薬師院仁志『社会主義の誤解を解く』


 2011年11月23日付の朝日新聞に、日本共産党の委員長である志位和夫が東大教授の宇野重規にインタビューされている記事が載っていた。資本主義の限界ということで、マルクスを志位に語らせている。


 宇野は、

私は19世紀の政治思想史が専門なので、コミュニズムやソーシャルという言葉がどう変化してきたかに関心があります。

とのべている。宇野の問題意識はこうである。

共産主義を現代的に再定義する必要はないでしょうか。最近、ソーシャルビジネスという言葉をよく聞きます。かつてソーシャルといえば社会主義の薫りがしましたが、いまは非営利の活動のソーシャルといわれ、魅力的な形で再定義されています。コミュニズム共産主義とは、何かを共有し、真の平等を図るのが本来の意義だと思うのですが、現代では何を一番共有したいのか、何が真の平等と考えるのか。それこそ魅力的な再定義が必要では。


社会主義の誤解を解く (光文社新書) この「共産主義の再定義」という問題意識は、最近よく見る。
 薬師院仁志社会主義の誤解を解く』(光文社新書)がそれだ。

社会主義共産主義

 こちらは宇野とは逆である。
 マルクス流の共産主義も、私有財産否定と完全平等を夢想した古くからある共産主義思想と、マルクスがうちたてた社会思想を区別し、後者を前者とは異なった近代的な社会主義として再定義する。再定義、というか、マルクスの意図を正しくくめば、ぼくもこの区別には賛成である。前者はマルクスが批判したところの「粗野な共産主義」そのものだ。

ただマルクス共産主義社会主義と同類だと見なすならば、逆の言い方もまた成り立つだろう。すなわち、社会主義は、マルクス共産主義と同類だということになるのである。となると、夢物語型の古い共産主義埒外に置けば――狭量な党派意識に拘泥されない限り――社会主義共産主義を区別する必然性は、ほとんど存在しないことになる。だから、究極のところ、どちらの語を用いるのかは、恣意的な選択に過ぎないのだ。ただ、夢物語的な共産主義が現に存在する以上、それとの区別を明確にするためには、社会主義という語を中心的に用いた方が誤解や混乱が少ないと思われるのである。(薬師院p.50-51)


 思想と運動の分野で言えば、「共産主義」はマルクス主義のことであり、それは社会主義のいちグループである、という意味では完全に同意する。


 薬師院がこの本で長々とやっているのは、19世紀以降の社会主義の思想と運動の歴史の解説である。よくこんな本を新書にしたなとびっくりする。社会主義の思想・運動史としての本書は、ひとことでいえば「社会主義マルクス主義とイコールではない」ということだ。そしてそれだけなのだ。このことを言いたいがために、マルクス主義への無意味とも思える悪態が随所に出てくる。「客観的で中立的立場から理解」(p.5)などと自らのスタンスをくり返し措定しながら、実際には冷戦期あたりに社会民主主義や民主社会主義の立場からよく語られたマルクス主義への憎悪をなぞり直している。


 たとえば第一インタナショナルの出発点にはナポレオン3世の資金が出ている、とか、レーニンは敵国ドイツの援助でロシアに帰国して革命をおこした、とか、そういう「事実」が繰り返し強調されるということにどんな意味があるのだろうか。
 いやこれ「事実」だもん。「事実」なんだぜ。「事実」にもとづいた話をしようよ。「脱神話化」だ! とかいうことなんだろうけど、こんな側面ばかり描かれていてもインタナショナルが当時なぜ発展したのか、ロシア革命がなぜ干渉戦争と内戦を戦いぬけたのかがさっぱりわからないだろう。


 つまり、いまは尾羽打ち枯らしてしまったものが、なぜ当時隆盛をきわめたのか、という視点。ソ連社会主義そのものについてもこういうことはいえる。本書を批評したソ連史の学者である塩川伸明は次のように書いているが、示唆深い。*1

 そうした人たちはそもそもソ連についてほとんど触れようとしないし、触れたとしても極度にカリカチュアライズした像で満足している。「あんなヘンテコで、馬鹿げた、どうしようもないものと、われわれとを混同されてたまるものか」という意識がそこには感じられる。「あんなもの」と「われわれ」を区別したいと考えるのはよい。だが、「あんなヘンテコで、馬鹿げたもの」の実態を具体的・現実的に明らかにしていくなら、実は、そこには「われわれ」と類似の要素があったことが分かるかもしれず、だとすれば、その敗北は「対岸の火事」ではないということになるかもしれない――このような反省が、多くの場合、きれいさっぱり抜け落ちているのである。


