桑野隆『生きることととしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』

 村西てんが『教え子がAV女優、監督はボク。』を読んでいたら、冒頭にバフチンが出てきた。

村西てんが『教え子がAV女優、監督はボク。』1、小学館、p.11

 この作品は、タイトルの「教え子がAV女優、監督はボク」という最も反倫理的と思われる状況に向かっていくストーリーやシチュエーションに対して、様々な倫理の言葉を駆使してそれに取り組んでいく…のか、それとも単にそういう建前のアクセサリーなのかはご自身で読んで判断してほしいのだが、とにかくそういうものなのである。

 もともとバフチンには興味はあった。あったけど、著作ひとつ読んだこともなく、少し前に解説らしいものを斜め読みした程度であった。

 それで結局著作そのものを手に入れられず、解説書である桑野隆の本書『生きることととしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(岩波書店)を読み、リモート読書会の課題にもした次第である。

 

 この本には特徴がある。

 というのは、バフチンは文学研究が中心にその活動は多岐にわたる分野に及ぶために、総合的な思想家として見なされている。そういうバフチンの全体像の中で「対話論」という一部分だけを取り出して解説したのが本書なのである。バフチンそのものは「対話の哲学」のようなものを展開したわけではなく、彼の立論全体の中に「対話主義」と言われる要素があるとされているのだ。

 たとえて言えば、(いや、それがわかりやすいたとえになっているかどうか知らないが)マルクスという広範な領域をカバーした人物のうちで、その思想の中にある「弁証法」だけを抜き出して解説にしたようなものである。

 

対話とは何か

 「Ⅰ  対話的人間」を読むとバフチンの「対話」とはぼくらが日常でイメージする二人で会話することではなく、個人と個人との間にある「交通」「相互関係」全体のことを指している。だから、取り立てて「対話」をするかどうかが問題ではなく、人間は誰かに依存して生きている社会的な存在である以上、必ず「対話」をしていることになる。

 ここでモヤッとしてしまう。何か特別なことを言おうとして、逆に平凡極まることを言っているような気がするのだ。

 「バフチンの対話主義」などと言えば、「対話が大事だとバフチンは言ったんだろ」という当為論ふうにとらえてしまいがちなのであるが、ここで言えば、バフチンはそのような「〜であるべきだ」的なことを言ったのではなく、客観的な状況の指摘をしたんだということになる。

 まずここ(Ⅰ-1)は狭い「対話」ではなく、個人と個人の相互関係・相互作用ということを指してバフチンは対話を捉えているという点だけをおさえる。

 その上でⅠ-2に入ると、個人と個人は相互作用のうちにあり続けるのだから、永遠に未完であり、決定づけられないことがわかる。しかしそのことを人はつい忘れて相手を固定した「キャラ」にしてしまう。モノ扱いする、物象化してしまう、ということだ。

 ぼくらはそんなふうにまずとらえないよね。そんなことはない、相手をモノ扱いなんかしていない、と言い張る向きもあろうが、キャラ化してモノ化する方が便利だから、そういうふうにとらえるのが日常だ。

 だけど、相手は相互作用の中で変化している。永遠に変化していて終わりがないのである。

 みなさんのなかには、相手の深層にひそんでいる〈人間の内なる人間〉を引きだすことができた経験を有している方もいらっしゃるかもしれません。けれども、通常、それはとてもむずかしいことです。何しろ往々にして、〈内なるもうひとりの自分〉は、当人すらあきらかにできずにあるわけですから。

 バフチン自身は、それを可能とするには、相手に「対話的に染み入るしか道はない。そのとき、真の生はみずからすすんでこちらに応え、自由に自己を開いてみせるのである」とのべています(6.70)。(桑野前掲p.21)

 相手から引き出した経験はなかなかわかるまい。相手の深層は見えないのだから。だけど、自分が変わった経験ならわかる。相手の言ったことや働きかけ、存在の在りようから作用を受けて、知らなかった自分が生成されることはある。

