親しい人が死んだ直後、その親しい人が自分の生活圏や労働圏の中にいて突然いなくなったような場合は、そこに生々しい残り香のようなものがある。言葉通りに「香り」であることもあれば、記憶や思い出のような何らかの痕跡を象徴的にそう呼ぶ場合もある。
上野顕太郎『さよならもいわずに』には突然亡くなった妻の匂いが寝具に強く残っている描写があって、それがこれから絶対的に消えていってしまうことに焦燥を抱き、執着する様子が描かれる。
あるいは筒井康隆「佇むひと」は反体制的な発言をした人間が植物にされてしまう世界なのだが、植物にされて道端に植えられた直後は人間そのままなのに、次第にそれが植物のような見かけ・意識になっていく様が描かれる。
いずれも、今そこにあったはずの人間として生きていた確かな痕跡がどんどん、しかも、確実に消えていくことのつらさのようなものが描かれている。
小池定路『キラキラしても、しなくても』は男子高校生たちを描いたオムニバスで、ペアで描かれる二人の男子の間の恋愛的な感情が基軸になっている。
その下巻の中に「せたとなかのとたかでら」という短編があり、事故で死んでしまった中野という男子高校生に対して、その友人であった世田がいつまでも執着するというストーリーである。
数週間経つと学校では誰も中野のことを話さなくなる。生きている人は日常を続けなければならないし、それほど親しくなければそれは当たり前のことなのだ。
だが、いまだに受け止めきれない世田は、「そういうの中野がよくやってたよなー」などと級友の会話に突如持ち込んだりして、座をしらけさせてしまう。
世田は中野と同じ部活(サッカー)だった高寺に話を聞いてもらう。
高寺とつるみながら、世田はいつも中野のことを思い出し、中野の仕草を高寺に重ねてしまう。
これじゃあ ただ 思い出に上書きしてるだけだ
高寺と何かする度 中野のことを思い出すんだ
中野のことを忘れようとしても それはただ
中野としたことを高寺に置き換えているだけだ
こんなの… 二人に対してあんまりだ
最低だ 俺は
だが、高寺は思い直すように世田を説得する。
高寺は、幼い頃、妹をベランダからの転落事故で亡くし、それを境に両親が不和になっていくのを間近でみてきたのだ。幼かった高寺は戸惑うだけだったが、結局時間が経つにつれて次第に解決し、両親の間にも会話が戻り、妹の話もできるようになったのだという。
つらそうにしている世田をみて、高寺は放っておけなかった。
置き換えでも何でもいいから、世田につきあってやろうじゃないかという気持ちである。
その人の痛みやつらさを、はたから見ている人がすぐにどうこうできるわけではない。だけどそばにいて、話したり、話さず遊んだり、そんなことをしているだけでいいじゃないか、という気持ちが、形になって見えてきたとき、当事者もそうだけど、その創作を読んでいるぼくらも、やはりなんとなくうれしいではないか。
少なくともぼくはうれしい。
いま、ぼく自身がつらい境遇にあることを知ってくれている人が、何かできないでしょうかとはっきり言ったり、あるいははっきりとは言わないけどそんな気持ちがうっすらとわかるような感じで接近してきたりしてくれる。
それはやっぱりうれしいのである。
本作の絵柄はぼくの温度設定にちょうどぴったりだ。
耽美的というほどでもないし、セクシャルな空気に満ちているわけでもないし、かといって劇画的なリアルさに寄っているわけでもない。
程よい抽象と性的な空気、他方で、男子高校生の骨格を筋肉をさりげなく強調する描き方が、ヘテロセクシャルではあるけど、自分の中のどこかに同性愛的な気分を持っているぼくには心地よく読めた。