選挙演説は誰に向けてやっているか?
選挙活動を応援することが多い身として思うことは、選挙での演説は「自分の立場に近くて、投票を迷っている人、投票行動をしそうな人」に向けてしゃべるのが目的だということだ。これを「投票迷い層」と名付けよう。
逆にいうと「政治に全く無関心」という人は対象になっていない。これを「完全無関心層」と名付けよう。
選挙活動などに応援に来てくれる人のうち、これまでそんな活動をしたことがない人からときどき出される意見として、候補者のビラや演説などが難しいとして、もっと関心のない人にも知ってもらうような中身にしようというものがある。
選挙では時間がないので「投票迷い層」に向けて訴えることが基本になっている。「完全無関心層」に関心を抱かせてしかも自分や自分たちの党派を選択してもらうまでに至るには手間とコストがかかりすぎるので、対象外にしてしまうのだ。
例えば、「投票迷い層」に向けて「消費税を5%に減税を!」というビラや演説はできる。しかし、そもそも「政治に全く無関心」な人にまず自分たちの話すことに耳を傾けてもらうには、もっと手前のアプローチが必要になる。
貧弱な知恵で申し訳ないんだけど、例えば路上で「完全無関心層」の若い人に話を聞いてもらうためには、よく「ブラック企業の演説とかをしてだね…」的なアイデアが出されると思うんだけど、それで「完全無関心層」の足が止まるかどうかは微妙じゃないだろうか。むしろ、バケツドラムの「大道芸」でも見せた後に、集まった人にチラシを配ったり、一言「訴え」をしたほうがいい。「完全無関心層」にとっては、「政治宣伝」も、「大道芸」も、他の刺激的な娯楽も、まったくフラットに扱われているのだから。
もちろん、「完全無関心層」をめがけてボールを投げ、広い層がごっそり投票してくれるということもある。だから、こういう戦略区分は固定的なものだと考えてはいけない。
しかし、「投票迷い層」と「完全無関心層」の間に、もう少し別の層が存在するのも事実である。
本書、上西充子『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』(集英社)は、そのような別な層をめがけているような気がする。
国会パブリックビューイングとは
国会パブリックビューイングは、簡単に言えば、街頭で国会質問と答弁の様子をそのまま切り出し、簡単な解説を加えて、視聴者に国会のありようを見て、考えてもらおうとする試みである。
「そのまま切り出し」と書いた。
一種のダイジェストであることは間違いないのだが、インパクトのある短いシーン(答弁や質問)を「切り取る」のではなく、あるテーマについての質問側と答弁側のやり取りをそのまま「切り出す」のである。
めちゃくちゃな答弁を「切り取る」ことはインテーネットやテレビなどでもよくされているけども、上西はこの方式をとらない。なぜかと言えば、一つはそのカットの仕方が「恣意的」だと思われてしまうから。もう一つは、短時間すぎる「切り取り」は、見ている人から考える時間を奪ってしまうからである。
一つのテーマについてのやり取りそのものを手を加えずに「切り出し」て、考えてもらおうというのだ。
運動論としての本書
本書の第2章から第4章までは、そのような方法をなぜ採用するのか、どこにこだわってどんな層に訴えかけようとするのか、といういわば運動論である。
……国会審議映像の前後に挟んだ私の説明のなかでも問題点を指摘しているが、できるだけ評価の押し付けにならないように努めた。
「こういうものだから危険だ」というメッセージを投げかけるのではなく、映像から自分で読み取ってもらう――そのほうが、受け取る中身は、より主体的につかみ取ったものになり、より深く受け取ってもらえる。(本書p.88)
けれども、渋谷の場合、あまりにも人通りが多すぎて、立ちどまって見てみようと思う人がいたとしても、後ろから歩いてくる人の妨げになるために、立ちどまりにくいような状況だった。そういう場所でとにかく多くの人に一瞬でも目を向けて見てもらうことと、この松本駅前の街頭上映のようにじっくり見てもらうことの、どちらが大事だろうか。私たちは、後者だと思ったのだ。(本書p.90)
上西は、文字になった「議事録」ではなく、映像によって豊かに伝えられる細部があるのだと主張する。言い淀みや言い直しによって、政府(答弁側)がどのような印象操作をしようとしているかがわかる。あるいは、嘲笑を入れることで、議員側の質問をバカにしようという細部も読み取れるのだとする。
裁量労働制の拡大の審議の際に、森本真参院議員(民進党)が「過労死を考える家族の会」の声を紹介して質問をした時、加藤厚労大臣は、次のように答弁する。
あの……ま……どういう認識、どういう認識のもとで(笑)ですね、お話になっているのかということがあるんだと思いますけど
上西はこの「どういう認識のもとで(笑)」を取り上げる。
本来、笑いをまじえて語るような内容ではない。にもかかわらず、加藤大臣は、「どういう認識のもとで(笑)」と笑いつつ答弁した。偏ったデータに依拠して偏った認識をお持ちの方々だ、と言わんばかりの笑いだった。……私たちは厚生労働省の調査データによって、より正しく現実を見ているのだ、という印象を与えることが目的であるかのように、「どういう認識のもとで(笑)」と笑いをまじえて答弁したのだ。(本書p.78-79)
実は、加藤の答弁は、のちに「深くお詫び」するハメになるデータをもとにしたもので、政府側こそが偏った恣意的データを使っていたことが明らかになった。
だが確かに裁量労働制の拡大という具体的なテーマからすれば、のちに「お詫びする」ことになったデータを持ち出した部分こそ問題なのだが、答弁における詐術というか印象の操作がどのような「きめ細かく」行われるかを実感するのなら、まさに加藤の笑いの部分、「どういう認識のもとで(笑)」の部分こそが広く国民に知ってもらいたい部分なのだ。