 つれあいがChat-GPTにハラスメントの概念を聞いたところ、Chat-GPTは巷にあるようなハラスメント概念を、それらしく答えた。しかしつれあいは、そのChat-GPTに回答を読んで静かにそれに聞き入っている自分に驚いたという。つれあいによれば、もしも同じことを「人」に言われたとしたら、おそらく賢しらな、知ったかぶりな、それでいていま自分が知りたいと思っている実践的な知がないことに苛立ったかもしれない。しかし、Chat-GPTが回答を提出したとき、「ほうほうなるほど、これが世の中の平均的な答えなんだ」という感じですっと胸に落ちたという。Chat-GPTによって自分が素直にその回答に向き合い、またChat-GPTにそのような感情を抱いたことに、つれあいは驚いたのである。

 このような心の動きは、通常公開されない。自分の中で密かに起きる変化である。しかし確かにそのような相互作用を、AIからさえ、つれあいは受けたのだ。

 桑野はここでドフトエフスキーの『白痴』の主人公・ムィシキン公爵について紹介している。

 小説の主人公でこのような相互作用について思い出させるのは、『神聖喜劇』の主人公・東堂二等兵と、大前田軍曹(班長)の関係であろう。

 戦地で虐殺をしたことを誇り、東堂の反抗的な態度をいつか料ってやるぞと東堂に目をつけている、「無学」な農民出身軍人である大前田は、しかし、東堂の予想を裏切る意外な一面を絶え間なくのぞかせる。例えば、理知的・論理的に東堂を追及したり、あるいは、農民的な実感から戦争のリアルさを対峙させて軍上層部が宣伝する非リアルな虚飾を剥いだりする。

 野砲の訓練において、二番砲手となった東堂に対し、大前田はたびたび東堂を押しのけて照準を覗く。そうすると動いている標的と照準がずれていることが確認されて「お前の操作はなっとらん」と罵声を浴びせる。これが繰り返された。

 だが、東堂は幾度か同じことをされた後、冷静に大前田に具申する。砲手の頭を押しのけている間に標的が動いてしまい、ズレはそれによって生じているのであり、かえってそのズレがあることが砲手の正確さを物語っているのだ、と。

 「ふぅむ。」大前田軍曹は、白石少尉および神山上等兵のほうへむかって、『やはりそうだったのか。』とでもいうような色合いのうなずきを一つ示したのち、また私を見下ろして明言した、「よし。お前の照準操作は不正確じゃ・ええ加減じゃ、とさっき班長がお前に言うたことは、班長のあやまりじゃった。取り消す。縦線と照準点の関係は、いまお前が説明したごたぁることじゃ。ええな。——みんなも、ええか。」

 私は、「はい。」とのみ答え、他の五人も、一斉に「はい。」と叫んだ。

 それ(大前田のその明言)は、一面においては、あたりまえのこと(別になんでもないこと)のようであっても、他面においては、めったにないこと(なかなかありがたいこと)であった。それは、「地方」〔軍隊外の一般社会のこと——引用者注〕の現実においても、そうであり、まして軍隊の現実においては、なおさらそうでなければならない。私は、その不均衡を自覚しながら、「偉大な魂が人にむかって胸襟を開くのに接することほど、真の暖かいよろこびの源泉は、他にこの世にない。」という一節をすらふと思い合わせた。かつて私は、その一節を『若きウェルテルの悲しみ』の中に見つけて肝銘したのであった。(大西巨人神聖喜劇』第四巻、光文社文庫、p.429-430)

 これは一方では「おもいのほかおおくのひとがこれに近いことをやれているのではないでしょうか」(桑野p.24)ということでもあるが、他方では、東堂と大前田がお互いに厳しい緊張と敵対関係にありながら、一種の敬意をもって相互作用を、自由な心で認め合っているという姿でもある。誰でもその相互作用に触れているはずのことなのだが、しかし、それに素直な気持ちで気づくことは難しいのだと言える。

