所十三・真鍋真『COMIC恐竜物語』


 年末に「ウォーキング・ウィズ・ダイナソー」を親子で観に行った。まったく偶然に新聞の広告が目についたためである。「CGでリアルっぽく恐竜が動くのはいいな」と思ったからである。自然科学番組を見せるような気持ちで。BBCアースフィルムズ(『ライフ』の制作会社)という宣伝文句も効いた。すいませんね、科学番組を見せたがる親で。

好きな子は動物図鑑のハチュウ類を全部おぼえてしまうこともある。だがそれだからといって生物学をやらせようと思わないほうがいい。おとなになるまでに忘れてしまう。(松田道雄『定本 育児の百科』下、岩波文庫、p.340)


 白亜紀末期。角竜(トリケラトプスの仲間)であうパキリノサウルスが主人公で、その移動にともなう困難をめぐる物語になっている。


映画評は二分してるな。
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tymv/id345922/

 酷評をしている人は、

  1. 映像は美しいが、話がおこちゃま。
  2. 声優がひどい。
  3. ドキュメンタリー的でなく、動物(恐竜)に人間の感情を持たせてしまっている。


などの理由が目立つ。
 うん、酷評している人の理由はおおむね納得できるんだが、それをふまえたうえで、ぼくはあの映画を評価できると思っている。声優に違和感があったのは同じで、主に主人公のパッチ役の木梨と、狂言回しとなるアレックス役の中村だろう。「おまけにあのアメリカン?な喋り口と、あのテンポの速さが相性最悪。サブいぼたちました」という感想に同意。あの点だけはどう考えてもマイナスである。
 話がおこちゃま、という点は、もともと恐竜がきれいな映像で、なおかつある程度の考証のもとで動いてれば問題なかったので、話自体はどうでもよかった。しかし最初はノレなかったものの、ラストでタルボサウルスと闘うシーンは、ベタとわかっていても結構ドキドキしながら見てしまった。思わぬ収穫、くらいで。

「ドキュメンタリー的でなく、動物(恐竜)に人間の感情を持たせてしまっている」という評価

 さて、最後の「ドキュメンタリー的でなく、動物(恐竜)に人間の感情を持たせてしまっている」という点。
 マンガの世界では、動物を徹底して突き放して描くか、そこに人間的感情を搭載させてしまうか、描き方がある。
 この場合、たとえばディズニーや「トムとジェリー」、いがらしみきおぼのぼの』、ヒガアロハしろくまカフェ』のように完全に擬人化してしまっているものは除外しておく。
 そうではなく、自然条件と同じ生態をしているのに人間的感情を持っているかいないかということである。
 たとえば、高橋よしひろの『白い戦士ヤマト』をはじめとする犬シリーズ(ひどい略称だが)みたいな感じである。飯森広一は『レース鳩0777』なんかでは、完全にこのグループ。リアルっぽく人間たちがレースを争っているのにあわせてレース鳩自身が心理的葛藤を見せたりするという、あまり他では例をみない、フェーズの交錯というか、ぶっちゃけ「そこで、これ入れちゃっていいの?」的なマンガである。

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 他方で、飯森広一は『ぼくの動物園日記』では上野動物園長だった西山登志雄の実録になっていて、動物たちは『レース鳩0777』ほどには擬人化されていないのだが、動物たちのみせる表情は、明らかに人間側の解釈が反映していて、非常に人間的である。




 谷口ジローなどは徹底して客観描写をつらぬいていて、シートン動物記をコミカライズしたとき(初期もしているがそちらは未確認)はこの手法をとっている。飼い犬の老いと死を描いた『犬を飼う』も、人間側の激しい感情移入が作品にはあふれているのに、犬自体の描写は厳格に自然主義的なリアリズムを崩さない。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/inuwokau-nagainagai.html


 これに対して、矢口高雄は、まあ……さすがに魚の描写にはどこにも人間的なものがなくて自然主義的だけども、熊なんかを描かせるとちょっとだけ人間の風味がにじみ出る。これはキャラクター設定ではなく画風の問題なのだが。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yaguti.html


