儀式について


 卒業式とか入学式とかの意義を少しも疑ったことはなかったぼくは、高校時代に、ある高校教師(樋渡直哉)が書いた次の文章に触れて衝撃を受けた。

 私はお祭りは好きだが式は嫌いだ。祭りが日常と非日常という絶対的矛盾の自己同一化現象であるとすれば、式はまさに連続的な日常的自己の解体であるからだ。前者が日常に新しいエネルギーと創造力を吹き込むのに対し、後者は日常を清算することにより、エネルギーも創造性も解体させる傾向を持つ。
 学校でも職場でも家庭でも式は肥大化し、しかも当事者の手を離れ、業者や資本の手に委ねられてますます日常から遊離し、いやむしろ日常を欺き、いたずらに仰天させ、畏れ入らせるばかりで能がない。式が大仕掛で大袈裟であればあるほど、日常の無内容さ、悲惨さを示すことは古今東西の歴史が示すとおりだ。
 だから学校で式を重視する傾向に私は眉に唾したい。
 入学式に始業式、終業式に終*1了式に卒業式、意味がありそうでほとんど何もない。(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』地歴社p.230)

 すべて水に流して、何という優しさだ。だから学校は“救われている”。しかし、そのためにいつまでも変わらない。卒業式や入学し、その他の儀式と式の毎にすべてを水に流してしまう。折角、痛い目に遭い、人格を否定されるような罵りを受け、理解できない授業を聞かされ、落第点をつけられて、貯めこんだ怒りのエネルギーがセレモニーを前に解体してゆく。
 爆発せんばかりに蓄積された怒りと希望を含んだエネルギーが、授業に、学校に、教師に、そして何より、生徒自身に変革をもたらす筈だ。(前掲書p.249)

 今日(2017年11月8日)付の「しんぶん赤旗」に連載「統制された文化」第23回の有本真紀の一文が載っている。
 学校の儀式の歴史をたどり、「君が代」や「勅語奉読」などがどう成立したかを見た後でこう書かれていた。

 儀式は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法である。人びとが儀式に参集し、同じ対象に向かって一緒に同じ所作を行い、同じ言葉を発する。それ自体が権力を成立させ、追認させるのだ。さらに、儀式にはタブーが伴い、その徹底が聖性を生み出す。
 人びとは、価値観や信念などを共有していなくても、儀式でともに行為し、タブーを守ることによって、連帯する集団の一員と化してしまう。「一同礼」「斉唱」と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、主義主張の現れだとみなされる。(有本/「赤旗」2017.11.8)

 この一文を読んで、ぼくは、高校時代に衝撃を受けた樋渡の本を思い出した。もともと小・中学生時代は率先して「日の丸」掲揚も、「君が代」斉唱も不動の姿勢でやって来たぼくが、この本を読んで以後、高校時代は斉唱で起立もしなくなり、大学の入学式も卒業式もロクに出ず、成人式ではちょっとした騒動まで引き起こした人生だったから、樋渡の指摘に深く影響を受けていたのだろうと思う。

 その後、儀式とはあまり縁のない生活を送ってきた。
 子どもができてから、再び娘の保育園や学校での儀式に遭遇した。
 20年ぶりくらいだろうか。


 小学校の入学式は、全体としてはくだらないものだった。
 「日の丸」「君が代」を入り口にして、エラい人たちの訓話が続く。
 唯一緊張が壊れるのは、上級生である子どもたちによる「学校生活ガイド」のようなものだったが、それすらも悪く言えば大人のための「見世物」だったのではないか。
 と、偉そうに書いているにもかかわらず、当日のぼくは親バカ全開で、娘の様子をビデオカメラに撮影していたのであるが。


 保育園はまったく様子が違っていた。
 いわゆる「入園式」はない。親向けのガイダンスがあるだけだ。
 卒園式はあった。
 「日の丸」も「君が代」もないその卒園式は、前半がふだんの「遊び」の集大成を親たちに見せる場になっている。
 たとえば、竹馬。
 一人ひとりが能力と到達にあわせた竹馬に乗り、ホールを一周して見せる。
 大人のための出し物を演じるのとは違って、日常の保育実践/子どもたちの遊びこみの延長線上に卒業式がある。


 このような保育園の姿勢は、明らかに儀式が日常を清算しようとする性格に抗い、学習指導要領=国家が求める「厳粛」を最小限に抑えようとするものに感じられた。
 逆に市立学校たる小学校の方には、有本が指摘するような、「様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく」意図を感じた。


 「儀式化」にかかわって、気になることの一つに、サヨであるぼくが参加するところのサヨ集会のセレモニー化、儀式化がある。
 ぼくは安保法制反対をめぐってたたかわれた国会前の集会やデモの雰囲気を実際には知らないのだが、九州で開かれている政治集会の中には、決まり切った式次第をこなしていくような感覚のものがあり、それが嫌なのだ。
 最後に唱える「団結がんばろう」とか、自分が参加して考えたのでもない不本意シュプレヒコール唱和とか、そういうものは下手をすると「一同礼」「斉唱」「同じ対象に向かって一緒に同じ所作を行い、同じ言葉を発する」ものになりかねない。(こう書くと「団結がんばろう」やシュプレヒコールを全て否定しているように聞こえるが、それはぼくの本意ではない。ただ、「団結がんばろう」は新しく集会に来た人にとっていつでも必要な「次第」なのか、言いたくないシュプレヒコールはないのか、という視点がほしいということだ。*2
 集会の儀式化をやめさせたい。
 まずできることは、自分でプラカードやビラをつくったり、集会内で勝手に話し合いの輪をつくったり、そんなことからだろうか。
 憲法について語りたいこと・学びたいことはいろいろあるのに、つまらない、演壇の話をじっと聞いているだけのことはしたくない。憲法コンメンタールでも持ち込んで、勝手にその場で輪読会でも始めようか。
 追い出されたら、もうその集会には行かないでもいいだろう。
 そんなことを考えている。

*1:原文ママ

*2:例えば先日ぼくが参加したデモのシュプレヒコールで「公明党から日本を守れ」というのがあった。「加憲」という政策を持つ公明党憲法改悪に隠れた主導的役割を果たしていることは同意するが、こういう言い方でデモのコールとすることが、果たして沿道の多数の市民の共感を呼ぶだろうか非常に疑問であった。