この本は簡単に言えば、行政に対する国民のコントロールの強化を訴えている本である。
立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと。これによって、近代政治哲学が作り上げてきた政治理論の欠陥を補うことができる。(國分p.17-18)
なんだそれは。そんな本は山と出ているではないか。と思うかもしれない。
ぼく自身、そのあたりの目新しさがどれほどのものなのかは正直よくわからない。
著者・國分功一郎がいいたいのは、近代民主主義の主権という考え方は、立法権を中心に成り立っているけども、それはタテマエにすぎず、実際には行政がいろいろ決めているから、行政に主権の関与が及ぶような改革を積み重ねていくべきだろう、ということなのだ。
まあ、これだけ聞いても、ふーん、としか思わないだろう。
うん。ぼくもこれだけの主張の本だったら、買わなかっただろう。
新鮮な目で社会運動を見つめ直した点が面白い
東京の小平市を通されようとしている都道328号をめぐり、そのような死んだ計画をよみがえらせて道路を通そうとする行政側に対して、住民側はそれに異を唱え、住民投票を提起し、その実現にこぎつける。國分はこの住民運動に参加し、その体験から本書を綴ったものである。
この本は、これまで実践的な住民運動にとびこんだことのない学者がそうした運動にかかわってみて、旧来のあれこれの運動のスタイルを批判したり、あるいは納得したりする、その様が何よりも面白いのである。
サヨクの活動家であるぼくにしてみれば、何と言うのかな、ルイス・フロイスがみた日本、みたいなのを読む気持ち。
ルイス・フロイスは安土桃山時代の日本に来て、たとえばこういう日本文化観察をしている。
- われわれの間では普通鞭打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ〔言葉?〕によって譴責するだけである。
- われわれの間では世俗の師匠について読み書きを習う。日本ではすべての子供が坊主bonzosの寺院で勉強する。
- ヨーロッパの子供は青年になってもなお口上ひとつ伝えることができない。日本の子供は十歳でも、それを伝える判断と思慮において、五十歳にも見られる。
- われわれの教師は、子供たちに教義や貴い、正しい行儀作法を教える。坊主は彼らに弾奏や唱歌、遊戯、撃剣などを教え、また彼らと忌まわしい行為をする。
(フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波、p.64-65)
異文化の人間が、すっかり慣れっこになっていることを見た時の新鮮さ。しかもそれは観察者としての一定の洞察力があるので、聞いているこっち側は楽しいのである。
楽しいだけではない。面白可笑しいことなら、まあ、あれだ、×××にも言える(お好みの文化人の名前を挿入してください)。國分には社会運動の観察者として大事な資質がある。それは後で述べよう。
「反対」ばかりの運動への批判
「新鮮」というのは、必ずしも「そんなこと初めて聞いた」ということばかりではない。
運動の歴史の中ですでに言われまくっていることを、驚きをもって発言する、その感覚コミで楽しいのである。「あ、そこに感動するわけね」と。
たとえば、“反対反対ばかりの運動じゃダメだ。住民投票をするにしても賛成か反対かじゃなくて「住民参加で計画を見直すか、見直さないか」を問おう”という話が出てくる。
道路計画についても、ただ「反対、反対!」と言われ続けていたら、事業主としては頑な推進を唱えるしかないだろう。誰も自分たちの非を認めたくはないからである。だが、「こうするともっといいのではないですか?」「これならば事業を変更しても周囲に説明ができますよね」という仕方で接することができれば、その時には何も言わなくても──行政官は絶対にその場で答えを出すことができない──、もしかしたら、ある時に突然、事業は変更されるかもしれない。(國分p.75)
これは、何かの反対運動をすると、一再ならず言われることだ。言い尽くされた感さえある。
俺も言わせてもらおう
だけど、こういう國分的な感覚が大事なときもあれば、まったくダメなときもある。
すでに國分は住民投票制度の勉強をしているだろうから、釈迦に説法であろうが、たとえば新潟県・巻町。あそこでは原発建設をめぐる住民投票がおこなわれ、「賛成」「反対」で運動がすすみ、投票の選択肢もそのようになった。そして「反対」がダブルスコアで圧勝し、原発の建設は阻止された。
ぼく自身の経験でいえば、勝利的体験をしたものとして、「福岡へのオリンピック招致反対運動」がある。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/fukuoka-olympic.html
この運動も「反対」だけだった。
これでおしまいまで行った。市民の6〜7割がどういう世論調査でも反対をはじき出し続け、結果的に「福岡市落選」という形で決着がついたものである。
ここにもし「反対」以外のもの、たとえば「かわりの都市振興策」などを出していたら一体どうなっていたか。あるいは「反対反対ではなく『住民参加で招致計画を見直そう』というスローガンにしようぜ」となっていたら?
