藤原辰史『トラクターの世界史 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』


トラクターの世界史 - 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち (中公新書) あえて言おう。
 トラクターになんの興味もない。
 なんの興味もない男が、トラクターで思い浮かべたことは2つあった。

狭い耕地で活躍した歩行型トラクター=耕耘機のこと

 一つは、愛知のぼくの実家は農家であり、家の車庫には長い間、歩行型トラクターがあったということ。
 いや……実家では「耕耘機(こううんき)」と呼ばれていた。
 もうなくなって久しいが、記憶を頼りに画像検索してみたら、これが一番近いな。おそらくこれ。
 「クボタ耕うん機KR80」。


 これはトラクターなのだろうか?
 ラクターである。
 今回感想を書く藤原辰史『トラクターの世界史』(中公新書)では、はじめにややくどくどと(しかしそのくどさが実は重要であるのだが)トラクターの定義*1が載っており、家にあった「耕耘機」はまさにトラクターなのである。そして、本書の後半に歩行型トラクターはくわしく日本での開発の歴史が紹介されている。


 トラクターで画像検索するとまず「乗用型トラクター」が出てくるように、トラクターといえばまずはブルドーザー、もしくは戦車をイメージさせる(本書を読むと実際に戦車に技術転用されたようだ)、人が乗る大きなタイプが思い出される。
 それに比べて、歩行型トラクターはまことに小さい。
 本書で日本のトラクター開発史を読む限りでは、この歩行型の開発が意味するところが実に大きい。
 そして(本書を読むとそう単純には言えないようだが)外国のように広大な土地を耕すのではなく、日本の零細な耕地を耕すものとして、この歩行型は似合っているような気がした。

「赤いトラクター」

 思い浮かべたことのもう一つは、小林旭の歌う「赤いトラクター」。
 事実上ヤンマーのCMソングなのに、企業名や製品名の直截な表現が出てこない。
 あれだよ、昔のアニソンはヒーローの名前とかを歌詞の中に織り込んでいたのに、最近のアニソンは登場人物もタイトルも出てこないようなアレ。
 いや、といっても完全に離れているわけでもない。
 演歌調に雄渾に仕上がっているのに、「赤いトラクター」というタイトルとサビが入っていて、子供心におかしみを感じた。
 本書でもこの歌は取り上げられている。
 トラクター乗車が趣味であったエルヴィス・プレスリーと比較しながら、藤原はこう書いている。

ラクターの世界史のなかで、エルヴィスに対抗できるのは、日本ではアキラをおいてほかにいない。「マイトガイ」と呼ばれ銀幕で一世を風靡した小林旭の高めの歌声に乗って、ヤンマーのトラクターは日本中に普及した。(本書p.224-225)

 続けて、藤原は

女性を排除した男性とトラクターのみの「二人」の関係性は、暑苦しいとしか言いようがない。(同前p.225)

と愛をもって腐している。
 主人公の男性にとっての、トラクターの相棒性=友情=変種の恋愛感情を歌い上げているのである。

本書のまとめもこの2点を取り上げている

 以上の2点は、トラクターに興味がないぼくの心に浮かび上がった「トラクター」についての小さなフックである。
 しかし、この2点は、実は(1)トラクターを軸にした集団化・大規模化・近代化の世界史という切り口、(2)トラクターが文化の領域に溶け込んでいた、という本書が終章でまとめとしてあげている2点のポイントにズバリ重なるものである。

ラクターの轍から眺める世界史は、高校までに習った世界史とどこまで異なった風景を見せただろうか。……資本主義陣営と社会主義陣営の壁はトラクターの歴史から眺めるとそれほど高くも厚くもなかったこと、こうした歴史を、トラクターは教えてくれる。(本書p.233)

また、トラクターという機械は、経済史や技術史といった枠組みを超えて、文化の領域に溶け込んでいたことも、本書で明らかにしようとしたことである。(同前)


