吉田裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』

日本兵犠牲者は戦争末期の1944年以降の1年間に9割

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書) 『日本軍兵士』というタイトルだけ聞くと、あるいはサブタイトルの「アジア・太平洋戦争の現実」までを聞いても「ふーん…」としか思えない。
 この本にどこに新味があるのか。
 メインタイトルで損をしていると思うが、この本は3つの問題意識で書かれている。

  1. 軍事史としての戦争史の再点検(戦争体験世代の研究者はあまり関心を持たず、しばらく防衛庁防衛研修所の独壇場だった)。
  2. 兵士の目線での日本軍兵士への身体などへの負荷。
  3. 兵士に負荷をかけた根源としての旧軍の特性(思想・体質・構造)

である。
 とりわけ2点目の「兵士の目線での兵士への身体などへの負荷」という点は、専門家にはすでに知られたことであるかもしれないが、シロウトであるぼくには新鮮な事実がいくつもあった。


 この本の起点となっているのは、アジア・太平洋戦争における310万人という日本国民の犠牲者というのは9割が1944年以降に生じたのではないかという「新事実」である。1944年と1945年の2年、と一瞬思えるのだが、1944年のサイパン陥落(6月)以降であるから、1944年8月に戦争が終わったことを考えると、実質1年である。1年で291万人(犠牲者全体の91%)の犠牲が発生したというのであるから、途方もないことだ。
 この事実から戦争末期、著者・吉田裕のいうところの「絶望的抗戦期」に兵士にどのような負荷がかけられていったか、その特異性を暴くのが本書である。
 1944年以降に犠牲者の9割という事実は、シローと感覚でもなんとなくわかっていたような感じもしないわけでもないが、

実は日本政府は年次別戦没者数を公表していない。(吉田p.25)

ということから考えても、現時点でさえ確定的なこととは言えないのだ。吉田は岩手県の唯一の統計をもとに推計しているのである。
 こんな基本的な事実を誰も学者は調べていないのか。いかにもできそうなことなのに。と思った。


 本書の全体像について、詳しいことは以下の鰐部祥平の記事に書かれていて、それ以上に付け加えることはあまりない。

『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』予想を超える厳しい現実に直面した兵士たち 『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』予想を超える厳しい現実に直面した兵士たち



 本書の最終目的は、最近盛んな“米軍を驚かせた硫黄島ペリリューの戦いに見られるような、日本軍兵士たちの勇猛果敢な死にざま”という日本軍礼賛のための言説の前提を、「死の現場」に立ち戻り検証しなおすことにあるのではないかと思った。
 つまり、戦死者の9割は1944年以降の1年間に起き、しかもそれは餓死、病死、海没死、自殺、「処置」であり、急速に悪化した物資欠乏や補給、覚せい剤の使用によるものだったということを、兵士の身体・目線から示すということだ。


 専門家にとってはどうなのか知らないけども、戦死者のうち餓死者(飢餓に由来する病死を含む)は37〜61%に及ぶ、という数字を聞くだけでも、シロートたるぼくらの戦争感は覆るのではないかと思う。


 そういう意味では本書でも紹介されている、藤原彰『餓死した英霊たち』(日本軍犠牲者の半分以上が餓死だという指摘)を、餓死だけでなく戦争全体についていっそう体系的にまとめたのが本書なのではないか。そのような戦死観の形成は、「勇猛に戦って死んだ日本兵」という戦死観への鮮烈なアンチテーゼとなる。

餓死した英霊たち 餓死した英霊たち


2つの事実についての散漫な感想

 以下に、本書に書かれた個別の事実について2つだけ拾い出して感想を書いてみる。本書についての体系的な批評ではなくて、本当に個別の事実についての感想、しかも散漫なそれ、である。


 一つ目は海没死30万人について。海没死だけで30万人もいたのか、と思うが、戦争末期に大量の船が沈められた事実を思えば「想像」しうる数字ではある。
 しかし、「海没」というのは、ただ溺死するだけのように思えるが、吉田によれば