 最近の潮流は、やはりこうした突き放した動物観であろうか。



 青木幸子『ZOOKEEPER』などはその最たるものだし、山浦サク『ケモノみち』などもこうした系譜に属する。いずれも動物園の飼育モノである。ただし、『ケモノみち』ではいじめに遭う小猿を2巻で描くとき、そこはかとなく表情が出てしまっている(上図)。上は表情が出てしまうとき、下はふだんの描き方である。*1主人公の晴子が飼育に理想やロマンを載せることを捨て切れないでいるのと同様に、作者も動物の客観描写に徹することができない。そこが味でもあるが。

『恐竜物語』における人間的感情

 さて、そんな中で所十三『COMIC恐竜物語』(真鍋真監修、ポプラ社)を昨年の9月2日号の週刊プレイボーイで書評させてもらった。
 所十三といえば、『名門! 多古西応援団』『疾風伝説 特攻の拓』『仰げば尊し!』がぼくらの世代ではすぐ浮かぶので、「硬派」「ヤンキー」マンガがすぐイメージされる。


 ところが、所は恐竜マニアとしても有名で、『DINO2』『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』などは恐竜関連のものである。
 この『COMIC恐竜物語』は、国立科学博物館の研究者も監修している「子ども向け科学学習マンガ」なのである。


 学研のひみつシリーズのように、人間が解説をするわけではない。なんと恐竜たちが厳密な時代設定をされたまま、そしてほとんど人間的な表情をせず、恐竜の自然主義的リアリズムでの表情のまま、人間的な会話をするのである(右図)。しかも関西弁っぽかったり、擬似茨城弁、ヤンキー言葉みたいな感じで。


「だから“狩り”に来たんちゃうて! こっちは急いでんのや! 話聞きい!!」
「チョーシこいてんじゃねえぞ コラぁ!!」
「だべ? だべ?? キマってたべ!?」
「武闘派の魂……忘れやしやせんから!」


 さすがに硬派・ヤンキーマンガの名手であるが、娘と絵本的に読んだりするとき、ヤンキー言葉がどうにも柄が悪い上に、恥ずかしい……。

 人間の言葉でしゃべったり考えたりするのがいいなと思えるのは、子どもの空想癖やごっこ遊びの中に、実に容易に取り入れやすいからである。つまり、遊びの道具にただちに転嫁できるのである。


 親しんでくれさえすればそれでいい、とぼくは思う。

所の恐竜オタクぶり

COMIC恐竜物語 ティラノサウルスのいた時代 (コミック恐竜物語) 所はただ作画担当というだけでなく、恐竜そのものついても詳しい。「3000点くらいの化石や標本レプリカを所有していて、夏休みに各地で開かれる恐竜展に貸し出すこともあります」(西日本新聞2014年1月9日付)。購入した草食恐竜の下あごの化石が、中国・ソ連の学術調査隊が1959年に発見したものの行方不明になっていた部分であることがわかり、中国の研究所に寄贈したりしている。


 だからこそ、監修をしている真鍋が厳密な条件設定を行ない、その許された条件の範囲で「自由な想像」をするのだが、その「自由な想像」自体が科学的な痕跡を残している。
 たとえば2巻で首の長い竜盤目の一種であるディクラエオサウルスの仲間と、小さい翼竜であるランフォリンクスの一種が「共生」していたのではないかと想像する。
 ランフォリンクスの口は、ディクラエオサウルの体にいる寄生虫をそげ落として食べるのに適していたのではないか、とか、現在のキリンと鳥の共生関係から想像して血を吸う原始的な鳥や翼竜もいたのではないか、とか。それをネタに物語を立ち上げていくのである。