 

ポリフォニーとキャラの自立

 続いてI-3では、ポリフォニーについて述べられている。

 ボリフォニーという概念は、言葉から受ける印象として「多数・複数の(ポリ)」という点に力点が置かれているように見える。「声の複数性」というような使い方をして「文化と文化の対話」などの例として使っているが、そのような限定は「誤解」だと桑野はいう。

 まあ…バフチンはもともとどう使っていたかという遡りだから、それはそれでいいんだけど、「対話」とか「ポリフォニー」っていう言葉を選んだ時点で、それこそ相互作用が起きているんだから、「誤解」っていうのはどうなのかなとも思う。

 でもいいや、そのことは。おいとこう。とりあえず、桑野のいうところを聞こうぜ。対話主義的に(笑)。

 ここでは現実の他者ということももちろん含まれるのだが、ポイントは自分の中にある他者ということだろう。特にバフチンドストエフスキーの小説についてこれを語っているからだ。

 小説といえば、作者が神のような存在として筋書きを作り、それに合わせたキャラクターを配置し、筋書きに沿って動かしていくように思うかもしれない。

 しかしそうではない。

 登場人物は作者にとって他者として登場し、作中人物同士で相互作用=対話をするだけでなく、作り出したはずの作者とさえ他者として対等に存在し、相互作用を行うというのである。

 なんだそれは? と思う人もいるかもしれない。

 しかし、例えば、羽海野チカの次のような作劇法をどう見るべきか。

ニコ・ニコルソン『ニコ・ニコルソンの漫画破り道場 破』白泉社、p.62

 羽海野は「気の弱いこの子がここでこんなこと言うかなあ…」と逡巡している。それに対してニコはそうしないとバトルにならないから、と言って、キャラクターにそのように言わせる・行動させようとする。

 しかし羽海野はキャラクターがどんなふうに動くのかを考え抜くうちに、筋書き自身が大きく変わり、それはラストさえ変えてしまう。

 神としてキャラクターに筋書きを押し付け、それに服する行動をさせようとするが、キャラクターが、神である作者に、他者として反逆するのである。

 羽海野にとってキャラクターは結局は「自分の分身」なのだと述べている。しかし、それでもキャラクターは自立する。自立するがゆえに、自立したキャラクターと対話するために、作者である羽海野は「ガラスの仮面」をつけてその自立したキャラクターを演じることになる。る。その時初めてキャラクターは自分の分身であることをやめ、自立するに違いない。

 

 桑野はドストエフスキーの中編小説「分身」を挙げて次のように述べる。

〔…〕バフチンによれば、これは「もはやホモフォニー(単声音楽)ではない」ものの、かといって「ポリフォニーでもあり」ません。「これらの声は十分に自立した実在的な声、十全な権利をもった〔…〕意識にまだなっていない。そうなるのは、ドストエフスキーの長編においてのみである」とことわっています(2.119)。(桑野p.30)

 そのポイントは何か。

バフチンとしては、作者だけが特権を駆使していることこそが問題なのです。(桑野p.34)

 作者でさえ作用を受け、変化を免れない。そのような特権が解体されて初めて、ポリフォニーとしての創作が成立するのである。

 作者=演者一人が監督から俳優までを受け持ってしまう落語やマンガのような創作では特別な困難がある。全て作者・演者である自分が取り仕切ってしまい、あらゆるものを自分の想定に従属させてしまう特権性——モノローグ主義に向き合えないからである。

 他方で、演劇はそうではない。このようなポリフォニーとしての特徴が顕著で、舞台監督や演出に対して、演者が、観客が、そして舞台全体が、極めて容易に反逆する。それについて横山旬『午後9時15分の演劇論』を題材にして、以前書いたことがある。*1

