藤原道長『御堂関白記』

 吉田戦車のエッセイコミック『出かけ親』を読んでいたら、こういうシーンがあって、うむ、我が家と同じではないかと思った。

吉田戦車「出かけ親」/小学館ビッグコミックオリジナル」 2024年11号より

 「虎に翼」と「光る君へ」をどちらも一家で見ているが、厳密にいうと、前者は娘が、後者はつれあいの関心が薄い。ぼくはどちらも熱心に見ているので、この吉田の描写のようになる。

 上記のコマで表されているような吉田の(マンガ的な)見てくれとか、家族の構成とか娘や配偶者との距離感も絶妙に「我が家」で、前作『まんが親』のころから、なんだか人ごとではない共感をもって読んでいるのである。

 さてそのように朝ドラにも大河にもハマっているぼくであるが、どちらにより強い魅力を感じているかといえば、「光る君へ」の方だ。

 そのあたりの一端は下記の記事で書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 さて、そんな中で藤原道長という人物にも興味が湧いてくる。

 恥ずかしながら彼の日記『御堂関白記』にはほとんど関心がなかったし、関連して倉本一宏『藤原道長御堂関白記」を読む』(講談社学術文庫)を読んで自筆本が残されていて、同書が世界記憶遺産になっていることを知ったという有様である。

 『読む』の方は、シロウト向けにではあろうが、文献学的な考証がされていて、ミステリーを読むような謎解きの面白さがある。

 が、ぼくは、そもそも『御堂関白記』そのものをテキストとして読んだことがないので、それを味わってみたいと思い、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシック」シリーズの『御堂関白記』を読むことにした(繁田信一編)。

 これはいわば「抄本」である。

 道長の日記は「漢文」で書かれていて、それを古文で読み下したものと、現代語訳、そして簡単な解説やコラムが付いているという至れり尽くせりの初心者向けの古典である。

 まず、現代語訳と読み下しの古文があることについて。

 中身を読むだけなら現代語訳だけあればいいように思えるが、ぼくは(全部ではないが)古文を声に出して風呂とかと読みたいタイプなので、読み下しの古文があることはどうしても欠かせなかった。しかも本書はまず現代語訳から入っていて、意味をわかってイメージを浮かべた後に、読み下しの古文を読むようになっているので、ちょっとした古文を読む練習にもなる。しかもメモ的な日記なので、1つの記事がめちゃくちゃ短い。現代で言えば、手帳にメモするような感じであろう。

 次に「漢文」。

 これはぼくのような初心者にとっては確かになくてもいい。どうせよくわからないからである。

 しかしこれはこれで実は面白さがある。解説で道長の「漢文」能力をメッタ打ちにしているのが笑える。例えば999年8月23日の日記の解説はこうだ。

…つまり、道長が記した「参内院給」という漢文は、文法を全く無視した、かなりの悪文なのである。

 そして、『御堂関白記』の場合、まともには読み下しようのない悪漢文がみられるのは、何もここだけの話ではない。実を言うと、『御堂関白記』に残された藤原道長自筆の漢文は、その少なからぬ部分が、常識的な訓読法では読み下し得ないような、何とも個性的なものであり、言葉を選ばずに言うならば、ずいぶんとでたらめなものなのである。(p.52-53)

 今ぼくは、英語の練習と思って、手帳を英語でつけている。急いでいる時やどうしてもわからないところは、日本語で書いているが、別にわかったつもりや時間がある時だって、書かれている英文は怪しいものが多い。

 「娘と眼医者に行った」とか、I went to eye doctor with my daughter. みたいな感じなのである。かなりやばい

 当時の英語的な教養に当たったのが漢文だから、たぶん道長もそんな感じだったのだろう。

 かの『源氏物語』において、主人公の光源氏は、その息子の夕霧に対して、中級貴族家の息子たちにも劣らぬほどに懸命に学問に励むことを強いる。が、この仕打ちに夕霧が多大な不満を持ったように、王朝時代において、名門貴族の御曹司というのは、学問などはろくろくしないものであった。そんなことをしなくても、親の七光りによって幾らでも出世することができたからである。しかし、光源氏が危惧したのは、まさにその点に他ならなかった。すなわち、夕霧に蛍雪の功を積ませた光源氏は、かわいい息子を、読み書きも満足にできないのに官職や位階だけは立派なバカ息子にはしたくなかったのである。

 だが、現実の王朝貴族社会には、光源氏のような父親など、そうはいなかったらしい。少なくとも、道長の父親の法興院摂政藤原兼家が息子に勉学を奨励するような賢父ではなかったことは、『御堂関白記』から道長の学力のほどを窺い知る限り、全く疑うべくもないところであろう。(p.53)

 さんざんな言われようである。

 本書の解説はここだけでなく、随所に道長の作成の「漢文」への批判が登場する。

 道長があんまり勉強しない人だったかどうか、その真偽はいろいろあるんだろうけど、ぼくはこんな具合に解説がめっぽう面白いので、それだけでぐいぐいと読んでいけると思うのである。

 

 一見すると「貴族のメモ的日記」なんて全然面白そうじゃないと思わないか?

