コナリミサト『凪のお暇』1

凪のお暇 1 (A.L.C. DX) 最近『たそがれたかこ』とか『傘寿まり子』とか『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』とか、自分の人生を見つめ直してリセットする解放感について描かれた話を好んで読んでいる。今回とりあげる『凪のお暇(いとま)』もその流れで読んでいる。


 『凪のお暇』の主人公、大島凪は28歳のOLだが、空気を読みまくり、自分を徹底的に抑圧してきた。職場にも、オトコにも、そして世間全般に。
 都合よく残業を押しつけられたり、一方的な「彼氏」に公表も結婚も迫れず性的奉仕だけをさせられたり。


 モノが言えない、というふうにまとめていいだろう。

空気
読んでこ

が自分の中の合言葉……というより呪文である。
 「空気読まなきゃ」でなく「空気 読んでこ(読んでいこう)」という呼びかけ調なのは、自分の中で自分が分裂しているからだろう。
 凪は、自分の日常に「なんだかなぁ」という違和感を覚えている。
 しかし、それを押し塞ぐかのように「空気 読んでこ」という呼びかけが入り、自分の本当に言いたかった不満や言い分を飲み込んでしまう。もう一人の自分――上位自我なのか、分裂した人格なのか、とにかくそういうやつだ。


 凪はある日、糸が切れたようにそれらをすべて捨ててしまう。職も、住居も、人間関係も。
 しかし、突然人間が根本からすべて変われるというわけではない。
 そうやって多くのものを断捨離した後でも、買い物をした小松菜の計算を間違えられていたのを言い出せない凪。
 そんな「どうでもいいこと」に、激しい逡巡を覚えながらも、思い切って言い出す。そうしてみたら、怖いと思っていたレジの人が平謝りになり、やはり怖いと思っていた買い物に来ていたおばさんたちも優しくフォローしてくれた。

 そんな「どうでもいいこと」をクリアしただけで、凪の見える風景は今までと違う。「嬉しい」というつぶやきの後に凪はこう思う。

さっき八百屋で
起こった
出来事は

今までの
私だったら
絶対見れなかった
ものだ

 もちろん「そんなどうでもいいこと」をクリアした後には、仲良くなったとたんにモノを売りつけようとする「友だち」、支配欲の強い昔の「彼氏」、不親切極まる「役所」……と、ぼくでさえもなかなかそこはクリアできないだろうと思う壁の数々と対決する。

強く
出れないのは
この笑顔が
崩れる瞬間が
怖いから

 わかる
 読んだ空気を壊せないのは、人の役に立ちたいという気持ちを裏切りたくないせいだろうか。それとも、うまく断る技術がないせいだろうか。あるいは、自尊感情がなくて目の前のはかない人間関係にすがっていたいからだろうか。


 学校時代には、わけもわからず、とにかく生活と学習をする人間集団に放り込まれて、それが人生のすべてだと思わされるから、その人間関係の牢獄から精神的に脱出するのにとても苦労する(特に中学生時代)。
 しかし、そのもっとも危険な時期を脱して社会に出れば、そこは仕事という目的のために集う集団だから、本来こうした人間関係に悩まなくてもすむ空間のはずである。どんなに人間として好かないやつだろうが、仕事という共通目的に限定したゲゼルシャフトなら我慢できる……というタテマエのはずだけど、現実はそうもいかない。
 社会一般であっても、会社であっても、家族であっても、「モノが言えない」という状況にぼくらはとりかこまれる。

NOを言う自分と個人の尊厳

誰も教えてくれない 大人の性の作法(メソッド) (光文社新書) 坂爪真吾・藤見里沙『誰も教えてくれない大人の性の作法』(光文社新書)を読んでいて、藤見が更年期の女性への処方としてであるが、

まず、できないこと、やりたくないことに「NO」を言う。今まで我慢してきたことに、片っ端から「NO」というサインを出す。そして「NOを言う自分」「何かを嫌だな、と思う自分」にはいつでも「OK」を出してあげるようにしてください。私たちは、誰かにダメ出しをされる前に、勝手に「NO」を強いていることが意外と多いのです。(坂爪・藤見前掲書p.120)