 もし現実のソ連が、今日多くの人が想定しているカリカチュア通りのもの――暴力と強制のみに立脚した独裁、市場や貨幣の役割を全否定した超集権的な指令経済等々――だったなら、それは七〇年はおろか、ほんの数年さえも持ちこたえられなかっただろう。それが現に数十年間存続し、その歴史の中にはある種の「成功」を誇ったり、また相対的「安定」を現出した時期もあったのは、「現存した社会主義」が抽象的図式通りの純粋形の存在ではなく、大なり小なりハイブリッドな存在であり、各種の矛盾をかかえながらも、それを何とかやりくりして生き延びる存在だったからである。もちろん、それは最終的には行き詰まったが、そのような結末が最初から決定づけられていたということはできない。そのような安直な理解では、その歴史を「他山の石」とすることはできない。

http://www.shiokawa.j.u-tokyo.ac.jp/ongoing/shortreview/TakeuchiYakushiin.htm

 薬師院は社会主義思想が労働運動や民衆から切り離された存在だったことをさんざん書いた後で、ドイツの社会主義労働者党が急激に躍進した話を書く。
 そこで描かれているのは、マルクスが『ゴータ綱領批判』を書いてアイゼナハ派とラサール派の合同に反対したがマルクスの意図を裏切って躍進したんだぜ! へへん! ということだけなのである。つまり「マルクスの意図の失敗」として描かれるだけなのだ。薬師院は、マルクスの盟友、エンゲルスが同党の躍進を手紙でくり返し喜び、というか小躍りしていたことなどおよそ書かない。
 そもそもエンゲルスが晩年に、社会民主党社会主義労働者党が改称)の幹部・カウツキーに書いた文章(今日では『エルフルト綱領批判』と呼ばれるもの)では、今度の綱領草案ってさあ、前(ゴータ綱領)よりえらくよくなったじゃん!と褒めそやし、そのうえでいくつかの直しを施しているのである。マルクスの意図が裏切られて社会民主党が躍進したというのであれば、その後なぜその盟友のエンゲルスが評価した綱領にそって社会民主党が躍進したと書かないのか。
 そしてエンゲルスが死の間際に書いた、マルクスの『フランスにおける階級闘争』への序文になぜ触れないのか。

その〔ドイツ社会民主党への選挙での支持――引用者注〕成長は、まるで自然過程のように、自然発生的に、恒常的に、制止しがたく、同時にきわめて穏やかにすすんでいる。これにたいしては政府の干渉もすべて無力なことが明らかになった。もう今日でもわれわれは二二五万人の有権者をあてにすることができる。この勢いですすめば、われわれは、今世紀の終わりまでには、社会の中間層、小ブルジョアや小農民の大多数を獲得して、国内の決定的な勢力に成長し、他のすべての勢力は、欲すると欲しないとにかかわらず、これに屈しなければならなくなる。(エンゲルス『フランスにおける階級闘争』序文、大月版ME選集p.212-213)


 エンゲルスはこの後死ぬ。*2レーニンエンゲルス社会民主党の側から自陣に引きはがしてしまったことによってこの発言は忘れ去られているかもしれないが、これをドイツ社会民主党にたいする「予言」として読めば、実に素直にそれが今日では実現されていることがわかるだろう。薬師院にとっては都合が悪いことこの上ない事実である。だからそれには触れられない。議会主義の要素がマルクス主義の始祖たちに存在したと読者に感づかれては、自分の立論の基盤が崩壊するからだ。



 第二インタナショナルの崩壊につながった、第一次世界大戦をめぐる評価でも、「祖国防衛主義は現実主義的で、それに反対したレーニンたちは夢想・幻想派」というのはどうにもお粗末すぎる。
 自国防衛の論理に反対するのは「ユートピアのような幻想」(p.190)という悪態をつく薬師院であるが、ここでも反対派が一定のリアリティをもった根拠にはほとんどふれていていない。のちに第三インタナショナルを結成することになる流れが一定の影響力をもったのは「これって帝国主義戦争だろ? 大義なんかひとかけらもねーよ。お前らブルジョア同士の利権戦争に駆り出されて死ぬ気?」という露悪的リアリズムがあったからである。