どのような層をターゲットにしているか
上西が国会パブリックビューイングでターゲットにしたい層というのは、扇動で行動するのではない層、全く無関心というわけではない層であり、そのなかでも、「政治にある程度の関心は持ちながら、自分の頭でよく考えて物事を決めたいと考えている層」なのではないか。これを仮に「中間層」と呼ぼう。
今ぼくは「中間層」について、「自分の頭でよく考えて物事を決めたいと考えている」としたが、それは必ずしも自覚的なものではない。上西の本の中に、テレビの国会中継を見ているけども頭にきてチャンネルを変えてしまう人がこの国会パブリックビューイングを視聴していった話が出てくる。国会中継をいったんは見ようとするほどには政治に関心を持ちながら、その関心がうまく満たされないような人なのだ。つまり「自分の頭でよく考えて物事を決めたいと考えている」と当人があらかじめはっきりと意識しているわけではない。でもそんな層が上西のターゲットにする「中間層」、国会パブリックビューイングに足を止めて見入ってくれる層だと思っているのではなかろうか。
これは「投票迷い層」と「完全無関心層」と無関係なことではない。
はっきり投票行動には行くけども、「雰囲気」でそれを決めてしまうような人たち、あるいは「強い言葉」に押されて決めてしまう人たちは、実は、民主主義にとって本当は危険なのかもしれない。右であろうが左であろうが。
熟議を基盤とするように民主主義を深化させるには、国会の議論をじっくりと見て、自分の頭で考えて結論を出せるような人を育てなければならないだろう。
いや、その「育ててもらう対象」にはぼくも入る。
昔ぼくが入っていた平和運動のメーリングリストで、必ず法案の全文を読もうとする人たちがいた。自分たちが反対している法案を読みもしないのに「反対」などできないではないかと。まことにその通りだろう。じゃあ、ぼくが今国が出している法案を全部読んでいるか、少なくとも大きな社会問題になっている法案を読んでいるかといえば読んでいない。そして国会審議にも目を通してはいないのである。
国会審議の解説が求められている=本書のキモ
ぼくは映像かどうか別にして、国会や地方議会の議事録というのは、いい質問の場合は、それを読むだけでも「面白い」と考えている。
だからこそ、今度出したぼくの本でも1章まるまる地方議会での議事録を使った。議事録を「切り出し」て少しだけ解説を加えた。まさに「紙上パブリックビューイング」である。
編集者も面白がってくれたし、何より質問した本人に献本したら「いやー、解説がついたら、こんなに面白い質問を自分はしてたんだなあって気づいたわ」と「汝の価値に目覚めて」いただいた。
国会や地方議会の議事録っていうのは、実は「面白さ」の宝庫である。しかも著作権法第40条*1によってどんどん利用できる。これを使わない手はない。
本書の中で上西が次のように述べていることが、実は本書のキモではないかと思う。
街頭上映を続けてきて、新たにわかったことがある。それは、国会審議の解説が求められているということだ。(本書p.171)
上西自身が解説を加えるだけでなく、国会の運営についても詳しい人に解説を入れてもらったりしたようだ。
スポーツの中継で実況者や解説者がいるようなものである。
この機能が、今の日本には圧倒的に不足している。
池上彰のような立ち位置とでも言おうか。
専門家(研究者)でその機能(啓発・教育)を持っているのが一番いいのだが、わかりにくいことが少なくない。そこをわかりやすく解説できる人が民主主義の基盤を固める役割を担えるのではないか。
国会審議をわかりやすく解説する、という点にこそ、ぼくは国会パブリックビューイング運動の最も大事な点、本質があると考える。
結局上西は、そしてぼくらは、国会をどうしたいのか?
上西は、「ご飯論法」に象徴されるめちゃくちゃな安倍政権の国会答弁を監視していく重要性を説きつつも、
仮に政権が交替して、いまのような国会審議の状況が改善されたとしても、私たちはやはり、「国会におまかせ」であってはいけないだろう。国会を正常化し、社会をよりよくすることに、少しずつでも関与し続けることが大切だろう。(本書p.214)
とする。
つまるところ、上西は、そしてぼくらは、いったい国会をどうしたいのだろう?
すべての法案をすべての国民が深く読み、関われるわけではない。そんなことは無理だ。
上西は、憲法12条を引きながら、次のようにその意義を書いている。
主権者は私たちであり、私たちが不断の努力によって、憲法が保障する自由や権利を守り続けなければいけないのだ。誰かが自由や権利を保障し続けてくれるわけではない。憲法が保障すると言っても、その自由や権利が侵されているときに、それを回復する努力をするのは私たち自身なのだ。(本書p.215)
この見解が間違いというわけではないし、大きくは賛同できる。
ただ、失われてしまう自由や権利を不断の努力によって守る、という課題として国会パブリックビューイングがあるか、というと少し違うような気がする。その意義づけはあまりに切迫感がありすぎるのだ。
自分が関心を持っている具体的な問題で、国会(地方議会)パブリックビューイングをやってみる、議事録を読んでみる、というような運動は、自分の頭で考えて結論を出せるような人を一人でも増やしていく、もっと地道な、長期的視点での運動ではなかろうか。別の言い方をすると、安倍政権の詐術を暴き、それを見抜く人を多数にしていくというような当面の運動にはひょっとしたら迂遠すぎるかもしれないのだ。そのような効果も期待しつつ、熟議を基盤とするように民主主義を深化させていく、もっと気の長い運動であるような気がする。
*1:「公開して行われた政治上の演説又は陳述及び裁判手続……における公開の陳述は、同一の著作者のものを編集して利用する場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。」