カズオ・イシグロ『日の名残』

 オンライン読書会で読むことに。

 

 カズオ・イシグロを読んだのはこれが初めてである。

 

 1956年のイギリスが舞台。主人公はダーリントン卿の屋敷であったダーリントンホールの執事のスティーブンスである。ダーリントンホールの主人は今やアメリカの富豪(ファラディ)に替わったのだが、スティーブンスは引き続きそこの執事を務めつつ、ファラディの好意で休暇をもらい、ファラディの車で旅に出る。

 スティーブンスがファラディに手紙を書くというなかなか凝った体裁の文体。戦前のダーリントン邸の思い出とともに、その屋敷でともに働いた女中頭だったケントンに会いに行くまでの話が綴られている。

 

 

 まず、スティーブンスの風貌のことが気になった。

 一体どんな感じの人なのか。

 『銀河英雄伝説』のコミカライズにおいて、名将ヤン・ウェンリーをどう形象化するかを道原かつみが描いているが、初めは“田中芳樹先生をもとにして…!”みたいなことを提案し、本人に却下されたと聞いている。……いやあ、却下されてよかったんじゃないですかね。

 『神聖喜劇』のコミカライズにおいても、主人公・東堂太郎は、ぼくにとってはもはやのぞゑのぶひさの描くあの東堂しかありえない。 

 『神聖喜劇』の敵役である大前田班長は、小説では「丸顔」というような形容が出てくるのだが、のぞゑは積極的に無視している。「ソ連不敗論者」である曾根田も小説では「猪首」とされているのだが、のぞゑが描く曾根田はちっとも猪首ではない。でももうぼくの頭の中ではのぞゑの描く大前田や曾根田で固まってしまっているのである。

 

 コミカライズするかどうかとは別に、頭の中でどういう人物として再生されるのかは、読者がどういうイメージで主人公をとらえているのかを規定しているといえよう。

 スティーブンスについて、ぼくはどうしても「ストラヴィンスキーの若い頃」のような風貌が頭に出てきて仕方がないのである。

www.tokyo-harusai.com

 それでこの本を読んだことのあるつれあいに聞いたら、「は…? スティーブンスってもっと年取ってるっていう設定でしょ…」と一蹴されてしまった。

 確かに、戦前の経歴を考えれば、現在のぼくよりも上の年齢だと言える。60を超える頃だろうか。

 では『Under the Rose』のウェルズのような人なのだろうか。

船戸明里Under the Rose (10) 春の賛歌 』(幻冬舎コミックス)p.105

船戸前掲

 

 うーん、ウェルズって、こう、硬軟併せ持つ感じなんだよね。物馴れているっていうか。

 あるいはやはり『Under The Rose』の執事であるロージかといえば、こちらは老獪すぎるような気がする。表情が読めない。 

 本作の主人公スティーブンスは、立派な執事なんだけど、ジョークを繰り返し練習してしまう生真面目な不器用さがある。几帳面というか、クソ真面目というか。

 だから、どうしても「若い頃のストラヴィンスキー」で脳内再生されてしまうんだよね。

 

 二つ目に、思ったことは、旅についてだ。

あの場所で、あの景色をながめながら、私はようやく旅にふさわしい心構えができたように思います。胸の内には、その日初めて健康な期待感が湧き起こってまいりました。(本書kindle32/306)

いま申し上げましたように、私はこの問題をこうした観点から考えたことはありませんでした。これも、旅のもつ効用というのでしょうか——長年にわたり徹底的に考え抜いたつもりだった事柄に、思いがけず、驚くほど斬新な視野が開かれるというのは……。それに、1時間ほど前のちょっとした出来事も、こんなことを考えるきっかけになったのだと存じます。小さいながら、私を落ち着かない気分にさせる出来事でした。(同141/302)

 旅、特に一人で長い時間過ごす旅は、本当にいろんなことを考えさせる。

 最近もぼくは激しい抑圧を受けながら、自転車でかなり長い距離、一人の旅をした。人生を見つめ直すことにもなった。その時に、全く思いがけないようなことが頭の中に浮かんできたりしたし、旅そのものが「健康な期待感」にあふれていた。だから、こうしたスティーブンスが旅を楽しんでいる感じ、しかも落ち着いてそれを楽しんでいる感じがなかなか心地よかった。

 

 小西弘信は、本作について次のように書いている(小西「カズオ・イシグロの『日の名残り』における一考察」*1)。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390293943115709824

 

本作品のタイトルは "The Remains of the Day" であり、これは「日が暮れる前のひととき、一日で最も素晴らしい時間」を意味する。ウェイマスの海辺で偶然出会った男がスティーブンスに語った言葉の中にも "The evening's the best part of the day.”(「夕方が一日で一番いい時間なんだ」)と出てくる。この言葉に読者はタイトルと何か関連すると気づくだろう。物語の背景の時代に沿って言えば、夕暮れ時は、象徴的に、大英帝国が時代の変化に抵抗できなく解体する時と解釈することもできる。(小西上記)

そして物語を通して、イシグロは、一人の初老の執事の旅に起きた奇跡のように、 初老にさしかかったものなら誰にでも訪れる人生の「日の名残り」のとき、自らの人生を再生させる奇跡を得られる可能性があることを、やはり伝えたいのではないだろうか。それが彼の『日の名残り』の創作の意図ではないだろうか。(同前)

 スティーブンスは、自分が尽くしてきた主人(ダーリントン)が対独宥和の売国奴のように歴史評価をされようとしている中で、旅の中で自分の人生を振り返っている。ぼくも、自分が人生をかけて献身してきたものが、こんなにひどい壊れ方をしているとは思いもよらなかったという感慨を受け取りながら旅行をした。

ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意思でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?(カズオ・イシグロ日の名残り』p.297、早川書房 Kindle 版)

 

 

 人生が無駄だったと思いたくないので、必死にそうではないという総括をしてみるが、そうであったかもしれない、というような諦観に達してみると、しみじみとしてくることもある。いや、まあ「人生が無駄だった」というふうにはぼくの場合思ってないけども、あまり必死で否定せずに、そういうこともあるかもしれないと考えてみる程度なのだが。

初老にさしかかったものなら誰にでも訪れる人生の「日の名残り」のとき、自らの人生を再生させる奇跡を得られる可能性がある(小西前掲)

というようなことはあるのかな、あればいいな、とか思ってみる。

 この小説はそういう「あればいいな」ということを、初老に差し掛かった読者であるぼくに静かに説得している、欲望的な小説なのである。

 

*1:2022年2月『広島文教グローバル』第6号所収。