 マルクスレーニンをこきおろすのに忙しくなるあまり、「なぜそうした運動が広がっていったのか」という側面を書くのは貧弱の極みだ。本末転倒というしかない。

 

社会主義の誤解は解かれたか

 さて肝心のテーマ、「社会主義の誤解を解く」ということは、一体本書ではどうなっているのか。
 薬師院は、社会主義の定義を

社会主義とは、生産活動が私的なカネ儲けの手段と化さないよう、それを理性的な意思決定の下に統制することである。もっと平たく言うと、何をどれだけ生産するのか、その価格はいくらで、労働時間や賃金はどのくらいなのか等々を、私的な自由意志や無規制な市場原理に委ねず、人民の参政権が及ぶ機関が全て決定するということである。(薬師院p.16-17)

とする。これは本の冒頭に出てくる記述だが、コミュニストを自称するぼくでさえ、実にタイトな社会主義規定だといわざるをえない。この規定の前半はまだいい。問題は後半だ。なにしろ「価格」や「労働時間」「賃金」を「人民の参政権が及ぶ機関が全て決定する」というのだから。


 当の薬師院が「ソーシャル」「ソシアル」の価値が大いに認められていると述べているヨーロッパ、その中心勢力である社会民主主義は、およそこんなキツい経済体制をとっていないのではないか。このような経済体制は、旧ソ連をイメージそのものであり、それを社会主義だというならそのような規定こそ「社会主義の誤解を広げる」ものだと言わねばならない。


 そして長々と社会主義の思想と運動の歴史を書いてきた後に、あまり論理的な脈絡もなく、ヨーロッパがソシアルとリベラルの二項対立によって動き、「ソシアル」、すなわち「社会(主義)的なもの」という思想は社会に根を張っているのだと力説される。日本語の今のニュアンスでいえば「社会主義的」というより、「社会連帯的」とか「共同的」ともいうべきものであろう。むしろ社会主義と親和性の高い「ソシアル」よりも共産主義と親和性のある「コム」とか「コミュン」のような言葉のほうがしっくりくる。
 そして「ソシアル」の価値が根を張る欧州に比して、日本はトホホな状況だといって、社会党社民党)と共産党を批判している。
 薬師院の日本社会党批判はソシアルの価値の軸をもたない寄り合い所帯であったことだとしているが、それはまあわかるとしても、日本共産党批判の方は「共産という価値が有名無実化してしまった」というものだ。えーっと、薬師院自身がマルクスの「共産主義」を社会主義に溶融させてしまったんだから、薬師院的には何も問題ないと思うんだが……。


 薬師院は「ソ連みたいなものが社会主義じゃなくて、ヨーロッパでは社会主義的なものが社会を支えているように、本来いまでも生きている価値観なんだよ。それには長い歴史があるんだよ」と言いたかったのだろう。
 しかし、(1)薬師院の冒頭の社会主義の定義と、(2)社会主義的な価値観がヨーロッパで根を張ったということと、(3)日本ではなぜそれがうまくいっていないのか、があまり整合的に語られておらず、「社会主義の誤解を解く」という問いの解決は成功していないといわざるをえない。


 このことは、前述の塩川の本書への批評の一言が正鵠を射ている。

しかし、本書のタイトルは「ヨーロッパにおける社会主義の歴史」ではなく、「社会主義の誤解を解く」となっている。そして、「はじめに」には「社会主義とは何か」という副題が付いていて、日本でこの点に関する誤解が横行しているのを正すのだと主張されている。このような課題と本論の内容のあいだにはズレがあるといわなくてはならない。本書の基本的な主張は、ソ連・東欧のいわゆる「社会主義圏」が滅んだ後もヨーロッパ諸国では今なお社会主義勢力は健在だという指摘にある。これ自体は一応妥当だが、そのことの意味について考えるためには、単に「あれこれの国ではまだ健在だ」というだけでは議論として不十分である。つまり、書物の狙いとされるものが本文では十分達成されていないのである。

http://www.shiokawa.j.u-tokyo.ac.jp/ongoing/shortreview/TakeuchiYakushiin.htm

 タイトルに即してこの本からせいぜい得られるものは、「社会主義マルクス主義だけじゃなくて社会民主主義もあるよ」というこの、ひいふうみい、28文字で十分なんじゃないだろうか。

*1:というかこういうソ連への向き合い方はぼく自身にも反省を迫るものだといえる。

*2:5ヶ月後。