『戦下のレシピ』『昭和経済史』

 『この世界の片隅に』のアニメをきっかけに、戦時中の日常生活についての文献をいくつか読んだ・読み返した。

戦争になるとなぜ食糧難が起きるのか――斎藤美奈子が示した2つの理由

戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る (岩波現代文庫) 斎藤美奈子戦下のレシピ』(岩波現代文庫)、中村隆英『昭和経済史』(岩波書店)はその一つ(2つ?)。
 『戦下のレシピ』の中に「なぜ戦争は食糧難を招くのか」という節がある(第5章)。
 斎藤は「戦地に送るから食べ物がない?」という仮説をまずは批判する。
 総人口は変わらないので理屈に合わない、と。「まして旧日本軍は、食糧について甘く見ていた」(斎藤p.158)。
 うむ、アジア・太平洋戦争の「戦死者」の半分が餓死、それ由来の病死だったことは有名だし、牟田口中将の「元来日本人は草食である、然るに南方の草木は全て即ち之食料なのである」という小並感発想をもとにしたインパール作戦での失敗を見てもそれはよくわかる。


 斎藤は、この仮説を批判した後、斎藤の考える2つの理由を示す。

ひとつめの理由は、すべての産業に軍需が優先するからだ。男たちは戦地に召集され、戦地に行かない男女は軍需産業に駆り出され、繊維工場や食品工場など、日用品を作る工場もことごとく軍需工場に転業させられた。農村の人手は手薄になり、それまで伸び続けていた米の生産量は、一九四〇(昭和一五)年をピークにとうとう減少に転じた。(斎藤p.159)



 図は、『昭和経済史』のp.143に出てくるグラフだが、「軍需優先」を実にわかりやすく示している。


 兵器を含む「機械」生産というのは、空襲が激しくなった1944(昭和19)年でさえ、1937(昭和12)年=日中戦争開始時の2.4倍になり、終戦の1945(昭和20)年でもこの基準年(1937年)を上回る生産をしていたわけだから、どんだけ軍需優先なんだよ……と思わざるを得ない。
 まあ、あえて正確を期すために言えば、「農業総合」は昭和18年ぐらいまでは何とか維持している。もちろん、これは単なる民生ではなく戦争遂行に必要だからだ。それも昭和19年にガタッと落ちている。そのうちコメについて言えば昭和20年は、「天候が悪かったため、平年作の六割という異常な不作」(中村p.142)だったせいである。

工業生産にしても、食料品、繊維、紙パルプ、化学などは、いずれも一九四〇年代の初めから急速に落ちていく。南方からのものが入ってこなくなったために、軍需生産がだめになるというのはもう最後の段階であって、その前に一般の工業生産はもう崩壊していた。ナチス・ドイツでさえ消費財生産を昭和一八(一九四三)年ごろまではあまり減らさないようにして国民生活に配慮していたのにくらべて、日本の軍需への傾斜ははじめから極端で、国民生活や占領地の人たちの生活を無視していたといえます。(中村p.142-143)


 軍国主義的政権であっても、例えばナチであっても、これほど極端な軍需偏重はしなかったぜ、というのが中村の主張。
 『昭和経済史』を読んでいると、この時期、つまり日中戦争を開始した十五年戦争の時期というものは、その幕開けから経済の統制、物資の動員がテーマになっている。
 日本は資源がない国であり、例えば産業のカナメでもあり、戦争遂行に欠くべからざる石油は当時どうしていたかといえば、「当時の日本にとって最大の石油供給国はアメリカであった」(中村p.129)。
 それじゃあ、アメリカを敵に回してどうやって戦争や経済をやっていけると思ったのか。


 1941年の御前会議での企画院(当時の経済計画を立てる政府部局)総裁の見通しが『昭和経済史』に載っているが、東南アジアを占領したので、そこから入ってくるもので間に合うというのが基本だった。