失敗しただろう。
だいたいずっと運動していて、「オリンピック? おれはやってもいいと思うよ」という声は聞こえたけど「お前ら反対反対で無責任だよ」という声はほとんど出会わなかった。「かわりの都市振興策」など、まとまるはずもないし、まとまる必要もない。こんなムダづかいはやめろ、という一点だからこそ、まとまったのである。
様々な思惑が住民の中にある。そのときに「反対」という一点は、そうした思惑をこえた、多様性を認めあう共同点になる。
長年、運動をしてきた左翼活動家は、むしろこのことがわかっているので、何が共闘の一致点なのかをたえず確認し、そこから外れないように腐心する。「困ったちゃん」は、ワークショップとかで考え出してきたヴィジョンを運動に押しつけようとしたり、あるいは「そういう肯定的ヴィジョンを各人が主張する運動はすばらしいが、『反対』だけ唱える運動はダメ」などといって、「反対」の声を抑圧し、「反対」のスローガンをぼかしてしまったりする。
だから、國分が見てきた、「反対、反対!」としか唱えていない運動にもそれなりの必要性があってああいうスタイルが生まれてきたのであって、しかもそれはかなりの合理性をもっていることを知ってほしいのである。
國分はそういうことを一定わかっているのだろう。次のように書いている。
たとえば、「反対、反対!」と言っているだけでは誰もついてこない。行政が耳を傾けてくれるようにはならない。ならば糾弾するのはダメで、提案しなければならない。運動が分裂してはならないから、道路計画のあり方について見解を一元的に統一することは避けねばならない。こうした仕方で、問題解決という目的そのものがうまく運動全体を導いていく。住民が運動の仕方を、運動しながら学んでいくのだ。(國分p.78-79)
「運動が分裂してはならないから、道路計画のあり方について見解を一元的に統一することは避けねばならない」と書いているから、國分はぼくの上記の指摘についてよくわかっているのである。しかし、「提案しなければならない」ともいう。その間にある「矛盾」をどう國分は考えているのか。上記の箇所付近にはあまり書かれていないが、ワークショップやイベントなどで討論と学習を重ねて合意をつくっていくことをおそらく國分は考えているのだろう(本書第4章参照)。
運動の中で積極的な対案が必要になる局面は、運動の性格によっては、ある。
たとえば福岡市では人工島という公共事業があって、市が税金を使って埋立をし、その土地を売ってもうける(少なくとも税金分は穴埋めする)というスキームだった。ところが、全然土地が売れずにこのままいけば大赤字になろうとしている。
福岡市民は、人工島事業についての住民投票をやって事業継続の賛否を問おうとした(この直接請求は成立し、条例案が議会にかけられたが、否決された)。
住民投票条例案は、人工島事業の継続への賛否を問うものだった。
しかし他方で、「では、事業をやめた場合、人工島の売れない土地をどうするつもりなのか?」という問題は残る。こうしたときに、ワークショップで話しあいをしながら、肯定的なヴィジョンを出す、というのはアリだと思う。
だが、それは運動のメインにはならない。
「これ以上の税金投入をやめよ」ということで市民全体の一致を得ながら、運動側があくまで持っている案として「人工島の売れない土地をどうするつもりなのか」を考えておくべきなのだ。
いや、もちろん、これさえも一律の結論ではない。
運動の性格によっては、積極的なヴィジョンそのものが大事になるときがある。
ぼくの家の近くの通学路で事故が頻繁に起きている。かなり複雑な五差路。歩車分離信号、歩道橋、交通規制……様々な対策が挙がるが、どれも一長一短で、住民も警察も改良をしかねていたんだな。
そこで、ぼくも参加して地域の自治会みんなで「とりあえずbestではなくてもbetterなものを」ということを決め、歩車分離式信号を設置することにした。
これなんかは、まさにヴィジョンというか、政策次第。「交通事故反対」とかかかげたら、笑いもの必至である。
「総決起集会」的ポスターが必要になるケース