と述べている箇所があり、本当にそうだなと深くうなずいた。
 この藤見の指摘は、NOを言うことそのものが自分を肯定し、自分の尊厳を守るほどの重大な問題だということを気づかせてくれる。
 凪が格闘し、つかみとろうとしているのは、まさにその「NOを出すこと」なのだ。


 いま立憲主義が話題になっているけども、よく言われるのは、立憲主義によってめざすべき究極の憲法価値はなんなのかと言えば、それは「個人の尊厳」だとされる。日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」こそがそれだというわけである。

「個人の尊重」原理は、人権保障にとっての基底的原理であるというだけでなく、日本国憲法が採用するすべての価値の基底に置かれるべきとして理解しなくてはならない。(浦部法穂憲法学教室 全訂第2版』日本評論社、p.40)

日本国憲法のもっとも重要な規定はどこか」と聞かれれば、個人の尊重を定める13条こそが、他の憲法の理念を貫く思想を示すものとして、真っ先に挙げられるべきでしょう。(伊藤真伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門』中経出版、p.68)

 町内会、PTAと個人的に体験してきたけど、個人の尊厳は「NO」と言うこと、「NO」と言えるかどうかに現代ではかかっている、といっても過言ではない。
 言えないからそいつの責任、という話ではない。
 しかし、ブラック企業でも「NO」と言えるようなサポートやエンパワーをどうやって実現するのかが個人の尊厳を守るためには大事な条件になる。

モノを言う力

 モノを言う力、だとも言える。
 凪が、小松菜の勘定が間違っていますよ、とレジの人にモノを言う。
 凪が、ハローワークでぞんざいに自分が扱われていることに、勇気を持って「急いで欲しい」と告げる。
 そういうことが言えるかどうかだ。
 旧陸軍の対馬の部隊での生活を描いた大西巨人の小説『神聖喜劇』の中で、主人公・東堂太郎が、「モノを言う」シーンは実に多い。その一つひとつが今のぼくにとっての生きるモデル、憧れのようになっている。例えば、戦友たちが家から送られてくる服(毛糸の胴着など)を着たいと思いながらいつも諦めているのを東堂は見て、軍隊の内規(内務規定)を根拠にして着用を許すように上級者(上等兵)に進言する。こうした行動の一つひとつが、個人の尊厳を守ることなのだと思わずにはいられない。
 凪が「モノを言う」たびに、ぼくはそのことを思い出す。


 それは左翼組織の中であっても同じである。
 孤立した個人では無力だから、ぼくは組織に入った。
 しかし、入ったからといって、いつでも「空気を読んで」同調しているわけにはいかない。細かい点であっても、それが自分という個人の尊厳と衝突することはモノを言ったり、NOと言ったりしたい。そして、細かい点だけでなく、根本的な点について意見を述べることで「笑顔が崩れる瞬間」が訪れたとしても、自分に思うところがあれば、モノを言ったり、NOと言ったりしたい。
 そういう感覚にとらわれてきているのは、高校生以来のことだ。
 組織に出会う前に、個人の尊厳のことばかり考えていたあの時代に戻ったような奇妙な高揚感がある。
 といっても、それは組織体を捨てたり、単純に否定したりして、昔の「一匹狼」に戻ることではない。
 やはり個人では無力であるから、組織というものがなければならないし、組織の人たちと協力しあうことは絶対に必要になる。そうでなければまた個人の尊厳も輝かない。


 同じように、凪はただ孤立して強くなっていくのではなく、誰かに頼ることや、他人と協力することで、個人の尊厳を回復する必要があるはずだ。2巻以降、NOを言ったりやモノを言ったりするだけではない、依存したり協力したりする新しい凪が見られるのではないかと期待する。
 ただ、そうであるにしても、いま凪がきっぱりとNOを突きつけていること、モノを言っていることに、本当に、心の底から爽快感を覚えている。