 そして米などもタイ、仏印あたりから入ってくるのでまにあうだろう。もし蘭印が手に入れば、ニッケル、錫、アルミニウム原料であるボーキサイト、生ゴムなど、当時の貴重な物資が手に入る。
 石油の問題については、南方作戦をした場合、石油は一年目には八五万キロリットル、二年目は二六〇万キロリットル、三年目には五三〇万キロリットルぐらいは入手できるだろう。それを現在の保有量八四〇万キロリットルに加えて見通しを作れば、第二年目の末には保有量がギリギリに減ってしまうが、三年目からはむしろ需給関係が好転して、余裕が出ると述べている。
 したがって、危険とはいえ、戦争経済は維持できるというのが、企画院の判断でした。(中村p.131)


 もし戦争を回避したら、逆にアメリカは軍備を自由に拡大し、絶望的なまでに日米の格差が開いてもう追いつけなくなる、というのが企画院の描いた想定だった。危険だけど、今ならやれる、と。
 だけど、このシナリオの前提になっているのが、輸送、船の確保なのである。東南アジアから食糧や資源を運んでくる船。
 企画院はどうそれを判断していたのか。三〇〇万トンの船が確保できれば大丈夫だと計算した。

戦争になれば船舶は被害をうけるが、それが年間一〇〇―八〇万トン程度ですめば、国内で六〇万トン程度の造船能力があるから、なんとか三〇〇万トンの線を維持できるだろう。(中村p.131)


 しかし、「作戦面を別として、経済面でもっとも甘かったのは、船舶の問題であった」(中村p.132)、「太平洋戦争の経済的側面における最大の計算違い」(同p.136)という状況になってしまった。
 造船はがんばって想定を超えて60万トン以上、昭和18年には100万トンまでつくったけども、被害想定がとても「一〇〇―八〇万トン程度」じゃ、すまなかった。「昭和一八年には二〇七万トン、一九年には四一一万トンという被害」(同p.136)となり、実に想定の4〜5倍となった。
 輸送能力が足りない、というレベルでなく、制海権・制空権を握られたために「昭和一九年の後半には南方占領地域との航路が遮断されて、加速度的に戦勢が傾いていったのです」(同p.136)。


昭和経済史 (岩波現代文庫) 何だろうなあ、この、「1点に全部かかりすぎだろ」感
 ものすごく性能がよくて材質も高級だけれども、数千ある部品の1つだけが壊れて替えが効かず、結局動かせない機械、みたいな。いいカバン買って、気に入ってたけど、下げるヒモの縫製が実はヤワで、すぐ使えなくなる、みたいな。「そこかー。そこは買うとき見てなかったわー」的な。
 いや、そんなことないんだよ。
 実は、ロジスティクスって基本だし。「日本軍は兵站のこと考えてなさすぎ」ってよく言われることだし。しかし、「兵站」とか「ロジスティクス」とかいうと、物流システム全体のように思えてくるけど、その中でも具体的に「船」なんだよね。「船」ってことの1点にかかりすぎなんだよな。


 これ読んで思ったのは、消費財が後回しにされた、つまり民生部門が圧迫されたということと、軍事的に輸送があまりリアルに考えられていなかったということは、別々のことじゃなくて、表裏一体の問題なんだってこと。


 ゆえに、斎藤も戦争が食糧難を招く「もうひとつの理由」として「輸送」をあげる。

 もうひとつの理由、それは輸送の問題だ。
 戦争になると、どこの国でも「食糧の国内自給」を呼びかける。それは経済封鎖や海上封鎖などで輸送路が断たれ、外から物資が入ってこなくなるからだ。食料品だけの話ではない。石油であれゴムであれ、資源のどれか一つが欠けても近代国家の機能は麻痺する。一九四一(昭和一六)年に、アメリカが対日石油輸出を禁止したことで、日本は大打撃を受けた。その穴を埋めるために東南アジアへの進出を企て*1、太平洋戦争をしかけたものの、制空権も制海権も奪われて、資源の備蓄は減る一方、燃料がなければ国内の輸送だって滞る。どこかに食べ物があったとしても、家庭に届かなければないも同然なのである。(斎藤p.150-160)

 斎藤は続けて、次のように皮肉る。

戦争は戦闘や空襲のことだと思ってしまいがちだ。しかし、戦闘は戦争のほんの一部分でしかない。戦争の大部分は、物資の調達、運搬、分配といったいわば「お役所仕事」である。日本政府と旧日本軍はそこを甘く見ていたということだ。(同p.160)