海没死一つとっても、そこには実に多様な死のありようが存在していたのである。(吉田p.49)

という。
 吉田が取り上げるのは、「圧抵傷」と「水中爆傷」である。
 「圧抵傷」というのは「高所から足を下にして地上や固い床などに墜落した際にその衝撃によって引き起こされる損傷」(p.47)である。吉田が元軍医の証言を引いて述べているところによれば、「船体の爆破によって、平時のものとは逆に下からの強大な衝撃によって艦上あるいは海中に跳ね飛ばされて」(p.47)生じるとされるのだが、ぼくはこの文章を読んだとき、「下からの強大な衝撃」が「圧抵傷」をもたらすのか、それとも「艦上あるいは海中に跳ね飛ばされ」たときに「圧抵傷」が生じるのかがよくわからなかった。
 元の説明でわざわざ「高所から足を下にして地上や固い床などに墜落した際にその衝撃によって」とあるので、下から跳ね飛ばされたときに相当の高度に達して「艦上」はもとより「海中」に落ちるときに怪我をするということだろうか、と思った(水泳で下手な飛び込みをしたら体が真っ赤になるやつ)。
 この元軍医の記述によれば沈没後の戦傷者のうち「四四%が圧抵傷が合併している」とのこと。
 もう一つの「水中爆傷」は、外傷がないのに腹痛がひどくなり腹部が腫れてやがて死に至るもので、水中衝撃で腸管破裂、腹膜炎を起こすという別の元軍医の証言を紹介している。
 溺死による死が「クリーンな死」というわけではない。しかし、どうしても「海没死」とくくられるイメージによってそれを聞いたものが素通りしてしまう死の「多様なありよう」がこの記述によってグッと広げられることになった。


 二つ目は、現役兵の徴集率、つまりその世代で徴兵されたのはどれくらいの割合なのか、という数字である。

一九三七年の陸海軍現役徴集者数(志願兵を含む、以下同様)は、一八万七〇〇〇認で徴兵検査受検人員に占める割合は二五%、四一年は三八万六〇〇〇人で徴集率は五四%、四三年は四一万三〇〇〇人で徴集率は五八%、四四年は一一三万六〇〇〇人で徴集率は七七%である(『徴兵制』)。(吉田p.86-87)

 学徒出陣が1943年だったことは知っていたけども、日中戦争が開始された年に徴集率が3割を切り、真珠湾攻撃の年にようやく半分、というのは驚きだった。
 国民皆兵」とは言いながら、ずいぶん徴兵からは逃れていたんだなあと。
 対馬に配属された若い兵士を描いた大西巨人神聖喜劇』には、帝大出の主人公が健康診断を受けた際に、軍医から「お主、胸を患っておるのう」と告げられ(実際には健康体なのに)、明らかに好意的に「即日帰郷処分」にしてくれようとする場面が出てくる。
 一体、どのようにして徴兵逃れができたのかを、本書は一端であるが、酒匂という軍医の証言を引いて次のように書いている。

酒匂の仕事の一つは、召集兵の入営時の健康診断だったが、「軍需工場の重要な要員」が召集されてくることがよくあった。そんなときは、「誰々を頼むとだけ書かれた紙片」を渡され、酒匂は「その要員にちょっと聴診器を当てて、姓名のカシラに、『レ』印をつけて、傍に、『右肺浸潤』とだけ書けば、」、すぐに除隊になった(『あゝ痛恨 戦争体験の記録』)。(吉田p.103)

 ちなみに吉田は、徴集率の低さや徴兵回避について述べているわけではなく、そのようなことは当然の前提にしながら、軍隊内の結核の排除に神経を尖らせていて、『右肺浸潤』と書けばあっさり徴兵を逃れられた、という趣旨で書いている。


 他にも航空兵のヒロポン覚せい剤)の使用とか、鮫皮の軍靴とか、書きたいことはあれこれあるんだけど、ただのネタバレになるので、ぜひ実際に読んで見てほしい。
 専門家はともかく、一般人であるぼくらは、初めて知る、兵士目線の個別事実がいくつもあるだろう。