 ティラノサウルスに羽毛が生えていたかもしれない……というのは、小さい頃しか恐竜の情報に接したことのない大人にはかなり衝撃的なティラノサウルス像であろう。
 4巻で、所と真鍋は対談をしていて、この「ティラノサウルス羽毛説」から始めている。
 そもそもぼくら40代が接してきたティラノサウルスは直立に近い、ゴジラ的イメージだった。ゴジラのように動きも緩慢であった。それが「ジュラシック・パーク」を観るころには、尾と頭を地面に水平にして太い脚で、「T」の字に立ち、敏捷に動き回るものに変貌していた。
 ここへきて羽毛である。
 対談によれば、小型のティラノサウルスの仲間の化石には羽毛があり、小さいころは羽毛があったのではないか、大きくなったら羽毛がなくなったのではないか、というイメージが「かなり普及している」(真鍋)ティラノザウルスのイメージだという。大人になってもなお羽毛があったら体温が高くなりすぎるのではないかと。
 ところが、全長9メートルのティラノサウルスの仲間の化石に羽毛があったものが発見されたことから、「成獣にして羽毛のあるティラノサウルス」というイメージが強くなってきたのだという。
恐竜 (ポプラディア大図鑑WONDA (7)) 娘が買った恐竜図鑑(『恐竜 ポプラディア大図鑑』)は偶然真鍋真が監修しているのだが、そこでは、たしかにティラノサウルスは羽毛で覆われたイメージで描かれている。

【悲報】ティラノサウルスの想像図がいつの間にか変わってる : まとめでぃあ 【悲報】ティラノサウルスの想像図がいつの間にか変わってる : まとめでぃあ

 所は、こうした学説をふまえたうえで、それでも大人のティラノサウルスに羽毛があることへの違和感を語っている。

でも、僕はティラノサウルスに、羽づくろいができたのかが、疑問なんですよね。ティラノサウルスは巨大なからだのわりには前あしが小さいので、前あしが背中に届かないのではと。羽毛の維持には手入れが必要だと思いますが、ティラノサウルスに羽毛の手入れは難しかったと思います。


 真鍋はこれをうけて、「その点については、確かな回答ができません」と答えている。
 このように、学者の意見と学説の基礎をふまえて、その間を自由に想像させているのである。「検証可能な仮説を提案するのが、科学者の仕事です。漫画は、あらゆる可能性を模索できるのが武器ですが、可能性に限界がない分、大変ですよね(笑)」とは真鍋の言葉であるが、これはこのシリーズの魅力を本質的に言い表してる。



 恐竜には進化系統においてだけでなく、発見された化石の個体においてすら想像の余地が大きい。どんな色だったか、どんな暮らしをしていたかは想像する他ない。しかも「ちょっとした」新証拠の発見で、その想像される姿が一変してしまう。


 ヒサクニヒコ『恐竜研究室2 恐竜のたたかいにせまる』は、どのような必然から恐竜がそうした姿をしているのかを絵本感覚で解き明かす。たとえば、ステゴサウルスの背中についている剣はどのような形状でついていたのか、とか。何のためのものなのか、とか。こうした楽しさが恐竜にはある。


 真鍋と所の対談では、お互いの見解をたたかわせるシーンもある。


 トリケラトプスは草食ではなく雑食として所が描いてる理由を尋ねられ、所はこう答える。

鳥脚類〔イグアノドンのような恐竜──引用者〕のような便利なアゴもなく、竜脚類〔昔の分類でいうブロントザウルス(現アパトサウルス)のような恐竜──引用者〕のような巨大な腸も持っていないのに、トリケラトプスが、あれだけの大きな角やえり飾りを形成するためのカルシウムをどうやって手に入れたか考えると、草だけじゃなくて肉も食べたほうが、手っ取り早いと思ったのです。

 所先生、パネェ……
 真鍋はこれへ反論しつつも、「それが正しいかどうかを検証するには、トリケラトプスの胃の内容物が見つかるかどうかですね」としている。そのうえで、真鍋の言う、次のスタンスが「子ども向け科学学習マンガ」には重要なのだろう。

でも、一番大事なことは、そんなことはないだろう、ありえるかもしれない、などの考えを提供することだと思います。この漫画から、いろいろ考えをめぐらして、将来、重要な発見をする読者が出てくるといいですよね。

 ここに科学マンガにおける虚構のもつ特別な意味がある。

 それにしても、この4巻なんだが、主人公が角竜(トリケラトプス)だし、対抗する敵役が獣脚類(ティラノサウルス)だし、「ウォーキング・ウィズ・ダイナソー」にそっくりなんだよね。対比して観るときっと面白い。*2

*1:上は山浦、講談社2巻p.151。下は同p.127

*2:ちなみに、上記の映画のプロモーション動画のラストで真鍋が推薦文を書いている。