宮崎学『死を食べる』


死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る〈2〉 子ども向けの絵本、というか写真で構成された絵本である。
 死んだ動物が他の動物にどのように食い尽くされていくかを写真で示している。図書館で偶然手に取った。


 サンドウィッチマンでピザ屋のコントを思い出した。
 配達を終えて帰ろうとした宅配ピザ屋(富澤)に、客(伊達)が気づいて騒ぐ。

伊達「あら、おいおいおい、お前、これピザ違うんじゃねーの?」
富澤「はい?」
伊達「俺、シーフードピザ頼んだんだよ」
富澤「はい」
伊達「お前、シーフードってわかってんの?」
富澤「あっ、シーフードっていうのはぁ、死んで間もない魚介類がたくさん入ってます」
伊達「『死んで間もない』とか言うな。気持ち悪いだろ」

 「新鮮な魚介類」っていうのは「死んで間もない魚介類」のことである。本書『死を食べる』にはこういう一文がある。

 ぼくも魚を食べるのが大好きだ。とれたて新鮮な魚がごろごろころがっているのを見て、それを死がいだとは感じない。どっちかというと「うまそう!」と思う。
 鳥たちも、きっと、同じ。魚を「うまそう!」と思って、集まってきているんだ。(本書p.32)

 この絵本は「動物の目で環境を見る」というシリーズであり、動物の死骸は他の動物から見ればまさにご馳走だという視点がある。


 一番の見ごたえは、最初にある、車にはねられて死んだキツネの死骸だ。ウジが毛皮を食い破って体全体からあふれだす写真は、その写真だけ違うように見える。おそらく腐汁であろうがキツネの体が見えなくなり、ウジに覆われている。「腐ったにおいは最高潮にたっしている」(p.10)とあるから、このあたりが、人間から見るともっとも凄惨な光景に違いない。
 こんなにもたくさんのウジがわくものかと思うほどウジがわいている。
 そして次の写真。
 そのウジをハクビシン(ジャコウネコ科の哺乳類)が食べにくるのである。
 そうか、ウジは食べられるのか、と気づく。
 自然のバランスを保つほどに、ハクビシンはウジを食べてしまうのである。いわばハクビシンの餌をここで養殖したようなものだとさえいるのだろうか。

 絵本の表紙にある魚の死骸を食べにくるのは、ヤドカリである。目の周りからまず食い尽くされるというのが、面白かった。


 この絵本は、「死が、いのちをつないでいる」(p.34)という結論を導いているが、小3の娘といっしょにこの本を読んだ時、そのようないわば「教訓」「道徳」的な空気は一切なかった。つうか、娘はその結末あたりはもういっしょに読んでなかったし。
 明らかに、死体への興味・関心からこれを見た。
 死体の変化を描いた「九相図」を見る不思議と同じである。暴力やセックスの描写に興奮するのに似てはいまいか。
 だが、そうだったとしても、死んだ動物がどのように他の動物を養っていくのかという自然科学的な教育にはなる。


 ここにないのは、「におい」である。
 このような死がぼくらに耐えきれない嫌悪感をもたらす最大の要素はまさにそこなのだが、絵本にはそのリアルが決定的に欠けている。しかし、それを欠くことによって、本書は成立する。
 道端で死んでいる動物は、普通であれば、ぼくを含めて娘なども目を背けるだけのものだ。見たくないもの・視野の外に置き続ける。こういう絵本になることで、それが初めて、(においを抜いた)リアルとして、ぼくらの視野に入ってくる。