「スタイリッシュなポスター」についての意見も書かれている。
國分がかかわった運動ではスタイリッシュなポスターを作ったという。
ポスターも、よくあるフォントで「何々を絶対ゆるさない! 何月何日総決起集会!」などといったものにしてはならない。そんなポスターを作っても誰も「決起」してはくれない。既に「決起」している人たちが集まるだけである。この手のポスターには、よく「敵」陣営の人間がカリカチュアで描かれていたりするが、そういうのもダメである。(國分p.103)
はい……。肝に銘じます。(震え声)
でも。
あえて一言いわせてもらうと、ああいう「総決起集会」というものは、どこに対して通用するかといえば、「既に『決起』している人たち」、組織構成員のうち、活動分子(積極的に活動している人)に対してである。こうした活動分子は長年組織の文化に親しんできたから、「気迫のこもった運動指導」とか「指導部がハイテンションのやる気」というものを、さまざまな伝達のコードから感じ取る。組織を締まった状態にしてテンションを高めるやり方を長年、特定の方法で続けてくると、その臭いがしないとできなくなってしまう。
だから、ある範囲ではそういう言い方の方が効くときがあるのだ。活動分子が高い熱量で運動を始め、「総決起集会」的な狭い視野のポスターをたくさん貼ったり普及したりしつつ、自身のテンションをあげていき、結果的に人にたくさん働きかけ、署名だの集会人数だのが、飛躍的に大きくなることがある。あるのだよ(胸ぐらをつかんで叫ぶ)。まあ、それをくり返しているとその「引き締め」が効く活動家だけが残って、新陳代謝がなくなるから、先細りになっていくわけだけど。少なくとも短期では動員を効かせることができる場合がある。
何がいいたかったのかといえば、國分のような新鮮な気持ちで運動にとびこんで、新鮮な感想を出してもらうのは貴重なことなんだ。それは間違いない。だけど、古くからあるやり方の合理性にも目をむけてもらって、どういう条件でその古くからあるものが成り立っているのかにも注意をしてもらえれば、無用な混乱をおこさずに、新旧がうまくやっていけるのではないかと思うのである。
國分の提案を吟味する
さて、本書の主張にとって肝心な部分は、行政に対する関与をどう強めるかというまさにその提案にある。
簡単にいえば、一つは、「いつでも一定数の住民が提起すれば住民投票が必ず実施できるようにせよ」という提案、二つ目は審議会・パブコメが恣意的・無意味なものにならないようにルールをもうけよという提案、三つ目は、ファシリテーターを入れたワークショップの活用、ということになるだろう。
この3つはとても常識的な主張である。
言い方をかえれば陳腐なのである。
しかし、前の記事でも書いたが、それがとても大事なことだ。
「陳腐」であるにもかかわらず、本書がいいなと思えるのは、國分がまじめだからである。まじめに運動にとびこんで、まじめに汗をかき、その実感からこれらの点を提案していると思えたからである。
最初の方で述べた、観察者としてただ「面白い」にとどまらない、國分の重要な資質とは、まさにこのことである。
このようなまじめな運動の体験の中から生まれた「近代政治哲学の重大欠陥への警告」というのであれば、傾聴に値するとぼくは思って、本書を読んだ。
住民投票改革は保守支配の根幹を崩しかねない
まず、住民投票の改革であるが、もしこうした制度が実施されれば、地方自治において制度革命に近い変化を与えられる。
長年地方議員の選挙にかかわってみて、何らかの政策争点にもとづいて議員の議席が増減するということはなかなか難しい。もちろん、絶対にないわけではない。しかし、それは過半数を得るかどうかという数議席が微妙に動くというもので、劇的に力関係がかわるということは、少なくともぼくの体験からはほとんどない。
政策争点ではなく、「政治的勢い」で、たとえば日本新党とか維新の会とか減税日本とかがたくさん増やす、というのは見たことがあるが。
政党や議員を選ぶ場合は、シングル・イシューが個々人の選択には影響を与えても、自治体全体の規模で見て、大きな作用を及ぼすことは難しいのである。
