ティリー・ウォルデン『スピン』

 この作品を読もうと思ったのは、(2018年)4月15日付の読売で、朝井リョウが書評をしていたからだった。

 

スピン

スピン

 

 

 

 22歳の著者は5歳からスケートをはじめ、スケーターになるつもりだったが、それがかなわぬものとなるまでに起きた出来事を描いている。

 

 朝井はこう書いた。

 

主人公が同性の友人と初めて唇を重ねる場面がある。その直後の心情が表された頁を見たとき、私は瞼を閉じた。いま両目を満たした予想外の表現を、世界を見つめる新たな視点として体内に染み込ませるために。(朝井前掲記事)

 

 ぼくもそこに興味を惹かれて読んだ。

 ここからネタバレがある。

 

 

 

 

 ただ、朝井が「予想外の表現」としてそのネタバレをわざと伏せているのは、絵画表現を含んだものだと思うから、筋だけは追わせていただく。どんなふうに表現されているのかは、ぜひ実際に読んでみてほしい。

 

覚えているのは

スリルでも自由な感覚でもなく――

恐怖だった(本書p.203)

 

 恐怖だというのだ。

 テキサスで同性愛者でいるということは恐怖である、と。

 少女が恐怖を覚えた理由は、YouTubeで見たヘイトビデオやヘイトの存在だった。

 でも主人公は、その気持ちを「おさえこんで」、「ただこの子と一緒にいたいだけ」という気持ちでまたキスを繰り返す。

 そこにあるのは、高揚じゃないのか?

 ヘイトがあるといってもそれを超えて高まる恋愛感情に身を委ねる「スリル」じゃないのか? 「自由な感覚」じゃないのか?

 違う。作者ティリー・ウォルデンは、わざわざそれらの感覚を否定して「恐怖」だと書いている。

 

 それほどまでに同性愛に踏み出すことは、この地では恐ろしいのか。

 でも、読んでいてぼくにはその恐怖は、そのコマ以外には伝わってこない

 むしろ、相手に出会え、ずっといられることに対する高揚が伝わってくるのだ。しかもその高揚には見覚えがある。大人になってからのセックスを介した関係ではなく、ただベッドの上で無駄話をしたりゲームをしたりじゃれあったり抱き合ったりキスをしたりする、友達なのか恋人なのか境目がない、子どものような関係。

 見覚えがあるというのは、子どものときに同性の友だちとキスはしなかったけど、じゃれあって、ずっとそんな感じで過ごしていたな、という感覚だ。

 だから、ぼくは朝井の言うことには半分同意するけども、半分は同意できない。

 朝井はそこを想像したのだろう。これが恐怖の上に成り立つ関係だと。

 だからこそ朝井にとっては、このコマの表現は、「世界を見る新たな視点」とまで言い切れるのに違いない。

私は、物語を読む歓びの一つに、世界を見つめる視点が増えること、があると思う。性別、国籍、世代、文化、様々な立体物である世界を多角的に見つめられるようになる。その行為は時に思いやりや想像力という名で、自分自身や自分ではない誰かを肯定する豊かさを形成する。(朝井前掲)

 ぼくにはここまで「新しい視点」を獲得することは、できなかった。ぼくは自分の中のノスタルジーでこの本を読んでしまったのである。

 だから、主人公がやがて訪れる「恋人」との破局に出遭うシーンも、それが「恐怖」に取り巻かれた「もろい」関係の結果だったという想像にはあまり立てなかった。同性愛関係を知った相手の母親が二人の仲を引き裂き、それを告げるためにかかってきた恋人からの電話の「問答無用さ」にぼくはまたしても見覚えがあった。

 抗議しようと思っていたが、なんの抗議もできず、大人の「問答無用さ」に押し切られる自分の無力さに見覚えがあったのだ。

 だからこの電話シーンの最後のコマで、別に大ゴマでもなんでもなく、連写された一つのコマの片隅で涙を流しながら電話を流す主人公に、無力のリアルさを見た。

 ここでも、ぼくは「恐怖」を想像するのではなく、自分の思春期に重ねて読んだ。

 

 読後に改めて朝井の書評を読み返し、ぼくは自分に驚かざるを得なかった。

 それは、何度も言うようだが、ぼくはこの本を思春期の無力さやあがき、自分へのいたたまれなさ、浮き沈み、そういう自分に重なるものとして読んだのである。なので、自分が十代に戻ったかのような読書時間を過ごすことになったのだが、朝井は「世界を見る新たな視点」とまでいっており、あまりにもそれとかけ離れていることに驚いたのである。

 

 あなたは本書をぼくのように読むか、それとも朝井のように読むのか。