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 今「モノローグ主義」という言葉を使ったが、これはI-5にバフチンの定義出てくる。

ノローグ主義は、極端なばあい、みずからの外部に、対等な権利をもち対等に応答しようとするもうひとつの意識、もうひとつの対等な〈わたし〉(〈なんじ〉)が存在することを否定する。(極端なかたちや純粋なかたちの)モノローグ的アプローチのさいには〈他者〉は、もうひとつの意識ではなく、全面的に意識の対象にすぎないのである。モノローグは完結しており、他人の応答に耳をかさず、応答を待ち受けず、応答が決定的な力をもつことを認めない。モノローグは他者なしですまそうとしており、またそれゆえに現実全体をある程度モノ化している。モノローグは、最後の言葉であるかにふるまう。モノローグは、描かれた世界や描かれた人びとを閉じこめる。(5.350-351)

 桑野はこれを受けて人々が異論=他者との出会いを楽しむ能力・余裕を失わせているとして、次のように記す。

ノローグ支配の強まりは、異論を唱えることすら許さない不寛容さなどにもあらわれています。(桑野p.51)

 その通りである。

 こうして桑野の第I部が閉じられる。第I部はバフチンの対話論の「基本的特徴」を述べたのだというから、バフチンの対話論、対話主義とは何かを知りたければ、ここで(桑野流の説明において)概要はつかんだことになる。

 桑野によれば第Ⅱ部は「〈意識〉や〈真理〉など個々の問題にたいするバフチンの対話的アプローチ」、第Ⅲ部は「主として〈ことば〉にかんするバフチンの見解をとりあげた」ということらしいが、ぼくからすればいずれも第Ⅰ部の基本からの応用問題である。

 あとは、読んでいて重要だと思った点をいくつか紹介し、ぼくなりの考えを述べておきたい。

 

真理と政治集団

 まず真理論。

 世界に対する相対的ではあるが、客観的で正確な反映である、というのがマルクス主義者であるぼくの真理論である。

 あらゆるものを含み、そして完全である「絶対的真理」があるとして、人間はそこに到達することができない。しかし、類としてその接近を行い、相対的に無限のプロセスとして一歩ずつ近づいていく。

 このプロセスは、バフチンが唱える〈対話〉とはきわめて相性がよい。また、科学や民主主義とも親和的であることも言うまでもない。「実践による検証」を制度設計する場合も、それが現代的に適切な形をとるなら、このような真理接近の制度たりうる。

 ゆえに、Ⅱ-8の「真理も対話のなかから生まれる」という章は、まったくその通りであろう。

 だけどそれは建前だ。

バフチンはいかなるテーマについて論じるときも、〈生成〉や〈可変性〉に与しています。(桑野p.83)

というほどには、ぼくにおいては徹底していない。

哲学的モノローグ主義の土壌では、意識どうしの本質的な相互作用は不可能であり、したがって本質的な対話は不可能である。じっさいには、観念論は意識間の認識的相互作用のひとつの種類しか知らない。知っている者、真理を所有している者が、知らない者、誤っている者に教える、すなわち教師と生徒の相互関係、またしたがって教育的な対話である。(2.60-61)

 バフチンはここでは教師と生徒の関係を想定しているが、例えば政治集団においてもこうした関係は生じやすい。「真理を所有している」とされる指導者・指導部と、「知らない者」「誤っている者」=一般的な構成メンバーという対比である。

 指導者・指導部と一般的なメンバーの間に、教育的な対話(これも対話の一つではあるが)以外に、〈生成〉や〈可変性〉を生じるようなバフチン的な対話の関係が生じるのはどのような場合だろうか。

 それは「ソクラテス的な対話」だとバフチンはいう。

対話にくわわった人びととのあいだの関係のカーニヴァル的な無遠慮さや、人びとのあいだのあらゆる距離の撤廃を前提にしている(6.149)