「食糧難」は昭和19年を境に根本的に違う

 なお、ここでも正確を期すために言っておけば、日中戦争が始まって物資の統制が行われ、アジア・太平洋戦争でそれがさらに厳しくなったという、「戦争一般の食糧事情」と、「南方占領地域との航路が遮断されて、加速度的に戦勢が傾いていった」昭和19年後半以降の「食糧事情」とは、その厳しさが根本的に異なる
 斎藤は、レシピの時期を、日中戦争期(「日中戦争下のレシピ」)、アジア・太平洋戦争開始期(「太平洋戦争下のレシピ」)、戦争末期(「空襲下のレシピ」)の3つの時期に分けて、戦争末期の食糧事情のひどさを強調している。

戦争中に空腹で苦しんだという話は、ほとんどが太平洋戦争末期の一九四四―四五(昭和一九―二〇)年に集中している。この二年間は、前線の兵士はもちろん、銃後の人々にとっても、人間性を剥奪された魔の期間だった。(同p.110)

 そしてそんな時代にも料理記事はあったものの、「それはもはや『レシピ』となどと呼べるようなものではなく、絶望的な食糧難の中でどうやって生き延びるかを教える『サバイバル読本』に近いものだった」(同p.114)。
 確かに、斎藤の本のもとになり、『この世界の片隅に』でも参考文献としてあげられている『戦争中の暮しの記録』(暮しの手帖社)を注意深く読むと、サバイバル的な食糧体験はその時期に集中している。
 すずと北條一家の「日常」が描かれ、楠公飯が登場したのは、昭和「19年5月」だ。斎藤の『戦下のレシピ』では楠公飯は戦争末期(「空襲下のレシピ」)ではなくアジア・太平洋戦争開始期(「太平洋戦争下のレシピ」)に紹介されており、『この世界の片隅に』での登場はギリギリ「昭和19年後半」以前ということになる。
 いやまあ、食糧事情なんて、都市と農村、地方ごとで相当差があるから、一般的な時期区分を外れていたからどうだということでもないんだけどね。*2
 片渕監督が書いていたコラム「すずさんの日々とともに」を読むと、

呉市では19年春頃までは少ないながらも米の配給がほぼ行われ、代用食の配給はあまり行われなかったが、5、6、7、8月は米の配給が米穀通帳指定の1割以上が押麦、甘藷、馬鈴薯、小麦粉、乾麺、脱脂大豆、玉蜀黍、高粱で代用されるようになっている。

http://www.mappa.co.jp/column/katabuchi/column_katabuchi_16.html

とされている(第16回)。やはり昭和19年後半は一つの転機だったといえよう。



 戦争末期のサバイバル状況と比べると、日中戦争期とアジア・太平洋戦争開始期の食糧事情は「何とかなる」レベルのものだった
 ここでは、第一に、国民経済の需給勘定をしていくら足りなくなるから、どこを節約しろ、といういわば「机上の計算」にもとづくものだった。
 第二に、昭和14年、つまり日中戦争は始まっていたがアメリカと開戦する前に起きたコメをめぐるパニックが影響していた。


 まず第一の点。需給を机上で計算していたという話。


 陸軍の外郭団体である「糧友会」が1940年に発行した「節米調理法」は今でも国会図書館のウェブサイトで読めるが、そこには、アジア・太平洋戦争直前の時期に、どのような理屈で節米をしなければならないのかということが端的に書いてある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095670

  1. 昭和14年のパニックで、1000万石がマイナスになった。(△1000万)
  2. 法令による搗減り防止+酒造米節約、合わせて350万石が節約。(△650万)
  3. 大麦・裸麦・小麦は豊作だったので、コメ換算で300万石プラス。(△350万)
  4. うーん、つまりあと350万石分を節約しなきゃいけないなー。

この分は国民各個がお互に代用食やコメの消費合理化等によつて節約しなければなりません。全国戸数は約千三百万戸ですが計算を仕易くするために仮に千万戸とすれば、一戸一ヶ年の節米量は約三斗五升、一月当り三升の節約を要する勘定になります。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095670

 3升は約5.4リットル、今の白米換算だと4.5kg。1日150g。1合ぐらいですね。茶碗1杯0.4合なので、一つの家庭で1日茶碗2杯分の節約と思えばいいのか。うーん、これくらいなら、なんとかできそうじゃないかと思えてくる。ま、全世帯がやればね。この辺りが机上の空論っぽいところだ。


