人生最悪の年

 今年は人生で最悪の年だった。仕事でも家庭でも。

 もちろん、来年はそんなことがないようにしたいのだが、「『最悪だった』なんてのんきにブログに書けていた頃はよかったな〜」などという具合に「最悪」を更新することもないわけじゃない。

 何をしていても前向きな気持ちが生まれないとか、いつも不安に苛まれているとか、そんな感情に支配されるようになるとは思ってもみなかった。もちろん、そうした精神状態というものがあるということを本では読んで知っていたが、やはりどこか他人事だったんだろう。

 本当に苦しいな、これは。

 こんなに苦しいとは思っても見なかった。

 

 イスラエルに何年も捕らえられたパレスチナ人や、共産党圧政下で苦しむ香港政治犯などが、牢獄に閉じ込められたりする孤立感や絶望感というのは、こういう「体を蝕むような精神的抑圧」(おそらくぼくが体験しているプレッシャーの数倍、数十倍)と一体で行われるんだと想像すると、暗澹たる気持ちになった。

 想像力が足りていなかったなと思う。

 

 ぼく自身も、体や精神が壊れてしまっては元も子もないので、全てを投げ捨てて休んでしまう、遠ざかってしまう、というのも選択肢だなと思う。

 

 大西巨人神聖喜劇』を読み返す。

 おそらく知的障害がある二等兵を「模擬死刑」にしていたぶって楽しんでいた下士官や古兵たち(仁多軍曹ら)。それを見るに見かねて「やめてください」と声をあげた主人公・東堂らが逆に糾問される。

 東堂らを救おうとさらに声をあげた村崎一等兵と同僚の二等兵たちの自然な感情としての連帯。

 ところが、「模擬死刑」のいじめをしていた仁多軍曹らはなんら咎め立てされず、それに反抗した村崎や東堂らがあわや陸軍刑法上の罪に問われそうになり、最終的に「重営倉」送りとなる。

 どこかで見たような光景だなとぼんやりと読む。

 

 ぼくが読み返しをして印象に残ったのは、村上少尉である。

 村上少尉は、のぞゑのぶひさがマンガ版で描く村上の風貌を見ても涼やかに描かれている通り(下図)、この小説の中で、「最も開明的な将校」としてしばしば登場する。例えば実家から送られてくる防寒のための衣類を軍隊の規定に従って「身につけてもよい」という改革を後押ししたりする。

大西巨人・のぞゑのぶひさ・岩田和博『神聖喜劇』6巻、幻冬舎、p.145

 しかし、村上は、この「模擬死刑」騒動で、村崎を「党与抗命罪」だと非難する急先鋒になる。また、その過程で、東堂の同年兵・冬木が表明した思想——自分は戦場に行っても人殺しはしない、鉄砲は空に向かって撃つと表明したことについて「我々帝国軍人が全力を挙げて叩き潰すべき徹底的反軍非戦思想だ」と厳しく批判する。

 村上の「開明」さは、古い帝国主義者に対する新興帝国主義者の「開明」「合理」でしかない。

 それゆえに、「模擬死刑」で二等兵をいたぶった軍曹たちにはその「開明」さは発揮されず、むしろ村崎や冬木、東堂らの行為を、軍隊という組織を根底から破壊する最悪のものとして敵視した。それは、軍人としては全く正しかったのである。

村上少尉の“広義理想主義”的“触角(アンテナ)”は、冬木の言説から“最も悪質の敵性思想”を鋭敏にも感受し、併せて村崎古兵を“党与抗命罪”の“首魁”と過敏に見做したとたんにたちまち鈍磨し仁多班長らの至極没義道(もぎどう)な“むさくきたなく候”振る舞いには不感症を発したとみえた(前掲p.144)

 一見「開明」そうにみえる人物が、組織体の根本が揺るがされているかもしれぬという思いに駆られて、非道で不合理な行為に目をつぶり、その告発者をむしろ圧殺にかかることは、このようにしてすでに『神聖喜劇』で予見されている。

 そして、それをぼくは目の前で見るのである。

 

 来年は良い年でありますように。