これなんですけどね。
東京ディズニーランドに行くという理由で保育園の行事を休ませるか、激しく迷い中 - Bygones !
http://alstroemeria.hatenadiary.jp/entry/2017/09/26/061553
子どもの意見聞けよ、というのが最適解とは思うけど、もしもまじめな保育園なら「保育園を優先させようぜ」、ってあえていいたい。「まじめ」という前提つきで。
ぼくの娘の体験でしかないが、その範囲で書く。
小学校とちがって、娘が「保育園に行きたくない」と言ったことは、まずなかった。0歳から同じクラスで*1家族のように気心がしれた集団だったので、「なんでも言い合える」という関係がすでにあった。
そうしたなかで、先生たちは相当熱心に年齢ごとの課題を設定し、さらに一人ひとりの発達や成長の課題を見すえて、その年度にどういうイベントを節目にしてそれを促すかを考えていた。そのすべてではないが、ことあるごとに保育士・保育園がいまこのクラスでなにをめざしているかを懇談会などで話してもらった。
たとえば、年長クラスのときは、縄をあんで縄跳びの縄をつくるのを年度のはじめにやった。なかなか面倒な作業で、しかもまちがえて最後で気付き、なきながらほどいてやった子どももいた。そういうときに、まわりの子が間違いを途中で指摘したり、やり直しているときにコツを教えたりしているのだ。このプロセス自体が、だれかを批判したり、ほめたり、共同したりすることであり、それをうけとめて子どもたちは作業をする。
縄をあむことは個人的な作業だが、保育園では発達や成長は孤立したものではない。集団のなかの個人である。個人は集団のなかで成長する。つまり友だちとのつながりのなかでいろんなことを学ぶのである。
先生たちからは「家の都合などで休むことはできるだけさけてほしい」というお願いがあった。たとえば縄をあむという作業を一人だけ遅れてしまうとか、そもそも真剣に縄をあむことそのものからはずれてしまうとか、そういうことになってしまうからだ。
あみあがった縄で、こんどは走りながら跳べるようになるところまでみんなで鍛えあう。そして運動会をむかえるのである。そのとき、運動会というイベントを欠けさせてしまうことは、成長の結節点となるべき発表の場を失い、友達との楽しい共同の記憶を欠けさせてしまうことになる。(むろん当日病気になることだってあるんだから、どうしても出られないということはあるだろう。)
まじめな保育園ならそこまで考えているにちがいない。
そうでない保育園はそこまで考えていない。ただのお遊戯であり、ただのイベントなのだろう。保護者に共有するプロセスがない段階で、おそらく「そうでない保育園」なのだと思う。
いや。「そうでない」ということは「まじめでない」ということになり、「まじめでない」という言い方は、ぼくが自分の経験にしばられすぎている言い方かもしれない。別にそういうことを保育園に求めない人はたくさんいるしな。
いずれにせよ、そこまで考えている保育園はあるのだ。
保育園がそのイベントにどんなことをかけているのかを聞いてみるといい。たいしたことがなければ休ませればいいし、十分な思い入れと意図があれば、ぼくは、親がTDLはあきらめて保育園行事に参加させることを優先させたほうがいいと思う。
(こう書くと、熱血・集団主義の人間みたいなんだけど、そういう方針の保育園を選んだのであれば、そのことをちゃんと理解して尊重したほうがいいよ、ということにすぎない。子どもがそこから離脱する自由はもちろんある。)
*1:最初5人でだんだんふえて最後は20人。