 だけど、この解説があるおかげで、「へえ、当時の社会はこんな風習になっていたのか」とか「ドラマに出てくる人間関係は、日記ではこうなっていて、それを解説者は全然違う感じで解釈してるんだなあ」と様々に楽しめるのである。

 もう2、3例を挙げてみよう。

 

子供の死体

 内裏の床下からボロボロになった子供の屍骸が出てきたというのに、藤原道長をはじめとする人々が問題にしたのは、その屍骸によって発生した穢(けがれ)をどう扱うかということだけであった。こうした事実に出遭うと、王朝時代の人々の有していた価値観がわれわれ現代人の持つ価値観とは大きく異なっているということを、改めて思い知らされるものである。(p.60)

 死だけでなく出産も穢だった。別の日の日記では、邸内で犬の出産があって「穢(けがれ)」が発生しちゃったので、それを広めないために自宅に引きこもってイベント参加を中止している。現代でいうとインフルエンザのような感染症にかかったみたいな感覚であろう。

 

藤原顕光(のちの右大臣)の扱い

 誰かを訪問するに際しては、やはり、事前の連絡は必要であろう。特に、高い地位にある人物を訪ねようとするならば、相手に無用の恥をかかせないためにも、必ず一報を入れてから出かけるべきなのではないだろうか。それは、今も昔も変わるまい。

 しかし、こうした社会常識にさえ疎かった藤原顕光は、当時の貴族社会において、ほとんど誰からも侮られていたのであった。

 顕光…。「光る君へ」では宮川一朗太が演じていて、無能感が確かに漂っている。NHK解説でも

道長の一回り年長の公卿(くぎょう)。儀式での失敗など、その無能ぶりはしばしば嘲笑されていた。

などと書かれ、やはりNHKサイトの倉本の解説でも、

顕光は、非常に無能な人物としてみんなから馬鹿(ばか)にされており藤原実資の日記『小右記』には、従五位下に叙爵されたときから愚かで馬鹿にされ続けたと書かれています。

まず、彼は頑固です。当時は儀式のやり方がまだ固まっていないのですが、主には“道長風=九条流”、または、“実資風=小野宮流”のどちらかの流儀で行われていました。そんな中で顕光は、「私の家にも流儀がある」と主張したくて、自分のやり方を強引に押し通しています。しかも、自分のほうが名門だと思っていますから、ほかの人から間違いだと指摘をされても頑なに変えません。そして道長よりもずっと年上であるため身体(からだ)などが衰えてきており、儀式の最中によく転んだりしています。やる気はものすごくあって儀式を軽んじるようなことはないのですが、たびたび失敗をするので、みんなから嘲笑(ちょうしょう)されています。

つぎに、行動がとても軽率です。例えば、伊周が僅かな期間、一条天皇から内覧を許されて権力を握りましたが、その際にはすぐに伊周のもとへお祝いに駆けつけています。また敦明親王東宮となった際には、自分が春宮大夫(とうぐうだいぶ)になるとみんなに触れ回っています。道長の異母兄である道綱も無能な人物としてみんなから馬鹿にされていますが、道綱の場合は“勉強できていない”というかわいそうな事情があります。顕光と道綱は二人とも無能という評価を受けていますが、顕光と道綱とでは無能さの質が違うと思います。…

 

――顕光は、知識はあったけれども、やる気が空回りするタイプの方だったのですね。

そうですね。顕光は、やる気と権力欲はすごくあるけれども、優秀であるとは言い難い、少し困った人物だと思います。

と言われ放題である。

 それでも道長政権のナンバー2になったのだからすごい。

 

伊周の評価

かつては政権担当者の座をめぐって藤原道長と激しく争った伊周の息子が、道長の娘〔彰子〕の推薦で叙爵にあずかることになったのは、当時の道長が、もはや、伊周には何の脅威も感じていなかったためであろう。(p.108)

 この解説は1004年(寛弘元年)の正月の日記についてのものである。「光る君へ」では道長は伊周に対してまだまだ「ぜっさん脅威感じ中!」てな具合なのでこのへんはドラマと解説者の解釈の違いが如実に出ているところである。

 

道長は機嫌悪かった?

御堂関白記』に「宿」という投げやりな記述を残した道長は、その日、さぞかし機嫌が悪かったことだろう。(p.167)

 原文(漢文)では

終日雨下。宿。

これだけである。ここからそこまで読み取ってしまうのは乱暴とも言えるが、読み物としては面白い。

 

身内びいきなのかよ

 知章というのは、長く藤原道長家の家司を務めていた中級貴族であり、その忠誠を天皇にではなく藤原道長にこそ捧げていたような人物である。したがって、そんな知章が豊かなうえに都の近くに位置していた近江国の受領国司に任命されることになったのは、どう考えても、それを道長が望んでいたためであったろう。近江国の人々が上京して知章の善政を讃えたなどというのは、知章の近江守再任を正当化するために仕組まれた茶番に過ぎまい。当時、近江国の受領酷使に任命されることを望む中級貴族は、掃いて捨ててもきりがないほどいただろうから、朝廷の事実上の最高権力者であった道長も、何かしら知章こそを近江守に任命する口実がほしかったのだろう。

 そして、自身の日記の中でこんな嘘まみれの陳述をした道長は、この頃には、明らかに恣意的で不公正な身内優先の人事を実現することを、いまだ幾らかの後ろめたさを感じていたのかもしれない。(p.236-237)

 国家の大局を見据え私(わたくし)を排するという公平さで描かれる大河の道長像とはずいぶんと隔たりがある。

 「近江国の人々が上京して知章の善政を讃えたなどというのは、知章の近江守再任を正当化するために仕組まれた茶番に過ぎまい」って、現代で言えばこういうこと?

www.yomiuri.co.jp

 まあ、とにかく、この解説の解釈が一義的なものではないだろう。それを重々承知の上で「道長の日記に楽しんで触れてみる」程度のものとして読んだ。隅から隅までというわけではなく、パラパラと楽しそうな、興味のあるところをめくって読むような感じで。