇を盗んでゾンバルトの翻訳をやっていたら、だんだん塵も積もってきたが、なかなか山にはならなかった。(同p.151)
暇をこいていて、自分の趣味・副業に没頭できるというのである。
うむ、理想的な職場環境だな、と思わずにはいられなかった。
この自伝は大半がこんな調子でまことに読んでいて飽きない。
マルクスの翻訳者であり研究者なのだからもっとマルクスについて語ってもよさそうなのに、そういうくだりは実に少ないのだ。
その少ない部分の一つであるが、大月版の『資本論』訳について書いた箇所がある。福井孝治という学者(大阪市立大学学長)に自分の翻訳のチェックを頼んだときに、かなり「こまごまと書き入れて送ってきた」(p.295)というのでありがたかったらしいのだが、福井の意見にしたがって後悔したことの一つとして「商品の物神的性格」というのを「商品の呪物的性格」と翻訳してしまったことをあげていた。
これは、確かにぼくも学生時代に読んで非常に違和感を覚えた箇所で、翻訳の訳語に引っ掛かりを感じた最初の鮮烈な体験となった。
この本は読んでいて別れがたい魅力があった。読み終わる頃「ああ、もう終わってしまうのか」という名残がつきなかった。飾らずに本当のことを語っている、という真実味があるのだ。
この本を図書館で探しているときに、向坂逸郎の伝記が新刊として紹介されていた。
ぜひ比較して読んでみようと思う。