 で、このパンフレット『節米調理法』には、増量法、代用食などが書かれている。増量法には楠公飯も入る(このパンフには出てこない)。代用食はイモやカボチャなどを混ぜるご飯や、パン食などが入る。


 配給は昭和14年、まずは燃料(木炭)から始まるけど、最初はそれほど深刻でもない。なかなか広がらないのである。


 そもそもこの「糧友会」の節米運動も、昭和19年以降の深刻な食糧不足のような切迫認識があったわけではなく、別の目的があった。

糧友会のパン食普及の目的自体が、軍隊でのパン食への適応力を養うことや、米栽培に不適な満州への植民政策の成功にあった(小泉和子「昭和とパンのおはなし」第3回/「しんぶん赤旗」2016年11月18日付)

 よく戦時中の食糧難をしのんですいとんを食べるイベントがあるけど、ああいうことに象徴される食糧難というのは、昭和19年からの2年間だったということができる。
 だから、戦争における食糧不足・食糧難というのは、ベターっと同じように続いたのではなく、時期によって相当に濃淡があると言える。


 もう一つの点。昭和14年の不作の話。

もう一つ昭和一四年の秋に問題が起った。西日本が雨が降らず旱ばつになり、その結果として電力が不足になる、西日本と朝鮮の米が不作になった。実際はそんなに不作でもなかったのですが、そう信じられて、パニックに近くなった。この年末には東京市中でも米屋に米が半日分ぐらいしかないような事態になり、米騒動が心配される状況になった。政府は乏しい外貨を割いて、タイや、当時の仏領インドシナ、今のベトナムから米を輸入する必要に迫られた。(中村p.120)

 ここ(昭和14年ごろ)で食糧不足が国民的に認識されるわけだけども、第1点のところでも述べたように、実際の生活としては、後にやってくる壮絶な食糧難を思えば、まだまだ余裕があったと言える。


 企画院の物動計画でもタイや仏印からのコメの輸入で何とかなるわい、という話が出てきたし、ここでも朝鮮などからのコメの輸送が頼りにされている。
 アニメで、すずが敗戦の玉音放送を聞いた後で駆け出して口走るセリフ、「海の向こうから来たお米、大豆。そんなもんで出来とるんじゃなぁ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかね」はこのことを意味している。
 よく指摘されるように、これは原作のセリフとは異なっており、片渕は日常から出発するすずに馴染ませたセリフにしたのだという。その当否は議論のあるところだが、

一方、その大東亜共栄圏なるものはどうであったかということになるが、開戦の当初から、現地の人たちの生活を維持確保することはなかなか望めないということはわかっており、当時、開戦直前の文書を読んでも、「当分はいわゆる搾取方針をとることもやむをえない」という文章があった。(中村p.138)

とあり、さらに『昭和経済史』ではそこに続けて、日中戦争時代には食糧収奪をやって都市暴動を招いたために、その後は軍票を出して事実上インフレにより物資を取り上げる方針に切り替えたことが書かれている。すなわち、「日本に送られる食糧や資源」には、アジア各国に対する搾取と収奪――暴力が凝縮されており、すずがいた日常の中で触れられるものの中に埋め込まれた暴力を、片渕なりに工夫して表現したものだったろう

ユーモラスなものとして現れる「食糧難」

 昭和19年の食糧難は相当大変だったということになるが、それでも、『この世界の片隅に』では相当に可笑しみを持って描かれている。
 これは同作が参照した『戦争中の暮しの記録』でも読み取れる。うちのつれあいも斎藤美奈子のようにこの本を小さい時に読んでいたそうだが、ここに載っている、例えば池に食用ガエルがたくさんいるのに、誰も知られておらず、それがとても美味かった話などは、かなりユーモラスなものだ。
 また、中村の『昭和経済史』でも、当時の商業学校の生徒の記録を紹介しながら、食糧難の給食の大変さが、紹介されているが、どことなく笑える。

