『橋爪大三郎のマルクス講義』


 にゃかにゃか気持ち悪い本であった。
 微妙に合っているけど、微妙に(または大幅に)間違っているから。おまけにインタビュアーも、

はい。ちょっとかじり読みしたことを、知ったふうに口走ってしまいました。(本書p.150)

って何だよ。

橋爪大三郎のマルクス講義 (飢餓陣営叢書)



 たとえば橋爪のマルクス評価は「ニュートンに匹敵する」(本書p.48)という高いものであるが、そう評価したすぐ後に、正規と非正規の問題、正社員と派遣労働者の問題、すなわち格差の問題は「こういうふうになっていない」(本書p.49)というのである。なぜなら「マルクスのモデルは、同一労働同一賃金」(同)だからだと。
 橋爪は別のところでもくり返しこの問題にふれていて、マルクスは「すべての労働は単純労働に一元化されていて、労働の質は無視されていて、時間で測れる」(本書p.134)とか、「すべての労働は同一・同質で、複雑労働とか技術労働とかは一切ないと考える」(本書p.154)としているとかのべている。


 おいおい…。


 ツッコミどころ満載というやつである。

やってはいけない混同

 まずマルクスは、労働者が支出する労働と、労働力商品の価値(賃金)との間には何の関連もないということをくり返し述べている。つまり労働者が生み出した価値と、労働者の賃金との間には関係がない、ということ。「賃金は労働の報酬ではない。労働者が明日も元気に生活するためのおカネ」とマルクスは考えた。この混同は絶対やっちゃいけませんよ、とくり返し述べているのに、そのことには橋爪は何の言及もなしである。
 この点、木暮太一は『カイジ「命より重い! 」お金の話』『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』などでこのマルクスの賃金論を使って成果主義賃金のウソをあばいている。こっちのほうがよほど現代的である。
 マルクスは、労働力価値が何によって規定されているかと問うて、労働者本人の再生産費用(生きるための費用)とともに、家族の繁殖費(扶養費用)、修業費などを挙げている。日本の年功序列賃金は、基本的に家族の繁殖費、つまり子どもの教育費や家のローンなどが反映されたものだ。学歴で賃金を区切るのも、良し悪しは別にして修業費が反映されている。
 ところが派遣をはじめ非正規労働者にはこの分、家族の繁殖費と修業費がほとんど反映されていない。「異なる賃金」がなぜ「同一労働」に支給されているのか、ちゃんと想定されているのである。

産業予備軍論のエッセンスを抜くな

 さらに、マルクスの産業予備軍論は、今日の正規労働者の過重労働と、非正規労働者の半失業的な不安定さを見事にあらわしている。
 ぼくも『理論劇画 マルクス資本論』で解説したことだけど、マルクスは、資本蓄積にあわせてリストラが進み、失業者や半失業者(相対的過剰人口=産業予備軍)がふえていくとして、すでに働いている人の重りになっていくことを指摘している。
 橋爪はこの本で産業予備軍論を紹介しているのに、そこにはまったく言及なしというか頓珍漢な解釈をしている。マルクスのエッセンスを抜くな。

単純労働と複雑労働

 もうひとつ。『資本論』の最初では単純労働と複雑労働の違いについてわざわざ焦点をあてて書いている。複雑労働は「一切ない」などということはないのである。複雑労働が単純労働の倍数に還元できるというのはその通りだが、橋爪はこうしたマルクスの議論について何の説明もないんだよね。

 だいたい、正規と非正規の話をしているときに、なんで「労働の質の違いをマルクスが説明できなかった」という話をしてるの? おかしくね? どう考えても「支出されている労働の質の違いはない」という話だよね? そこは。


なんでマルクスが反対した賃金鉄則をマルクスの議論にしてんの?

 さらに言おう。
 橋爪は労働者の賃金は絶対的な生存水準に固着するごとくマルクスが言っているように描いているが、これは「賃金鉄則」という議論で、古くからある議論である。
 逆だ。マルクスはこれに反対したのである。
「賃金鉄則」を使って「賃上げ闘争をしても仕方ない」という議論がマルクスの時代には横行した。これに対してマルクスはインタナショナルで猛反撃し、『賃金・価格および利潤』というパンフレットにそれをまとめている。
 こうした成果は『資本論』にも反映されている。
 賃金闘争によって、絶対的な生存水準だけでなく、文化的・社会的水準もふくめて労働者の再生産条件は引きあがっていくことをのべているのである。

「資本家はいなくなった」という議論

 インタビュアーの佐藤が、『資本論』は思想書でなくて経済書だということに腰が抜けるほど驚いているようだが、これもおかしいのでは。
 この議論はレーニンの頃くらいからあるし、日本でも宇野派はこういう扱いをしている。そして現代でも池上彰なんかはこういう『資本論』解釈だよね。
 そこから、資本家を打倒しても資本は残る、だからマルクスの革命論はクズだ、みたいな話になっている。
 社会運動であるインタナショナル関連のマルクスの文書を訳したぼくの立場たるや一体…。


 資本家を打倒する、っていうのは、人間集団としてそれらをなにか抑圧するというイメージよりも、資本家はあくまで資本の人格化なのだから、資本そのものを規制する、コントロールする、アウフヘーベンする、っていうことのほうが大事だよね。
 これもぼくが『理論劇画』のコラムで書いたことだ。
 マルクスはどちらのイメージだったかのかは確かに判然としない点もあるんだけど、後者のイメージも明らかに持っている。だから、橋爪が資本家はいなくなったなんて大騒ぎしなくても、資本をどう規制するかと考えれば、それはマルクス流だといえるはずだ。
 だいたい、橋爪は、資本とはなにかということを定義して、


資本は、経済的な意味を持っていて、資本家がいようといまいと、生産に関与する。経済学をよく知らない人のために、もうちょっと注意すれば、生産過程に投入されて、一会計年度を越えて、持続して、生産に使われるもの。一会計年度内に消耗してしまうものは、原材料という。一会計年度を持ちこして、使われるものが、資本といわれる。(p.104)


 うわぁ…。あのさあ、こういう「資本」概念があるのはいいんだけど、いまマルクスの話をしているんだよね? これ全然マルクスの「資本」概念じゃないよね? 無前提にこれが「資本」ですって定義をやらかして、だから資本はなくなりません、ってどうなの? 橋爪は、共産主義になっても資本は残るっていうわけだよ。一会計年度を越えて生産で使われるものだから。もうね…。


 この本は全体として粗雑。
 一番悪いのは、橋爪が「大ざっぱ」な議論をしていること。細かい議論をやれというのではない。「大づかみ」でやるならむしろ初心者に論理の骨格をつかんでもらううえで有益になる。
 ところが、橋爪がやっちゃったのは、マルクスの重大なポイントをぜんぶ俗流の議論におきかえて、マルクスと反対のイメージで肝心のところを語っちゃっているということだ。これはダメだ。
 インタビュアーがマルクスをあまりよくわかっていないということも、この場合は災いした。
 「新書」ではないんだけど、新書によくある、「専門家が書き散らした新書」という感じのものに近い。