 くり返すが、ぼくはトラクターそのものに何の興味もない。
 しかし、ラクターという機械・モノを結節点として、そしてそれにこだわって世界史や文化を眺め直してみると、教科書の叙述のように平板だった世界史は生きて動き出し、文化が経済や技術と密接に絡み合ってそこにあるのだという、新しい視点(もしくはすでに持っていた視点の抜本的補強)を提供してくれる。こうした切り口はトラクターに限らないだろうが、本書は、この切り口の活用に成功している。


 本書を読んでいろいろ考えたことも、やはり先ほど挙げた2点に集約される。

大規模化か小規模分割地か

 世界史、つまり歴史や社会とのかかわりでいえば、農業の集団化・大規模化のことである。特に社会主義の理念との関わりで。
 一般にはソ連や中国が社会主義と思われているので、社会主義(特にマルクス主義)は集団化一辺倒なのだろうと見なされているフシはある。
 本書でも、そのようなものとしておおむね紹介されているが、社会主義者の中での論争はきちんと紹介されている。ぼくはコミュニストであるけども、ダーフィットのことなどは知らなかったので、勉強になった。


 大ざっぱに言えば、革命のために小農を味方につけることは大事だから分割地での営農は擁護する。だけど土地や機械の効率利用を考えたら、将来的には大規模化し、集団化・共同化した方がいいよね、それはゆっくりやるよ――という感じがマルクス主義の「基本」だった。

われわれは、むろん、断固として小農民の味方をする。小農の運命をもっと忍びやすいものにしてやるために、彼にその決心がつけば協同組合への移行を容易にしてやるために、それどころか、彼にまだその決心がつかないなら、その分割地のうえでながいあいだとっくりと思案できるようにしてやるために、われわれはやってよいことならなんでもやるだろう。(エンゲルス『フランスとドイツにおける農民問題』/『マルクスエンゲルス8巻選集』第8巻所収、大月書店p.191)

資本主義が支配しているかぎり農民の状態は絶対に望みがないということ、彼らの分割地所有をそのまま維持するのは絶対に不可能だということ、また資本主義的大規模生産は彼らが無力な古くさい小経営を押しつぶすのは、汽車が手押し車を押しつぶすのと同じように絶対に確かだということを、農民にくりかえしくりかえし説明することこそ、わが党の義務なのである。(エンゲルス同前p.192)


 トラクターの利用は、この集団化の象徴であった。レーニンがトラクターに魅了されていたことが本書には紹介されている。


 日本でもエンゲルス的な原則が、コミュニストの間では共有されていた。
 しかし、皮肉なことに、大規模化一辺倒を進めているのは、日本では共産党ではなく自民党である。共産党はむしろJAなどと組んで「家族農業など多様な農業経営の擁護」の論陣を張っている。

紙氏は、国際競争力の名で、さらなる大規模化への誘導や法人化、企業参入を進めれば、政府自身が原点としてきた「多様な農業の共存」の理念に反し「日本農業の基本である家族経営を壊すことになる」と批判。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-24/2017042405_01_1.html

半農半Xという生き方【決定版】 (ちくま文庫) 共同化が将来の方向にある、ということではなく、小規模な家族経営そのものが日本の農業の未来ではないのか、と思える。塩見直紀『半農半Xという生き方』をはじめ、「片手間に農業」というような生き方が注目されているが、こういう「小農」のあり方、担い手のあり方が農地を維持し、農業を日本で続けていく一つのヒントになりはしないかと思う。
 となると、そこでの「トラクター」はやはり、小さなトラクター、歩行型トラクターですよ! とか思ったりするのだ。
 本書には、日本でもトラクターを含む農業機械についての論争を紹介しており、簡単に言えば、大規模化・集約化する道と、小規模・分散型の道との対立として現れる。その中の論客の一人、橋本伝左衛門は小規模分割地の道を肯定している側であるが、彼は、