空腹に耐えかねて、集団脱走して高崎に帰って大目玉をくったり、農家でいもやもちと交換してもらうために鉄火箸やフライパンを作って失敗した話などが、一見ユーモラスに書かれているが、実は笑いごとではなく、切実な必要に迫られてのことだった。(中村p.145)

 深刻だけども、ユーモラス。
 この調子は『この世界の片隅に』に似ている。
 さらに、この後に続く、中村の言葉。

ところが、昭和二〇(一九四五)年になると、著者は工場を離れたが、その友人の富岡中学生の日記では空腹の話どころではなく、空襲と友人の死に重点が移る。(同前)

 日常の可笑しみが後景に退き、空襲による深刻さへと転換する、『この世界の片隅に』の後半部分とも重なる指摘である。


 ちなみに、中村は『大東亜戦争収拾の真相』という陸軍大臣・総理大臣の秘書官をした松谷誠の本を紹介し、陸軍首脳は最後の本土決戦を本気で考えて張り切っているけども、

陸軍省参謀本部の課長クラスは、内心ではもう諦めている。その下の課員クラスが張り切っていて、抑えられなかったのが昭和二〇年の前半の状況だったと書いている。(中村p.146)

っていうのは、印象に残った。
 『昭和経済史』によれば昭和19年夏の軍需省は、もう今年末には物資計画は破綻しますわという正直な見通しを最高戦争指導会議に出している。それを紹介して、中村はこう書き付けている。

もうだめだということがわかったあと一年間がんばったというのが戦争の実態だったといえると思います。(中村p.138)

 経済の物資動員(物動)計画から、戦争の見通しはだいたい見えてきて、それがわかっている官僚には見通せるけど、わかっていない現場クラスが逆にアカンかったと。

せっかく映画や原作マンガを見たなら手を伸ばしてみようよ

 前のエントリで紹介した、小説家の古処誠二の言葉、

戦争小説と呼ばれるものは読者に関心を抱かせてこそ成功だろう。

という点をぼくなりに感じ取って、『この世界の片隅に』を読み、そしてアニメを観ることで、少しばかり他の本を読んでみた。特に、それは片渕の綿密な考証態度に感化、というか、その顰に倣ったものである。
 その結果、日常=食料や日用品の中に、「戦争」が凝縮されて埋め込まれていることを、いくつかの点から感じ取ることができた。


 作品としての感動というところにとどまらず、少しだけ広げて戦争を考えてみる機会にしてはどうだろうか。
 そもそも、原作者であるこうの史代がこの作品を

私の描いたマンガが家族の昔の話を聞くきっかけになればいいなと思います。(中日新聞2009年4月26日付)

とくりかえし述べているように、実際に聞いてみるきっかけにするのが、この作品をリスペクトする一番の方法だと思う。「家族の昔の話」が聞けないのであれば、こういうふうに何か文献に手を伸ばしてみるのがいいと思う。


※参考:
『この世界の片隅に』の原作とアニメの距離――もしくは戦争についての創作はどう描くのが「成功」なのか - 紙屋研究所 『この世界の片隅に』の原作とアニメの距離――もしくは戦争についての創作はどう描くのが「成功」なのか - 紙屋研究所

*1:引用者注。戦前の日本の東南アジア侵略の企図は対米関係の悪化以前からであるかどうかの議論があることは承知しているが、ここではとりあえずスルーする。

*2:例えば、愛知県西尾市の『西尾市史』の第4巻「近代」を読むと、農村であった西尾では、配給の事情は確かに『この世界の片隅に』とよく似ているんだけども、農家が多いから、「甘藷の収穫時には名古屋から大勢買い出しにきた」(『西尾市史』4、p.1645)とあるように、名古屋市あたりからむしろ買い出しにどんどんやってくる様子がうかがえる。名古屋から疎開してきた子どもたちの食料事情が相当に悲惨だが、地元の農家は必ずしもそうではない。ある農民の証言として、「その当時の人は、『百姓は昔から銭は入って来ないものときめていたが、こうもなんでも売れるのか』と喜んだ」(同前)、「その頃は農家にとっては一番よい時代であったように思う」(同前p.1646)とまでいう言葉を載せている。いやお前、「農家にとっては一番よい時代」ってどんな認識なんだよ……。まあ、それくらい、地方と立場によって「食糧難」ということの受け止めは違うのだ。