 桑野はこれを解説して次のように言う。

ソクラテスの対話〉は「真理そのものへの関係の無遠慮さを前提としている」というのです。思考の対象への馴れなれしい態度です。不動のものであるかに押しつけてくる〈真理〉にたいしては、「無軌道」や「ちぐはぐ」を対置することも必要かもしれません。(桑野p.86)

 このような「無遠慮」は、政治集団を想定してみれば、相当に自由な関係であることがイメージされる。例えば書籍ほどの分厚い内容を、広範な他のメンバーに届けて活発に議論するようなイメージもそこには含まれるだろう。それだけでなく、それらが相互に結びついて研究会をしたり、話し合ったりすることもまた当然である。

 これは、桑野がバフチンのポイントとして、「距離の廃棄」「無遠慮さ」として繰り返し強調している点に、よく見合ったものに違いない。

 ぼくは『資本論』の学習会をやっていて、そこでチューター的な役割を与えられている。ここで「教育的な対話」の関係が存在していることは間違いない。

 そのときに、まず例えばダイレクトに、参加者から「その解釈は違うのではないか?」と指摘されることがある。ぼく自身が学者でもなんでもないただの素人——参加者よりは多少読んだことがあるという程度のアドバンテージしかない存在だから、そう指摘されれば「あー…なるほどそうですね」と思わざるを得ない。

 また、参加者がどこに感銘を受けて、どこに反応するのかということから、自分の学習会の進め方を見直したりする。それも相互作用の一つではあろう。ただ、やはり抜本的な立ち位置の見直しが迫られるような、そういう相互作用はこの学習会では考えにくいのだろうが。

教育の場にかぎらず、対話をするからには、双方ともいままでとはちがう自分へと変わる覚悟も欠かせないのです。〈対話〉は〈闘い〉でもあるのです。(桑野p.89)

 これは例えば政治的な共闘や、逆に政治的な対決にも言える。「対話」は狭い意味での「話し合い」ではなく、相互作用であるとすれば、例えば、野党共闘のあり方が根本的に変わったりすることや、自民党公明党のような現在の与党からも何らかの作用を受けて、自分自身が変わったりすることも含まれる。

 

 もっとも、バフチンのいう〈闘争〉はたがいをつぶしあうものではありません。すでに見たように、「理解しようとする者は、自己がすでにいだいていた見解や立場を変える、あるいは放棄すらもする可能性を排除してはならない。理解行為においては闘いが生じるのであり、その結果、相互が変化し豊饒化するのである」ということでした。

 たがいに豊かに変化するための〈闘争〉です。(桑野p.108)

 

 

感情移入と連帯

 次に、感情移入について。

 バフチンが作品の鑑賞や批評において感情移入に低い価値しかおいていないことは興味深かった。

 ところが、バフチンは感情移入にきわめて否定的でした。「貧窮化」とすら呼んでいます。一+一の内実が一のままでは貧しいといったところでしょうか。

 ただ感情移入するだけでは、二人(以上)が出会った意味がないというわけです。〈他者〉として出会うのでなければ、両者のあいだにあらたな意味が生まれうる貴重な機会がみすみす失われてしまうばかりか、ばあいによっては当人の自己喪失にもつながりかねない、といいます。感情移入する者は、他者としての自分の特権を存分に活かしていない、他者としての責任を十分に果たしていないといったところでしょうか。(桑野p.101)

 これはすでにバフチンの「対話」概念からすればよくわかる話だ。

 自分とは違う他者と出会い、相互作用し、自分を永遠に変えていく相互作用の中に置くことが「対話」であるとするなら、他者性を捨て相手と同一化してしまうのだから、ありゃりゃ貧しくなったちゃったよ、と残念がるのも無理はないのである。

