村崎一等兵のセリフを読む

 ここ数年続いていることは毎日の筋トレと、風呂場での大西巨人神聖喜劇』の朗読である。

 対馬での軍隊生活を描いた『神聖喜劇』の方は、もう何べんも読み返しているが、今は光文社版文庫本の第2巻、主人公の東堂が対馬には大きな軍隊が駐留しているのになぜ買売春の施設がないのかをいぶかるシーンのあたりを読んでいる。

 

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)

  • 作者:大西 巨人
  • 発売日: 2002/08/01
  • メディア: 文庫
 

 

 構成上少し変わっていて、東堂が上級者にインタビューをするかのような記述がずっと続く。

 『神聖喜劇』を朗読していて、一番読み応えがあるのは、北部九州の言葉での会話が続くシーンで、ここはまさにそれである。

 

 東堂が好感を抱いている村崎古兵のセリフは、切れ目がほとんどなく、啖呵のような小気味よいリズムとアグレッシブな調子があり、読んでいてクセになる。

 次にあげるのは、村崎一等兵が、神山上等兵の「売春婦」問題での見解と彼の日頃の振る舞いを批判するくだりである。

 ***ははぁ? この部隊にゃ離れ島やら平戸、島原、天草へんやらの貧乏農漁村出身兵が多うして、そいつらが、みんなけちん坊のしみったれじゃけん、余計なことにゃ金を使わん、樽田に女郎買いにもよう行かん、それでここじゃ女郎屋が発行せんとじゃろう、ちゅうとか。そりゃ、東堂の考えじゃのうして、人から聞いたちゅうとじゃな。物事にやかましゅうして頭の冴えとる東堂は、それを聞いて、どげな気持ちがしたとか、おれのほうがお主にたずねたいごたぁるぞ。まぁええわ。ふん、どなた様が仰せられたとか知らんが、恐ろしゅう高等な御意見じゃねぇ。うんにゃ、まるで見当が違うとるとは、おれも言わん。ある意味じゃ、ちゃんと当たっとって、なかなか穿(うが)っとるとかもしれん。ばってん、東堂。……よし、一つおれが、作り話ばして聞かしょう。ええか、作り話ぞ。……その離れ島の一つの対馬でじゃな、厳原(いずはら)かどこかに元小百姓兼漁師の転業して開いたちっぽけな雑貨屋か何かがあったとして、そこの死んだ先妻の小伜(こせがれ)が村崎なんかとおんなじごと「親の貧苦のそがために」小学校しか出られんじゃったとして、——おれが上の学校に入られんじゃったとは、家が水呑み百姓のせいだけじゃなしに、わが頭が悪かったせいでもあったろうが、——むかしその小伜の叔父貴がやっぱり尋常小学を出るとすぐから朝鮮に渡って丁稚奉公なんかしながら大きゅうなってじゃよ、いまじゃ京城でまぁまぁかつがつ食うにゃ困らん程度かそれよりもちょっと増しなぐらいの文房具店をやっとるとして、——これが、神山——、うんにゃ、その小伜に言わすりゃ、その場その場の風の吹きまわしで「一流会社の常務」てろの「大デパートのマネージャー」てろのちゅうことになるとらしかぞ、——高等小学を一年きりで止めにゃならんじゃった小伜がこの対馬におったちゃ先行きどげな捗々(はかばか)しい見こみも立たんちゅうことでその叔父貴の住居(すまい)を足がかりに京城行きをしたとして、その男が小僧やら給仕やらの勤めで何年間か辛抱した果てに徴兵検査のころにゃ京城の何物産とか何商事とかちゅう二流か三流の会社の事務員になられたとして、——これも、その男に言わすりゃ、「京城で指折りの株式会社の高級サラリーマン」なんちゅうことになるとじゃ、——その男が以前わがそこからずらかった生まれ故郷の貧乏離れ島に現役入隊のために立ちもどって来たとして、さてその現役兵が百姓でも漁師でも職工でさえもございません「大都会」の「高給取りサラリーマン」でございますちゅう顔様(かおよう)の口の先で——へっ、下手にひっくり返った仁徳天皇じゃあるめえし、——そげな高御座(たかみくら)から見下ろしたごたぁる土百姓家に生まれて育った貧相な鍛冶屋のガンスイがそれを聞いたとしたら、そのおれはよか気色にゃならんじゃろう——むっとするじゃろう、ちゅう話よ。……うんにゃ、それがそげな奴の口から出たとじゃのうても、恐ろしゅう高等な御意見じゃちゅうおれの感じに変わりはなか。誰が言うたとにしても、なにさまおれはよか気色じゃ聞かれんごたぁる。(前掲p.395-397)