農業組織のコルホーズ化をはかり、これをてことなし、わが国に共産革命の導入を企図するものに対しては、われわれはその不可であり、また不可能であることを、力説せざるを得ないのである。(橋本/本書p.211)

と述べ、わざわざ共産主義革命の否定としているのがぼくの印象に残った。今や、逆ですよ、橋本さん……。


 とはいえ、ぼくの実家の農地のことを考えると、「大規模化」のことは頭に浮かんでくる。ぼくの家はもともと農家であったが、今や年老いた父母が趣味で(しかし結構本格的に)畑作をしているに過ぎず、田んぼは所有したまま「オペレーターさん」に稲作を委託している。*2実家はまだ見渡す限り田んぼだらけだが、広い小学校区に委託を受けるオペレーターは2カ所しかないという。親が死ねば、ぼくら兄弟は農業をやることはないだろうから、農地は売買なり寄付なりで農業をやっている家に集約した方がよい。
 結局、担い手は減っていくから、大規模化そのものは否定できないのである。しかし、それ一辺倒ではなく、家族経営や半農半Xのような小規模経営もていねいに支援して、多様性を確保することが農地と農業の維持につながる。今のところ、そう考えざるを得ない。


 本書ではトラクターを軸に機械の共同化の歴史が触れられている。そして藤原は終章で次のようにまとめる。

第二に、トラクターの世界史には、いまだ実現されなかった「夢」が存在するからである。それは、トラクターの共有という夢である。日本では、集落営農のかたちで機械共有の試みがあらわれているといえるかもしれない。国有か私有かという二項対立図式によって機械の共有という道は世界史のなかで顧みられなくなっていた。そう考えると、生活の共同とセットで機械の共同を考えた三瓶孝子の視点は、ソ連の現実を知らなかったからであるとはいえ、やはり大変貴重であった。(本書p.243-244)


 ただ、ぼくなどは、日本の農業が公的な資金(補助金)をつぎ込んで成り立っているというのであれば、いっそ自治体が農業公社をつくって自治体の農地を集約的に管理し、雇用を行い、生産から販売まで面倒みたらどうなんだと思う。
 いや、今自治体に「農業公社」というのがあるのは知っている。だけど、これは農地の貸し借りとか、担い手支援とか、農産品のPRとか販促とかだけなので、もっと直截に生産・経営に乗り出しちゃってもいいんじゃないの、と全くシロート考えで思うのである。
 でも、そういうアイデアが現実化していないのはそれこそ「小農」であるところの個々の農家が「分割地のうえでとっくりと思案」しているから、つまり農地も経営もしがみついて手放さないからだろうなあ、とぼんやり思う。

性的比喩とトラクター

 さて、本書について、ぼくが注目したもう一つの点、つまりトラクターというものの文化の領域への溶け込みについて。


 先ほど、小林旭が歌う「赤いトラクター」について書いた。
 藤原は、トラクターを動物にたとえ、そこに癒しを見る世界各地の傾向を求めているが、藤原が「トラクターに恋をする」という表現をしているように、本書で紹介されている例を見ると、むしろ性的な比喩と重なることに興味が湧いた。
 中本たか子の小説、ローガンの回想、スタインベックの小説。
 そして、「赤いトラクター」もその系列であるとぼくは読んだ。


 特にスタインベックの『怒りのぶどう』に登場するトラクターの耕作の比喩は強烈だった。

鋳物工場で勃起した十二の彎曲した鉄の陰茎、歯車によって起こされたオルガスム、規則正しく強姦し、情熱もなく強姦を続けていく。(スタインベック/本書p.65)

 藤原にとっても「強烈」だったようだ。

「強姦」という比喩も強烈である。つまり、トラクターの耕耘は土壌の反応に関係なく強引に耕す、「愛」のない他者不在の行為だとスタインベックの目には映るわけだ。機械に対する疎外感は、古今東西いろいろな書物に描かれてきたのだが、スタインベックの描写は、そのなかでもとりわけ異彩を放っている。(本書p.65-66)