 しかし、ミクロにその行為を見つめてみれば、どうだろうか。

 まったく境遇が違うと思った物語のキャラクターに感情移入してしまうのは、他者としての距離をおいていた存在から、そこに自分との共通項を見つけて近くに引き寄せるわけで、その時本当に、完全な同一化をしているのではないはずである。いわば自分が変化するフックとして感情移入があるわけで、そっくりそのまま他者になってしまうわけではあるまい。他者に自分との共通をみる「連帯」と同じ行為である。

 初めは、完全に相互作用なき他者だった。そこに自分との共通性を見出し、自分に引き寄せる。そのとき自分は、自分を俯瞰し、客観視し、自分を変えているのではないだろうか。例えば性被害者の声を聞いて、自分は性被害者ではないけども、自分が受けた暴力の被害、あるいは抑圧の被害を俯瞰することができて、自分は被害を受けていた存在だったと気づくのであればそれは感情移入をしつつ、他者を媒介にして自分を変化させていることになる。

 桑野の本では、この感情移入の後に「外在性」(外部に位置していること)について説明するくだりがある。他者に対して完全に外在している自分がいるとすれば、それは他者に対して「モノ」と扱うきっかけにもなりうる。桑野はこのような外在性は、他者との自立において必要なものではあるが、悪用も可能ではないかと述べている。

 これは矛盾である。

 その矛盾をどう解決するかといえば、バフチンは「余剰」という概念で解決する。

 一体化せず、つまり相手に感情移入せず、相手に見えないものが自分には見えているという〈余剰〉を生かすべきだというのである。

 これは今ぼくが述べたことを角度を変えていっているのではないかと思う。

バフチンのこうした姿勢からは、ハンナ・アーレント(一九〇六—七五)の「暗い時代の人間性について」(一九五九)が思い起こされる。アーレントは、政治空間においては〈同情〉は〈距離〉を廃棄し、その結果〈多元性〉をも破壊するため、他者にたいする相互承認の基礎たりえないと考えていた。〈同情〉は〈連帯〉とはちがうというのである。バフチンもまた〈同情〉ではなく〈友情〉を、〈統一〉ではなく〈連帯〉を志向していたといえよう。(桑野隆『増補版 バフチン カーニヴァル・対話・笑い』p.52、平凡社ライブラリー

 

 他にもいろいろな触れたい論点があるが、これくらいで。

 バフチンの対話主義のエッセンスは、本書の「おわりに」のラストに示されているように、

 

世界では最終的なことはまだなにひとつ起こっておらず、世界の最後の言葉、世界についての最後の言葉は、いまだ語られてはいない。世界は開かれていて自由デリ、一切はまだ前方にあり、かつまたつねに前方にあるであろう。(6.187)

 

ということになる。永遠に未完であり、相互作用を受け、変化し続けているということだ。

 でもそれって弁証法の世界観じゃないのか?*2

 

 

*1:バフチン自身は「劇というものはその本性からして真のポリフォニーとは無縁である。劇は、多面的たりうるが、多世界的たりえないのであって、複数の計量システムではなくひとつの計量システムしか許容できない」!と言っている(バフチンドストエフスキイ論』)。しかし、これは劇といっても古典的な劇を念頭に置いており、そこでは作者が主人公を統御しているイメージを強く持っているのだろうと思う。

*2:「以上のようなバフチン的対話原理は、弁証法とどのような関係にあったのだろうか。/じつは、つぶさに見た場合、この点に関するバフチンの見解はけっして一貫しておらず、著作によってニュアンスの相違が見られる。しかし少なくともバフチン本人名の著作においては、弁証法(特にヘーゲル[一七七〇—一八三一]の弁証法)に否定的である」(桑野隆『増補版 バフチン カーニヴァル・対話・笑い』、平凡社ライブラリー、p.157)。バフチンが否定しているのは、ヘーゲルが、後輩たちによって歪められてしまった予定調和な「正反合」の図式に押し込められた弁証法ではないのか、と思った。だって、バフチンの対話主義ってホント、モロ弁証法だもん。