 ***うぅむ、ちょいとグラグラシタ〔癪に障った〕とじゃったが、そげんハラカイタとも大人気(おとなげ)なかったろうねぇ。あぁ、おれは、東堂にハラカイタとじゃなかとぞ。それに、その話を東堂がすらすらっと受け入れとったとかどうか——、たとえすらすらっと呑み込んどったにしたところで、そりゃ育ちのええ東堂としちゃ無理もないとかもしれん。……なんや。……ふむ、お主の育ちのよし悪しはあとまわしにしといて、まぁ聞け。おれも、なんぼか僻(ひが)んどるとじゃろう。ちゅうても、その「高級サラリーマン」閣下に僻んどるじゃないぜ。そうたい、その神山上——、うんにゃ、その男にも感心な点はある。まだ高等小学一年を修業したばっかりの年端も行かぬ身空で、二親の——うん、それも片一方は継(まま)おっかさんじゃ、——その二親のそばを離れて、知らぬ他国に出て、何年も他人のめしを食うて、——その間に踏みはずしてドマグレテ〔堕落して〕どげんもこげんもならんやくざ者になっとっても、そりゃ世の中にようあること、格別奇妙でもなかじゃろうに、——それどころか、その艱難辛苦の中で苦学ちゅうとか独学ちゅうとか学問もだいぶんした模様の、とうとう二十一、二の時分にゃ、いちおう人前で上級学校出の人間たちとも五分(ごぶ)の見かけに人がましい理窟の二つ三つはしゃべられるごとなって、二流にしろ三流にしろともかくも朝鮮にも内地にも支社とやら出張所とやらを幾つかは置いとる株式会社の京城本社で——こりゃ嘘ごとじゃなしに——正社員か準社員かになっとるとじゃけん、「貧すりゃ鈍する」の多いこの浮き世では、なんちゅうても感心なこと立派なことと言わにゃなるめえ。どうしてどうしてそりゃ誰にでも叶うちゅうごたぁることじゃなか。えらいもんよ。むつかしい言葉で言うなら、進取の気象か立身出世の志か、そげなとを、その男は、人なみ以上に持っとるとにちがわん。頭も悪うはない。もしその男が大人しゅう大様(おおよう)にして落ち着いとるとじゃったら、おれにしても誰にしても思わず知らず感心もする尊敬もするちゅうことにならじにゃおられるんじゃろう。そうじゃろうが?(同前p.397-398)

***うん、そうじゃねぇ。まぁ、そげなことよ。ばってん、その男が、口を開けりゃいつも大風呂敷を広げて、わがむかしの骨折りやらなんとか試験合格やら、わがいまの「高級サラリーマン」やら立身出世やらを、嘘まこと七分三分のちゃんぽんに吹聴したり、わが今日の身の上は百姓でも漁師でも職工でさえもございませんちゅう本心鼻高高の口の先で、いかさま下下(しもじも)の実情にも深い理解があると言わんばかりの恐ろしゅう高等な御意見を宣(のたも)うたり、しよるごたぁる調子じゃ、なんぼか世間で成り上がったにしたっちゃ、せっかくの苦労も勉強も結局のところその人間の仇にゃなっとっても実になっとらんとぞ。うぅ。(同前p.398)

 

 最初はただ読むだけであるが、うまくスルッと読めると気持ちがいい。次第に、あるいは2回目には感情を込めてみる。

 職場には同じ福岡出身でない同僚がいるが全く北部九州の言葉には染まっておらず「標準語」を喋る。ぼくは北部九州・福岡県の出身ではないから、当然こうした言葉は自分にとって「お国訛り」ではない。だけど、ぼくの場合、職場や、子どもが通っていた保育園から持ち込まれてきた「外国語」のようなものとして、朗読でうまく言えるとなんとなく嬉しい。

 『神聖喜劇』の中に出てくる訛りは、軍隊言葉(上記で言えば「ガンスイ」=元帥はその一例。ぼーっとしている愚か者のこと)を除けばだいたい日常で接するけども、「〜てろ、〜てろ」という並列を表すであろう「てろ」はほとんど聞いたことがない。誰か聞いたことがあれば、どのあたりの言葉なのか教えてほしい。

 村崎の言い回しが、少し芝居掛かった、古風な感じになっているのも、「言ってみたくなる」原因である。「親の貧苦のそがために」はもろに文芸表現であるが、「もしその男が大人しゅう大様(おおよう)にして落ち着いとるとじゃったら」の「大様」とか、「『大都会』の『高給取りサラリーマン』でございますちゅう顔様(かおよう)の口の先で」の「顔様」とか、「いかさま下下(しもじも)の実情にも深い理解があると言わんばかりの恐ろしゅう高等な御意見を宣(のたも)うたり、しよるごたぁる調子じゃ」とか、などはそうである。

 

 特にここのくだりは、最初に村崎が神山を貶めておいて、しかし全く同じことを見方を変えて称揚してみせて、最後にもう一度おとすということをやっていて、同じことがこんなふうに言えるし、全く逆さまに見えるんだ、と実に味わい深さを覚えるところだ。

 『神聖喜劇』は他にも、漢語を駆使して書かれている法律談義の部分や、東堂が論争している部分は、妙に硬くてこれも朗読すると独特のリズムがあり、ハマる。

 他方で一向になれないのは、古文で書かれた部分で、これは日中に辞書やネットで読みかたを調べたりするのだが、それでも難しく、読み進められないのである。そのくだりにくると朗読が嫌な人の気持ちがわかる。

 騙されたと思ってあなたも朗読してみるといい。

 っていうか、誰かと『神聖喜劇』の朗読会をやりたい。コロナ下でアレではあるのだが、終わってからでもいいから。

 

 いつかリアルで、村崎のような感じで啖呵を切ってみたい。