 まことに同感である。
 もともと開墾されていない土地を「処女地」(virgin soil)と表現するように、農業における土地を女性にたとえ、そこに手を加えることを男性であると比喩するのは、西洋的な考えであろうか。


 はじめにこの本について

ラクターという機械・モノを結節点として、そしてそれにこだわって世界史や文化を眺め直してみると、教科書の叙述のように平板だった世界史は生きて動き出し、文化が経済や技術と密接に絡み合ってそこにあるのだという、新しい視点(もしくはすでに持っていた視点の抜本的補強)を提供してくれる。

とぼくは述べたが、あえて、何か一つのモノ・事柄・立場にこだわってそこから歴史や文化を眺め直してみると、視点が更新されたり、豊かにされたりすることがある。例えば「遅刻」を歴史的に捉えるとか、「戦時食」から戦争を見つめ直すとか。本書もまさにそういう一例だった。

ソ連経済における「重量主義」はトラクターに何か影響を与えたか?

 なお、本書を手にとって冒頭に、トラクターの重みが団粒構造を潰して土壌を荒らす、という指摘があり、そのことを読んで、もう一つ実は思い浮かべることがあった。
 それは、日本共産党の幹部である不破哲三が、よくネタにしているあの話である。

 ところが、スターリン以後、市場経済を事実上否定してしまったソ連経済は、経済活動を評価するこのモノサシを失ってしまいました。では、その代わりに何をモノサシにしたかというと、いちばん広く使われたモノサシが、製品の重さや使った材料の重さだというのです。そうなると、何をつくる場合でも、重いものをつくればつくるほど、成績が上がることになります。こんな不合理な経済体制はないでしょう。
 これは、私が勝手に悪口を言っているのではありません。スターリンのあと、ソ連の指導者になったフルシチョフが、党の中央委員会総会で、“重さ第一主義”の不合理さを怒って、何回も演説や報告をしているのです。……
 実は、私たちは、“重さ第一主義”のソ連型経済による被害を、ベトナムで目撃したことがあります。七〇年代の後半、アメリカの侵略戦争に打ち勝って、ベトナムが平和を回復したとき、経済建設の援助に経済調査団をベトナムに派遣しました。調査団が農場に行ったら、ソ連から贈られてきた田植え機を使う現場に出くわしたそうです。ベトナムの人たちが大事に扱っているのですが、なにしろ重さが成績の基準というソ連でつくられた田植え機ですから、田んぼにもっていくと、ずぶずぶ沈むというのです(笑い)。それでもせっかくの贈り物だからというので、ベトナム側で田植え機の両側にボートをつけた。その助けで浮くことは浮いたんだが、今度はそのボートが、植えた苗を次々となぎ倒してゆく(笑い)、結局、使い物にはなりませんでした。
 七〇年代の後半といえば、スターリンが「新経済政策」と市場経済をやめてしまって四十年から五十年ぐらいたった時期のはずですし、フルシチョフが怒ってからでも二十年近くたったころですが、依然として“重さ第一主義”の経済体制が続いていて、その被害をベトナムにも及ぼしたということのようでした。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-11-14/13_0401.html

 市場を使わない計画経済が「重量化」をもたらし、それがトラクター生産に何か影響を及ぼしていないのかと思ったのだが、その話は本書の中にはなかった。

*1:物を牽引する車であり、土壌と接する部分に車輪・履帯を用いており、乗用型・歩行型・無人型があり、動力源をさまざまな作業に容易に接続でき、動力源が内燃機関である、という定義というか特徴付け。本書p.3-6。

*2:愛知県三河地方における「オペレーター経営」は「稲作生産の地域組織化と広域型営農集団――愛知県、吉良吉田営農組合」 http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/kiho/pdf/kiho48-1.pdf を参照。