他方で、首長(知事や市町村長)の場合は、1つの問題で選挙が争点化されることはよくある。ただ、その場合でも、任期の4年の間に他の問題が出てきた場合はなかなか動かしがたくなる。
実感としていえば、特に保守系議員というのは、政策的選択とは対極にあって、「会社の代表」「地域の代表」という、組織的には緊密な、しかし政策的には実にあいまいな流れの中で支持を調達している(個別の利権問題をおくとしよう)。
もしも、政策やテーマごとに、一定数の住民が提起をすれば、必ず住民投票が実施されるようになったら、この状況に風穴を開けてしまう……というか、こうやって調達した支持を無意味にしてしまいかねない。保守系議員の側から見れば。
たとえば福岡市で、どの党の政治家を支持するかと聞けば、多数は「自民党」だと答えるだろう。しかし、「人工島への税金投入はこれ以上すべきかどうか」と聞けば2013年の現時点で「ノー」と答える人が多数になる可能性がある。
国政でも同じで、選択すべき政党として「自民党」と答えても、個別に政策投票をすれば、「脱原発」が選択されることだろう(達成期間を問わなければ)。
こういう問題が無数に出てきてしまうのである。
だから、もしこの住民投票制度改革がやりとげられたら、ホントにすごいことになると思う。
パブコメは本当にどうにかならんのか
審議会やパブコメについても同感である。
いま、NHK経営委員会の人選や集団的自衛権についての論議メンバーがあまりに「首相のオトモダチ」すぎて問題になっているので、このあたりは言わずもがなだろう。
ここで言いたいのは、意見公募、すなわちパブリック・コメントの扱いについてだ。
あれは……本当にどうにかならんのか。
福岡市ではパブリックコメントで寄せられた意見の処理をどう扱っているか。それは行政の内部規定にすぎない「要綱」で、次のように定められている。
第7条 実施機関は,前条の規定により提出された意見を考慮して対象事案の決定を行うものとする。
「考慮して対象事案の決定を行う」って……。どうとでもなるやん、としかいいようがない。
そして、一応次のような措置はある。
第7条2 実施機関は,対象事案の決定を行ったときは,速やかに次に掲げるものを公表するものとする。……(3)提出された意見に対する実施機関の考え方(案の修正を行ったときは,その修正内容を含む。)
意見に対して反論してくれる、というほどのものでしかない。
じゃあ、どうすべきなのか、といわれるとぼくも困る。その意味で、今回國分が述べている、
反対意見が一定の割合を超えた場合には、その論点をめぐる対話の場を用意するなど、何らかの客観的基準を設ける必要があるように思われる。(國分p.187)
に同意する。
ワークショップは免罪符に使われやすいと思う
最後にワークショップの提案について。
國分はこの提案の解説に一定のページを割いている。
だが、ぼくは、この手法については、行政が用いる場合はかなり眉唾ものであることを警告しておきたい。
福岡市では総合計画といって、これからの市の方向性を決める大きな計画をつくるにあたり、この手法をとりいれた。ワールドカフェといって、
http://world-cafe.net/about-wc.html
- 本物のカフェのようにリラックスした雰囲気の中で、テーマに集中した対話を行います。
- 自分の意見を否定されず、尊重されるという安全な場で、相手の意見を聞き、つながりを意識しながら自分の意見を伝えることにより生まれる場の一体感を味わえます。
というものだ。
ワークショップの本質的な特徴として、合意を形成する手続きが「臨機応変」といえばきこえはいいが、定まっていないのである。同じような方向をめざしている集団の中での議論ならともかく、するどく利害が対立する集団をかかえる一般社会において、合意手続きがあいまいなままにこの手法を用いることは、あいまいさを利用して利害対立を隠し、結局は主催者=行政の思惑のとおりに事を進め「意見を聴きました」という体裁を与えるだけの免罪符にしかなっていかない。